先日の記事、『自信とは何か? 「相続」は他者が決めること、でも私には自己信頼がある』へB様からいただいたメッセージが興味深かったので一部引用させていただきます。
わたしも自己信頼は強いほうのにんげんだとおもいます。でも、吉野様と異なるのは、わたしの場合、信念のためなら悪事をはたらくことをいとわないかもしれないという「信頼」が自分の中にあるというところです。へんな言い回しですが。そして、いまのところ平穏無事に日々を送っているのですが。(B様へ、貴重なメッセージありがとうございます!)
ここの箇所を読み、私はつい『デスノート』の夜神月(ヤガミ・ライト)を思い出してしまいました。
デスノート Wikipedia

『デスノート(DEATH NOTE)』とは映画やドラマにもなった大人気の少年漫画です。
ご存知ない方のために物語をご紹介……
高校生のライトはある日、道に落ちていた黒いノートを拾います。それは死神がわざと落としたノートで、そのノートに名を書かれた者は確実に、書かれた通りの経緯で死ぬのでした。
警察庁刑事局長の息子であり生まれつき正義感の強かったライトは、凶悪犯たちが短い刑期で出所したり無罪放免となる世の中が許せないと思ってきました。この不正をただすために彼は世界中の凶悪犯たちの名をデスノートへ書き続けます。
ライトの「私刑」によって、許されざる罪を犯した者は確実に死ぬのだという恐怖感が広まり、世界中で犯罪率が低下します。
謎の殺戮者ライトは世間で「キラ(KIRA)」と呼ばれ、彼を称え神のように崇める人々が増えていきます。
しかし各国警察はキラの私刑を許しませんでした。キラを逮捕し罰するべく登場するのが対極のキャラクター、天才探偵エルです。
「いかなる理由があっても勝手な殺人は許されない」と言うエルは正義の象徴としてキラの前に立ちふさがります。
ライト(キラ)とエル、二人の天才によるチェス試合のような駆け引きがこの漫画の見所で、大人気となった理由でもありますが。
そのようなエンタメ性だけではなく、古典的な
「正義」VS「悪」
という対立軸も描いているため深い読み方をすることも可能で、そこに私は痺れました。
「何が悪なのか」
との疑問を読者へ投げかけるところなど、あたかもドストエフスキー『罪と罰』のようです。
(エンタメ性あって哲学性もある。本当に日本の漫画は素晴らしい。世界一! 小説でもこういうのが読みたいなと常々思いますね)
さてこの素晴らしい作品をもとに
「正義とは何か」
「悪事とは何か」
について改めて考えてみます。
もちろん世の中全ての正義を定義する力など私にはありませんから、あくまでも現在の私の考えということで。
ライトとエル、私はどちらに共鳴するか?
ところで、皆さんの目から見て筆者はライトとエル、どちらのタイプに見えますか?
……おそらくは「ライト」と答える方が多いのではと推測します。
(どっちでもないよ!そこまで優秀じゃないでしょ、と言う方が最も多いと思いますが、笑。単なるタイプとして、どちらかと言えばという仮定の話)
お馴染みMBTIでも私はライト
★その後、診断が誤りでINTPと分かりました。ここで書いた解釈も誤りがあったと判明。大変失礼しました。
(以下の「道義に従う」「姑息な手が使えない」性質はINTPでした)
冒頭に限り、ライトへは共鳴するところがあると感じていました。
私自身も自らの道義に従う者だからです。
実は他者から教えられた道徳やルールなど知ったことではないと思っているし、自分の道義に反すると思えばルールを逸脱して反抗します。
誰かを虐げるために造られたくだらないルールであれば、いつでも破る心構えはできています。
それなのに私が一見常識的に見えるのは(見えてます??笑)、きっと多くの人が心の奥底に持つ「正しさ」と、私の中の道義が被るところがあるからでしょう。
たとえば私は、
・無実の人を殺したり、奪ったり
・何もしていない人の罪を捏造して誹謗中傷したり
・嫉妬や、自らの欲得のために他人を陥れたり
等々の行いを自分に許すことができません。
これらは自分の中の道義に反するからです。
我々のような世間の常識に従わないタイプは、その代わりに自分の中の道義心が強いため反抗することが難しいのです。
この自分の中の規範が強く自分を縛ってきます。
だから私は姑息なことが苦手です。
他人の裏をかいたり、出し抜くことができません。無理にやろうとすれば下手でしょう。
そんなわけで、「策を弄することが苦手」な人間として生きています。
「智謀」の「謀」がない人間ということになります。(…笑)
そもそも告白すると、「他者を虐げ奪わなければ勝てない」ゼロサムのゲームが生理的に苦手なのです。
幼稚園の頃に椅子取りゲームが嫌いで嫌いで泣きたくなったし、すぐ他の子に譲ってしまったことを思い出します。
だから私は勝負ごとはあまりやりません。やってみればおそらく劣等なほうとなるでしょう。お勉強はできるので派手に負けることはないのかもしれませんが。
ライトが誤ってしまった分かれ道
上に書いた通り、私は作品冒頭のライトには共鳴を覚えます。
自らの道義に従うなら、「許されざる者」を裁くことは当然と思えてしまうからです。
罪がある者は必ず裁かれなければならないと思う。
それは道義上の観点から当然のことですが、合理にも適います。
(私は常に、道理=合理主義者です)
合理とは法的安定性を守ることです。法の運用に穴があり、罪ある者を野放しにするなら社会ルールが崩壊して、いずれは国家が崩壊する。それを避けるのが合理と言えます。
参照:法的安定性について
現実を言えば国家の手続きを無視して「私刑」を行うこと自体が、法的安定性を破壊するため絶対タブーなのですが。
もし、凶悪犯が裁かれず無罪放免になっている状態があるとしたら「法の運用」というプログラムにバグがあるということになります。
そのようなバグがあることは立法趣旨(法律の目的、その法律が作られた理由)にも反します。
法の運用にバグある状態と立法趣旨とを天秤にかけると、立法趣旨のほうを選んで凶悪犯を処刑するほうが道理・合理にかない、法的安定性を守ることになります。
結論として、ライトが冒頭で行う私刑は「正しい」とは言いにくいですが、決して間違っているとも言えません。
悪いのはバグのほうであり、国家はライトを逮捕することに心血注ぐより先に、バグをどうにかすべきなのだろうと思います。
バグを放置し法的安定性も脅かしている時点で、すでに国家のほうが「悪である」と考えられます。
ところが物語の中盤から、ライトは大きく道を踏み間違え「道理・合理」とは逆の方向へ走り始めます。
自分の身を守るため、という完全に利己的な理由から、無実の人を殺すという罪を犯し続けてしまうのです。
「自分が逮捕されたら再び凶悪犯が野放しとなり、正義が実現しなくなるから」
という言い訳をしながら。
この辺りから私には、ライトに共鳴する部分がなくなります。
「自分がいなくなったら正義が行われなくなる」
という都合は理解できなくもありませんが、もし本当に正義を実現したいなら保身よりも他に方法があるだろうと思います。
(つまり物語上、誰の目から見てもライトは本心をごまかした不当な言い訳をしているわけです)
自分ならこういうことはしないだろう、と思います。
罪のない人を利己主義だけで殺すことは、私にはできません。
自分のためだけに誰か他の人を犠牲にすることなど、絶対に無理。世界が滅んでも有り得ないと思える。
きっと出来心でもしないでしょう。認知症や精神障碍になって脳が壊れない限り。
だから私は最終的にライトにはなりません。
(記憶がない部分の過去についても同じです)
その点において私は自分を信頼しています。
これが私の「自己信頼」です。
〔2021/5/30〕後から読み返すと太字箇所、「それはそうだ笑」と笑えますね。ライトではなくエルのほうだったかあ… 複雑。
私にとっての「悪事」の定義をまとめる
何が「悪事」であるかは時代ごとに変わります。
人によっても違います。
たとえばここでライトの行いを「正義」「悪事」に分けていますが、そもそも死刑反対の人から見れば、国家であろうと誰であろうと凶悪犯を殺すこと自体が「絶対悪」ということになります。
(じゃあ、その凶悪犯に苦しめられ殺された無実の人は殺されることが正しかったのか? 無抵抗の弱者だけが被害を受け入れなければならず、犯罪者は何をやっても許すべきだと言う。そんなの不公平過ぎないか? ……という議論を始めると際限なくなるので、ここではしません)
だから最初に書いた通り、ここに書いているのはあくまでも私の個人的な定義に過ぎません。
そんな個人的に思う「悪事」の定義をまとめると、つまるところ、
自己中心の欲得 によって 他者を害すること
を「悪事」と考えているのだろうと思います。
この自分で思う「悪事」に目をつぶり、「目的のためなら手段を選ばず」となることも無理だと感じます。
自己の道義が縛っているのは全ての過程において、途中の手段も含まれるからです。
ということは私は、「手段を選ばず」でもないのかなと気付きました。
自己の道義に従ってさえいればいいので、世間から見て「手段を選ばず」に見えることは多々あると思いますが。
合理の観点からの意見
最後に合理の観点からの意見を書いておきます。
現代ゲーム理論によれば、
「道理に反する行いをする者は最終的に敗北する(劣勢となる)」
ことが分かってきたそうです。
古代など少人数の集団しかいない未熟な社会においては、道理を逸脱する者が圧倒的に優位となることがあります。
たとえば人道に反して女子供も含め大量殺戮する虐殺の王が、優勢に立つことはよくあります。
このためサイコパスが才能あるように見え、「サイコパスこそ英雄」だと崇める狂信的な信者が一時期は増えることも事実です。
しかしそのような人道に反する行いをする者は、ゲームに参加する人数が増えていけばいくほど(つまり集団が成熟し観察者が増えるほど)賛同者が得られなくなり、結果として不利になることが分かっています。
したがって、人道を守り正当な行いをするほうが、始めは劣勢でもいずれ優勢となるわけです。
これが現代のゲーム理論だそうですが、このことは軍事の計算にもかなっています。
(軍事では「支持者」という目に見えない力も計算に入れます)
私は決して合理のためだけに道義を目指す者ではありません。
ただ無意識的、本能的に道理=合理だと確信しているだけです。
その確信が間違っていなかったという裏付けが現代で得られたことは、嬉しく思います。