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前記事の本より、今度は読書感想ではなく自分の考えをまとめるため引用します。

こちらの本からの引用です:
スピリチュアルパワーを呼び込む エーテル体に目覚める本
スピリチュアルパワーを呼び込む エーテル体に目覚める本
 人間が思考、感情、身体(感覚)でできているとみなす三分節思考は、そうとうに古い時代から存在しているが、この三分節は能動、受動、そして結果を受け取る中和という三つ組で考えたり、また父と子と聖霊のようなキリスト教の三位一体的な意味も兼ねている。
P137
 チベットのタントラのカリスマ、ドルジェタクは呪殺の達人だったが、これはタントラ的なパワーを使った。つまり二極化した力が一体化するプロセスを、ターゲットに投げつける。すると、相手はなかなか抵抗しにくい。言わば解脱させてしまうことで呪殺する。その人をアガリにしてしまう。
 日本では、ダメになったものを「お釈迦になった」と言うが、これと似ている。重苦しい現世から最高のところに行きなさいと言われたら、そこで踏ん張れる人はなかなかいない。
P250-251

占星術で度数ごとの意味を解釈する際にも使われる基礎的な考え方ですね。
二元論の対立では身動きが出来ないし、何も感じることが出来ない。第三の視点の観察者がいて初めて事物は認識される。
ふむ。

松村氏はこの本で「3」のことを「中和」と呼んでいて、なるほどと思いました。
第三の視点は、二つの相反する物をぶつけて「中和」し、消し去ることでもある。

これは東洋思想で言うところの「中庸(ちゅうよう)」にも通じそうです。
「中庸」は単に公平であるべきだという道徳的観念ではなく、バランスのこと。(以下一文、誤解を招く表現だったのでカット。算数で計算される単純な中央ではなく、活動的なバランス
対極の二つを全て経験した上での中央点です。

二つの物が中和(中庸)されて消え去るとき、幸福の絶頂が生まれる。
二者は思わず幸福の歌を歌う。

なるほど。
この状態はサビアンシンボルの水瓶座15度、『フェンスの上にとまっている2羽のラブバード』にも象徴されていますね。
フェンスはこの本で言うなら、「エーテルの金網」を象徴していることになりますか。
つまり彼岸と此岸の境目に、陰陽二極がどちらにも転ばずにバランスを取り、中庸状態で立っている。
彼らが「幸福の歌を歌う」のは、まさに存在が消え去る瞬間であり、高次にシフトチェンジすることを意味する。
つまり松村氏の本から引用すると「アガリ」、「お釈迦」、「呪殺される」、「消える」ということです。

うん、そうか。ディグリー15は30の中間点であるために、全てのサインにおける「消滅点」の意味があるわけですね。
ここから、
「天使と悪魔」
のイメージが生まれるわけです。二極の世界、どちらに転ぶか分からないフェンスの上にかろうじて立っている第三の視点だから。


と言うことは……これは今思いついただけなのですが、もしかしたら個の魂は、あるサインの15度をゴールとするのかもしれない。
私はずっと魂は1度に生まれ、30度をゴールとすると思っていたのですが、そうではなかったのかもしれません。

つまり転生していくごとにアセンダントは一つのサインの中で1度~30度を行ったり来たりし、次第にバランスを取っていって、中間点の15度で落ち着くのか。弧の器の中にビー玉を投げると、極端なスピードで端から端までを行き来し、やがて自然に中央で止まるように。
その中央には次次元への孔が開いていて、孔に吸い込まれるので、もう現世からは消えたように見えるのだと思います。


ところでこの記事では言い忘れましたが、私は、魂の個性はアセンダント・サインに表れると考えています。
魂は転生してもアセンダントの度数を変えることは出来るが、サインを変えることは出来ないはずです。
魂は、本質の個性としては一つのサインしか体現出来ないと考えられるからです。

どうやら現代の多くの占星術家たちは、
「魂が全てを経験する」
ということはサイン全ての個性を体現することだと思っています。
だからどうしても、動きやすい太陽など“中身”の惑星を人の魂と見立てたがる。
※と言うより本音では商売利益のためですが

でも、たった一個の魂は残念ながら全てのサインを体現出来るほど巨大ではないのだと私は感じます。
おそらく現代の占星術家たちが想像しているのは集団(ソウル・グループ)のホロスコープです。
個人はそれより遥かに小さいホロスコープを持つはずで、本質的には切り取られた一部分の個性しか持たないと思います。
(もちろん惑星で経験を積むことにより他サインの全ての要素を取り入れて行くことになりますが、本質個性は変わらないということです)

昔(近代)の占星術家たちはアセンダントを「製造番号」と呼んでいました。
その出身工場を示す製造番号は魂に付けられたタグとして、永久に変わることがないと。
今の占星術家たちはこの考えを否定していますが、私は古い考えのほうが正しいと思います。

遥かな昔、人類が根元から切り離されて分割したとき、さらなる分裂が生じて私たちはバラバラになった。
この大昔に分裂した瞬間に投げ込まれた器が変わり難き「個性」であり「魂」なのではないでしょうか。魂は「個性」である一つサインの中を行ったり来たりすることで、そのサインの両端を経験するのみです。

惑星は遠方を感じるための触手として放たれるのだという気がします。そのようにして、触手で他サインの要素を身に付けるのは他者と交流するためではないでしょうか。


シャドウを意識する占星術の考え方では
「嫌いな相手こそ自分自身」
「嫌いな相手を受け入れなければ、抑圧された自己がいつか暴発する」
などと言いますが、もしかしたら意外とそうではないのかもしれない。
シャドウは幻想かもしれませんよ。あるいは現実に存在する敵の記憶。

いったん心理学を忘れてみてはどうでしょう。
やはり、他者は他者でしかないのです、現世の次元に存在する限りは。
だからこそ、他者と手をつながなければならないのだと私は思います。
敵も敵として存在してくれたならそれでいいのです。敵を無理に許そうとして自分に嘘をつかないこと。敵が存在することにも魂の歴史上、意味があります。

他者も含めて、味方・敵の
「役者が揃った」
瞬間に、輪廻の輪が閉じます。
そこがアガリの瞬間となります。
(これは私の過去の経験上、そうだったから言えます)

他者に他サインの役割を任せることは、ズルいことでも黒魔術的な違法行為でもありません。
むしろこのように他者を含めた考え方をしないと、地上の修行(人生を生きること)を忘れて、自分一人で何か特殊な修行をして超能力を獲得しなければならないと焦ることになります。
また全てを自分自身の中でどうにかしようとあがくため、「シャドウ」たる嫌いな人も無理に受け入れなくてはならなくなります。


「シャドウ」論などは上に書いた通り、近代の占星術家たちが、個人のホロスコープをとても巨大なものとイメージしたことから起こった誤解だと思います。近代、神に反抗する力を持つため、個人のホロスコープを完全無欠のものと考えなければならなくなったのでしょう。
実はそうではなく、個人は部分だと考えれば気がラクになります。
そして個人の魂は、とても長期の旅をします。
たった一つの人生で全カリキュラムを終了して解脱しなければ、地獄に置いてきぼりになるなんてことはありません。


そもそも、カルトな宗教団体等がうるさく脅迫してくるように、急いで高次元にシフトする必要はあるのでしょうか?
そんなに高次元へのシフトだけが良いことですか?
私はそう思いません。

古い時代に魂がバラバラの個として分裂したのは、個を保って旅を楽しむためです。
せっかく現世に個性ある者として生きているのだから、もう少しゆっくり旅を楽しんでもいいと思います。

焦らなくても、いずれ大きな集団として高次元へシフトしてしまいます。
それは宇宙の法則として自然に訪れることなので無理はしなくて良いはずです。
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吉野 圭-Yoshino Kei
Posted by吉野 圭-Yoshino Kei


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