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前記事『勉強できるタイプには二種いるらしい』にて、
「テキストはあまり読み込まない。一度読み」
「家で教科書を開いたことがあまりないタイプだった」
という自分の学生時代の勉強スタイルを披歴。
さらに
「要は情報を仕入れて判断するという、検索力と理解力が重要で、予め自分で全ての知識を持っている必要などない
と書いた。

そのうえで、
「若い子たち、どうか筆者の勉強法を真似しないでね。たぶん私は勉強に関しては、ある種の特殊能力を持つタイプなのだと思う」
と保険をかけておいたのだけど……。

もしかしたら後の文章は無視され、前の文章しか頭に残らない人が多いかもしれないと思った。
特に、「怠けたい」と思っていて怠ける言い訳を常に探しているお子様たちは。
(本物の子供と、脳がお子様な大人たちを含む)

おそらく、昨今話題の『小学生革命家 ゆたぽん』などの子供や大人たちは我々のようなタイプが口にする上の太字発言「検索力と理解力が重要で、予め自分で全ての知識を持っている必要などない」を半端に模倣して「勉強する必要なんかない」と言っている気がする。

ゆたぽん:


この子の、
「知らないことあったら、スマートスピーカーに聞けば(ネット検索すれば)ええやん。だから学校で勉強なんかする必要ない」
という主張には脱力する。
親は何を教えているんだろう? ネットの誰に洗脳されてこうなってしまったんだろう? と悲しくなる。

この子を洗脳した脳がお子様な大人たちはまず、我々の使う「検索」という言葉を間違っている
我々、少なくとも私はネット検索という意味で「検索」と言っているわけではないからな。
学校で授業を聞くというインプットはしていることを忘れないで欲しい。

「検索力」とはネットの力を借りずに書籍から検索できる力。またはネットであっても有用なページを探せる能力のこと。
そのためには最低限、ベースの学習(インプット)をしていなければ不可能。

まして、Siriやグーグル、Alexaなどのスマートスピーカーへ依存して終わりであることは危険極まる
自分の頭で考えないようになり、さらに回答する者が教え込む嘘を鵜呑みにするようになる。
それは加速度的にディストピアへの道を突き進むということ。

「本を読むことを禁じられた世界」のように、権力者が自分たちにとって都合の良い情報だけを国民に与えるようになるわけだ。
既にこの未来は今現実化している。
華氏451度



義務教育の学校はお得なシステム


私は、イジメを受けていたり体力的に辛い子供が、無理に学校へ行く必要はないと思う派。
だけど、ゆたぽんくんのようにただ「怠けたいから」という我がままで学校へ行かないのは違うと思う。

“違う”と言うのは、本人にとって損でしかないという意味。
どうしてお得なシステムを自ら放棄するのか。

「ゆたぽんくんは、ろくな大人にならない」という意見が多い。それはどうなのか分からない。
現に小学校から中学校までずっと不登校のまま大人になっても、まともに生きている人もいる。
アインシュタインのような天才くんであれば学校へ行かなくても偉大な功績を残せるだろう。
――ただし、天才くんであれば! 
(ここが意外と大事。天才くんではない子が表面だけ彼らの真似しても、ただ他人よりバカになるだけ

詰め込み教育というシステムへの批判は相変わらず多い。でも、幼いうちは詰め込み教育があって初めて脳が育つという。
学校の先生から課題を押し付けられることで感じる不快感は、誰でも抱く。でもその不快感も成長の糧。

残虐でくだらない価値観、暴力主義を教え込もうとする「ニッキョウソ」なる闇の組織(笑)は有害と言えるだろうが。
明治時代に欧米から仕入れた詰め込み教育の内容は、実はかなりお得と言える。
あのような授業を無料で受けられる機会は人類の歴史でもめずらしいのだから、ただ「サボりたい」というだけの理由で自ら放棄するのは愚かな行い。

ゆたぽんくんは見たところアインシュタイン級の天才ではないようなので、学校へ行ったほうが良いと思う。
あのままだと自分の頭で考えることのできない、ただどこからか引っ張ってきた急進的な言葉を繰り返して世間から浮く、痛い大人になってしまいそう。


日本の学校、感想


自分について話してみる。

個人的に、私の場合は義務教育のある日本国に生まれてとても得したと感じている。

子供の頃は人並みに学校は嫌いだった。
勉強が嫌だからではなく、人と会うのが嫌で行きたくなかった。
特にイジメを受けた経験もないのだけど、ただ会話することが苦手だから・グループ分けの団体行動が苦手だったから。

朝起きるたび、「学校サボりたいな」と思っていたな。
毎日、毎日、ランドセルを背負って学校へ行くことにうんざりしていた。
「学校が爆発してなくなっちゃえばいいのに」
と、子供らしいことを考えたことも正直ある。主に運動会の前日。笑

人によって勉強が得意だったり運動が得意だったり個性の違いがあるのに、何故みんな同じことをしなければならないのかという不満は持っていた。

だけど振り返ってみれば、そんな「全員同じ」「苦手なことをやらされる」環境がとても有難いものだったなと思う。
何より、能力がバラバラで個性もバラバラな子たちと混ざって一緒に過ごせたことが楽しかった。

自分の場合、おそらく元々スキゾイドでマイペースなために、強制されなければ人と会わないし体育などもやらなかっただろう。延々と独りで引き籠もって好きなことだけをやっていたはずだ。
またはアメリカのように能力に応じた「飛び級」などがあったとすれば――こう述べるのは自惚れと思われるかもしれないが、現実として私はとうてい同い年の子と一緒に過ごすことは不可能だっただろう。
心が成長しない小学生のまま大学生と過ごすことになっていたら、今ごろ「青春」らしい思い出の一つも持たずに生きることになっていた。

マンガやゲーム、部活動……。(具体的な思い出はカット。また他記事で書きたい)
あれもこれも独りでは知ることさえなかった。体験することのなかった思い出だ。
日本の学校へ行っていなければ友達も作れなかったし、あの思い出の全てが得られなかったかもしれない。そう想像するとゾッとする。

意外と、
「能力バラバラ・個性バラバラ」
な子たちが一つところに無理やり入れられる環境は稀有なものだ。
様々な子たちと一緒の環境でなければ経験できない友情も愉しみもある。
そんな不可抗力の体験で得られる学びは何にも代え難い。

我がままを言って、「やりたくないこと」の全てから逃げ回っていたら最終的に何の思い出も能力も持たない大人になるだけ。
そんなの損でしかないから、ゆたぽんくん(と彼を真似している子たちへは)学校へ行けば? と思うね。
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吉野 圭-Yoshino Kei
Posted by吉野 圭-Yoshino Kei


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