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気にされている方がいるかもしれないから、休む前にこれだけ書いておきます。

要パス記事『私は何故、「天才」と呼ばれたのか』でまたしつこく、先生などの呼称について
「ゾゾゾと悪寒が走った」
と書いてしまいました。

また地雷ワードの多い人間だと思われてしまったかもしれません。すみません。

「まずい。自分も先生と呼んでしまった」
「黙っているけど気分を害していたかも……」
と思われ、過剰に言葉を選ぶようになってしまわれませんように。

私は普通の人に対しては、滅多なことでは怒りませんのでどうかご心配なく。

いつもブログ等々で
「失礼な奴!」
と怒っている相手は、相当に失礼な異常者のみです。
誹謗中傷書き込みをするストーカーや、攻撃目的でスパムを送って来る同業者など。つまり刑法に引っ掛かる人々。一般の方はたいていこれに該当しないはずです。

もう少し詳しく、各用語について書いてみましょうか。
(他記事と重複するところもありますがご容赦を)


「先生」という呼称


前も書いた通り、占い関連のブログを運営しているサイト主を慣習にて「先生」と呼ぶ方も多いと思います。
専門職でも同じく「先生」と呼び・呼ばれる慣習があります。

そのような慣習に、いちいち過敏に反応して怒っていたのでは頭がおかしいと思われるでしょう。
日本では「先生」という言葉を敵対視する風潮がありますが、そのように目くじら立てる人がいたら呼ぶほうも呼ばれるほうも疲れるから、もっと気楽に考えたらどうだろう?と思いますね。

私は「慣習だな」とニュアンスで分かる場合は全く気にしません。

また慣習ではなくても、本当に私の人格を認めてくださって心から「先生」と呼んでいただけるなら光栄だし嬉しく思います。
恐れ多いですがね……。
その呼称に相応しい人間になれるよう、これからも努力していかねばと思うだけです。

いっぽうで。
時々、私のブログを漁り事情を知ったうえで、バカにする目的にて「先生」と呼んで来る人はいます。
そのような人もニュアンスで分かります。
他人を言葉だけで持ち上げて本心はバカにしている。調子に乗る様子を眺めて嘲笑しようと思っている。
そんな人間として最低な心を持つ相手に対してのみ、私はいつも「慇懃無礼だ!」と怒っているわけです。


「天才」という言葉


さすがに今の私に対して、こんな言葉を言う人は皆無ですが。当たり前。笑

しかし子供の頃は言われたこともありますので、そのときの感覚を思い出しながら書きます。

「天才」もまたニュアンスによって伝わり方が変わる言葉です。
年上が年下に対して「天才」と呼ぶときは何の含みもなく、ただ素直に感心しているだけでしょう。でもその場合も、若干の皮肉があったほうが愛があります。

私も年上の方々から、皮肉を篭めた愛情を含んだ意味で「変わり者だけど天才だから仕方がない」と言われていた頃はただ嬉しいだけでした。
個性を全面的に認めてくれているだけ、という感覚があったからです。

ただし目上からの「天才」呼ばわりも、欲目からの過剰な期待になるとプレッシャーとなってしまい呼ばれた側は辛くなります。
たとえば親が我が子に対して、
「お前は天才なんだからこれだけ出来なければ駄目。絶対に出来るはず」
と期待を背負わせて結果を強いると、その子は潰れてしまうでしょう。

ヘルマン・ヘッセ『車輪の下』は、このプレッシャーと結果を描いた典型的な物語でした。

この間、「天才辞めます」宣言で話題となった ぼくのりりっくぼうよみくん も
「偶像に支配されちゃうことに耐えられない」
「天才扱いされることが本当に辛くて辛くてたまらなかった」
などと言っていましたが、気持ちは分からなくもないなと思いました。
確かにあれは辛い状況です。子供ならなおさら。
(ただ日本のミュージシャンの場合、すぐに年を取って天才扱いされることはなくなるから、逃げるのは早過ぎたのでは?と思いますが)

子供だけではありません。
大人だって期待が過剰になれば潰れてしまうもの。
年上からの賛辞に過ぎなかった「天才」が、年下や目下からの「崇拝」に変わってしまったとき、それはもはや一個の人間には背負いきれるものではなくなります。人間扱いではなくなるからです。
期待され「崇拝」された人間は、独裁者になって狂うか、まともにプレッシャーを背負い死んでしまうかどちらかの道しか残されていないかもしれません。

人間として尊重する心があるかないかで、「天才」という言葉は愛情にもなり暴力にもなります。


私が言われて嬉しい言葉


結局、褒め言葉もニュアンスが大事。
愛があるかどうか。人間としての温かな心があるかどうかが大事、というお話でした。
(批判でも同じことです。人としての愛があって筋の通る指摘なら有難いものです)

先日、『向かいのバズる家族』というドラマを見ていて、容姿でバズっている主人公が匿名で密かに続けていた活動のファンに巡り合った場面で痺れました。
同じ体験をした者として彼女の気持ちが分かりました。
最も人を強く支えるのは、容姿や才能に対する賛辞ではなく、自分の本音をさらけ出した活動を受け取ってくれる人がいたという現実です。

振り返ってみれば私も今まで言われて嬉しかったお言葉は、このブログや作品に関する温かいご感想でした。

私が何者であるのか。
どんな容姿をしているのか。
そんな余計な情報の一切に関係なく、ネットでたまたま見つけたというだけの未知の文章・作品について、温かく熱いご感想を送ってくださる。
そのような方々がたくさんいらっしゃいました。

ブログやサイトの文だけをもって、その内容を認めてくださるお言葉は最大級の賛辞です。
他の含みのない、純粋な「今ここ」を見てのお言葉に私はどれだけ支えられてきたか。

特に人格の部分を認めてくださるお言葉は最も嬉しく思いました。
(これは恥ずかしい告白ですが。私は才能を認められるより、人格を認められたいとずっと願ってきたような気がします。だから捏造話による人格への誹謗中傷で、過剰に傷付いて反応してしまうのですが)

今の人生、幼い頃から自己否定しながら生きてきました。今も自己否定から抜け出せているとは言えません。
しかし小説やブログ文に対して送っていただいた賛辞で救われています。
心から感謝しています。

【別館の関連記事】
 ⇒自己肯定感の無かった自分が、どうにか肯定感を養うまで。「孔明」になくて「のび太」にあるもの

/と、なんだかブログを辞める挨拶文のようになってしまいましたが、まだ辞めませんのでご安心を。笑
PC不調につき更新頻度は落としますのでご了承ください。
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吉野 圭-Yoshino Kei
Posted by吉野 圭-Yoshino Kei


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