我傍的、ここだけの話

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『我傍に立つ』を現実名で書くべきか問題。最近、現実イメージがはっきりしてきた

(この記事は小説読者の方々への質問なので敬体で書きます)

ここのところ現実の知識が増してきた結果、自分自身の記憶イメージもかなり現実らしくなってきた気がします。
「ダウンロード」した記憶場面の数は増えないのだけど――つまり以前より思い出せる範囲が広がった・記憶が増えたというわけではない、以前から持つ記憶イメージが場面ごと濃厚になりはっきりしてきました。

例えば
「執務室で仕事をしているシーン」
は始めの記憶では現代風にアレンジされていて、椅子に座り、現代のデスクに向かって仕事をしているイメージでした。デスクの上には書類が山と積まれており、その山を散らしながら仕事に没頭していたイメージ。現代のビジネスマン風です。

この記憶が、ある時期から椅子ではなく日本人のように床へ座り、文机のような小さな机で書き物をしている場面へ変わってきました。
※現実に古代中華は和風スタイルです
現実知識が増えた結果として、映像の細かいところが鮮明になったようです。

どうしてなのか。
たぶん、パソコンの引っ越しで考えると分かりやすいでしょう。
新しいパソコンやスマホを買った時にバックアップファイルを再生すると、画像や動画ファイルの古い拡張子に対応したアプリケーションが無いので、そのファイルがまともに開けない場合がありませんか。開けても表示がおかしかったりすることがあります。
始めの頃の私の記憶はそういう状態で、脳が対応していないためまともに開けなかったのだと思います。
「知識」というアプリケーションを入れた結果、古い拡張子の画像ファイルにも対応できるようになったので、ようやくまともに開けるようになった感じです。
(これは後付けの脳内知識で創作している感覚とは違う。うまく表現できないが、単に欠けていた画像ファイルが戻って来た感じ)

私の場合、服装・建物などの人工物に弱い脳であるらしく、細かな映像が再生できず現代アレンジされたようです。
追記 いつも書いている通り、時代が分かる程度には服装や髪型などの記憶を最初から持っていました。ただし遠くから眺める視点でボンヤリしていたもの。職場のシーンなど建物内は現代風にアレンジされがちでした。

その代わり自然の景色は正確に記憶していたことが先日分かりました
出来事の流れや、会話内容や感情など本質的なことも全く変わりません。順序が間違っていたと判明した記憶はありますが。


はっきりしない記憶イメージ、『我傍』での対応


小説執筆時には、おかしいと分かっていながら現代風アレンジのまま書いたところが多々あります。

知識が少なかったあの頃でさえ
「さすがに椅子に座るのはおかしいだろう……」
と分かったのですが、むしろ時代背景をぼかせるから得だろうと判断しそのまま書きました。

私としては場面の細かい描写などはどうでも良く、本質だけ伝えたいと思っていたのです。
本質を伝えるためには、手垢の付いた他人のイメージに汚れる可能性がある時代背景は邪魔でしかないとも思っていました。

ただ、今となっては現実とかけ離れた描写をしたのはまずかったかなあとも思います。

ここへ来られる一見の方々は、まず先にブログ記事を読み、「現実の歴史がモデルになった小説なんだ」と考えて『我傍に立つ』を読まれるはず。
そのような先入観で読まれると全く別物なので、不快感を抱かれるのではないでしょうか?

そもそもストーリーも人物キャラクターも全く違いますから、先入観を持って読むと違和感が気持ち悪いだろうと想像します。
コーラだと思って飲んだものがコーヒーだったときの違和感、ではないですか。

先入観なしに読めば、それなりに愉しんでいただける読み物になっているはずです。自分で言うのも何ですが、読者の方々のご感想から推察するに。
「何度も泣いた」
「眠るのも惜しく夢中で読んだ」
と仰ってくださる方々は、一切の先入観なく読まれたのでしょう。

いっぽう前知識により歴史小説を期待して購入された方々は、
「表現力がない(おそらく歴史小説の文体ではない、の意)」
と仰って放り出してしまわれるようです。
それはそうだろうなと思います。

この人たちから
「歴史小説じゃないものを歴史小説と嘘をついて売った。詐欺!」
と訴えられても困るから、なるべく事情については隠してきたわけです。

本来なら、完全に事情を隠して小説だけ発表したかったのです。
核心の心を伝えられたならそれで良かった。
(最初の頃は「前世が実在する」と伝えることにも関心がなかった)
しかしあれは、誰が読んでも「モデルとした史実がある」ことが分かってしまうストーリーです。隠していると黙って他人の創作をパクった人のように、不当行為に見えてしまう。

まったく悩ましい小説です。
このためメジャーにはとうてい出せません。

『我傍』の書籍を削除しようかなと思ったことは数知れず。
現実イメージがはっきりしてきた最近は特に、消したくなる衝動にかられることが増えました。

でも、読者様からのご感想を思い浮かべると消すことができませんでした。
あれはあれで。知識がない頃の「私だけのイメージ物語」ということで、世に残していこうと思います。
あの稚拙な小説を残したまま死ぬのは、とてつもなく恥ずかしいですが。


現実知識で書くべき? それともタブー?


それでここからは読者の方々へ質問です。

『我傍に立つ』は今後、現実名にて現実知識で書くべきでしょうか?

アンチによる、歴史捏造の犯罪が目に余るようになってきた昨今。
「真実の物語」
として実名で小説を書くことも考えています。

ただその場合、大まかなストーリーの流れとして『我傍に立つ』を変えることはないと思います。
つまりそれは一般的でオーソドックスな物語を否定してしまうことを意味します。
正統とされる記録書さえも否定することになってしまう。

記事では既に否定する説を歴史コラムとして書いていますが、コラムはあくまでもコラム。
「私はこう思う」
という、ネットの片隅でマニアが語っている空想としか受け取られないため影響はないでしょう。
ただ私の事情込みで、完全なる物語を世の中に出せばそれなりの破壊力があるかもしれない。現代では広まらないとしても、いつか遠い未来に掘り出されたときのことなども考えてしまいます。

長い文化を否定するような物語を出していいのか?
人々の心を破壊するのはアンチではなく、この私ではないのか?
それは最も不誠実で、恩を仇で返す罪なことなのではないだろうか。

……等々
考えていると二の足を踏んでしまいます。

そもそも史書の翻訳が止まってしまったのも、解説を書くのを躊躇してしまうからです。
(解説を書くなら必ず私が思う「真実」を添えなければならない。そのことに悩み迷ってしまい、先へ進めなくなる)
まあ、今はじっくり向き合う時間がないせいでもありますが。

皆様にお伺いしたい。
私はどうすべきなのか? どうして欲しいか?
読者様のご意見をいただければ幸いです。

→ご意見ありましたらこちらからお寄せください


9/1推敲。文の流れで意味不明となっていた文章カット
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