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ライト?な世間話へ戻ります。

少し前になるけど賛成VS反対の議論が沸騰し話題となっているYouTuber、「少年革命家ゆたぼん」くんが気になった。
ゆたぼんはトレードマークの麦わら帽子をかぶり、「なんで不登校になったかというと、周りの子たちがロボットに見えたからです」「人生は冒険や」「不登校は不幸じゃない」「いやいや学校へ行ってる子たちの方が不幸だと思う」などとメッセージを発信している。
ゆたぼんはおととし(2017年)、大阪の小学校で、宿題をしていなかったことで担任教師とトラブルになり、学校へ行かなくなった。「先生は叩いたのに叩いてないとうそをついたから、行きたくなくなった」と話す。
現在は沖縄県宜野湾市で両親と3人の妹と暮らす。学校には行きたい時だけ行き、ふだんは自宅から動画を配信している。学校へ行くのは「給食とか図工のときとか、遠足」。友だちには「自由だなあ」と言われるそうだ。学校側も今のところは見守っている状態だという。

「不登校の自由」主張して実践中の10歳ユーチューバ「ゆたぼん」あなたは賛成?反対?より
そうだね……、イジメを受けていて自殺したくなるくらいなら学校から逃げていい。死ぬ勇気があるなら逃げて生きてほしい。
その場合の逃げるは「勇気」だ。

もし良かったら→『三国志』の「高楼対談」も参考にしてみてください。(リンク先は筆者小説。無料ページ)
「逃げるは勇気」であることもある、という典型的なお話。

「生き方の選択は自由」という考えも間違っていない。
私もどちらかといえばこちら派のタイプの人間なので共鳴できる。

皆が同じ生き方を選ぶ必要はない。
ロボットのように生産ラインに乗って同じ進路を進む必要は全くないと思っている。
実際、私は常に多数派とは違う道を選んできたし、価値観も他の人たちとはだいぶ違うらしい。
他の人たちと同じように金持ちや有名人になることが「成功」だとは思っていない。
人生に決まりきった公式などない。
精神さえ豊かで自由であれば、それこそが幸福な人生だと思っている。

 参考 社畜派、ニート擁護者どちら?など 筆者の思想スタンスまとめ

でもね……。
自由な生き方を選んでいいのは、ある程度大きくなってからではないかな。

個人差はあるけど、少なくとも十五歳までは自分で考えるのは難しいと思う。
まあ十五歳を過ぎても自分で考えられない人は大勢いるけどね。
現に「社畜やめろ」「学校やめろ」などと狂信的に叫ぶ人々の話を鵜呑みにして洗脳されている大人は多い。社畜から脱したつもりで実は教祖の言葉をオウム返しするだけのロボットと化している。
子供ならさらに洗脳される危険性は高くなる。
ゆたぼんくんも、ネットで「不登校は不幸じゃない!」と叫ぶ大人たちの話をそのまま鵜呑みにしているだけではないか(つまりちょっと洗脳されている)、という気配を感じる。

子供のうちは、何が自分に大切なのかわからない。
情報も足りないし考える力もまだ弱い。
ネットで検索して情報を得て、誰かの考えをコピーペーストするだけでは「自分で考えたこと」にはならない。
小学生では自分自身で生き方を選ぶには、いくらなんでも早過ぎる。


不可抗力が必要だということ


それに自分で考えるにはまず、不可抗力の壁にぶつかる必要がある。
壁にぶつかったとき初めて人間は一人きりで考えるようになる。

「不可抗力」って大事なんだ。
自由に振る舞えない場に閉じ込められて苦しんだり、反発した経験こそが魂(精神)を磨く。
そのとき初めて自分が求めている「自由」がどういうものかわかり、歩き出せる。

監禁や拘束、まして虐待が必要悪だと言っているわけでは決してなくて、愛情を持った親や教師のもとで自由にならない状態を味わうことも成長のために大切だということ。
親や教師も間違うことが多いけど、愛情に基づく叱責なら必要なものだったと後から気付く。大人も一生懸命だったと理解できる。

そういうことは子供のうちは気付かない。
叱られたなら、ただ逃げたくなるだけ。

ただ嫌なことから逃げるという行いは、癖になる。
大人になってからも、少し嫌なことがあったらすぐに逃げる癖は死ぬまで(実は死んでからも)続く。

逃げたことで後々大切なものを失ったのだと気付いても遅い。
二度と経験できない「小学校時代」や、「大人から叱られる経験」というものを体験したいと思っても過去には決して戻れない。
どれほど高いお金を払っても経験できない。

また、もっと怖いのは我慢するスキルがなくなってしまうことだね。
「なんでも自由」「欲求のまま振る舞っていい」と言って子供のうちに抑制を身に着けないと、衝動のまま行動する大人へなってしまう。
欲望はモンスター。
想像した以上に欲望は自分でコントロールできないから、肉体へ言い聞かせるように訓練しなければならない。
子供のうちに負うべき義務から逃げているとその訓練ができないので将来苦労すると思う。
極端な話、女性や子供を傷付ける犯罪者にもなりかねない。

不登校だった子供が全員、犯罪者になるというわけではない、もちろん。
(上に書いたようにイジメに遭って死ぬ想いをし、勇気ある選択として学校へ行かない決意をした子はむしろ抑制の強い立派な大人になるだろう)
犯罪者になるかならないかは結果論でしかない。
学校へ行かなかった子でも全員が不幸になっていない、全員が犯罪者になっていない、と主張するのはレアな成功例だけに着目した偏った考え方。そのレアケースだけをもって「だから全員が学校へ行かなくてもいい」と言うのは間違っている。

今のところ無償で受けられる学校教育はお得な制度だ。
「不可抗力」を学んで我慢する訓練をするには最高の場だと思う。
また、同年代の子との思い出を作るという意味ではこれほど有り難い機会はない。
かけがえのないその機会を、少し嫌だからといって捨ててしまうのは単純にもったいない!と私は思う。


私にとって、現代の「学校生活」は最高度に幸福な思い出


何故こんなことを書いているかと言うと、私には現代日本で経験した「学校」という思い出がとても大切だから。
振り返ってみれば、現代日本の小学生時代は幸せだったなあ、としみじみ思いだす。

もちろん行っている当時は学校が嫌で嫌でたまらなかった。
「学校なんて爆発してしまえ」
と人並に思ったりした。運動会やマラソン大会の前の日などに。笑
(人によってこれがテスト前だったりの違いはあるけど、誰でも少なからず同じ発想をしたことがあると思う)

私の場合、同じ年の子たちと話が合うことは決してなかった。
成績コントロールして自分を隠す日々は、生きた心地もしなかった。
もしアメリカなどに生まれていたら飛び級などもあり、年上の子たちと過ごしていたのかもしれない。そのほうが私にとってはたぶん楽であり、大人になってからも恵まれた人生を歩むことができていたはず。

でもそうならなくて良かったと思う。
よくアメリカの映像で、飛び級をした子供が大学生たちとだけ過ごしている様子を見てゾッとする。あんな子供時代を過ごしていたら孤独の極みにいただろう。
同じ年の、しかし性格も能力も多種多様な子供たちの集団の中へ無理やり入れられて、不可抗力で同じ時を過ごした経験はかけがえのない思い出だ。

初めて友達ができた日や、マンガを借りて読んだ日、ゲームの話で熱くなった日。(と言っても貧乏だったからゲーム機を持っていなくて、深い話はできなかったがそれでも楽しかった)
「退屈で死にそうだ」と友達と言い合った日々。
「半ドン」(土曜日、午前中だけの授業で終わること)の帰り道、見上げた空の青さに感じた幸福。……等々。

結局、今の人生で本当に楽しかったのはそんな子供時代の「不可抗力の日々」だったなと思い出す。
心が疲れてしまったとき、ふと子供時代のあのダラダラした学校生活を思い出して癒されている。
今の人生に限らず。
長い転生の記憶のなかでもあれほど楽しく癒された時間はなかったと思う。
今ここで皆と同じ時間を過ごせた思い出は、前世記憶以上の夢みたいなファンタジーだ。

現代の義務教育制度は人類史上で見ればめずらしいもの。
だから必ずしも人間を育てるに必要であるとは言えない。
でも、「今この時」にあるめずらしい機会であるからこそ、経験しないでスルーするのはもったいないんじゃない? と思ってしまう。

こういう学校制度の絶大なメリットのほうを、ゆたぼんくんの親御さんは彼に話してあげているのかなあ。

おススメのマンガ:
https://kokodakenobekkan-2018.tumblr.com/post/184736262921/%E5%85%A8%E7%84%B6%E6%AE%BA%E4%BC%90%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%AA%E3%81%84%E3%83%87%E3%82%B9%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%81%AE%E3%82%AE%E3%83%A3%E3%82%B0%E6%BC%AB%E7%94%BB

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吉野 圭-Yoshino Kei
Posted by吉野 圭-Yoshino Kei


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