圧倒の悪意に触れてここのところ疲れていた気持ちが蘇るのを感じました。
人の力は凄まじいものだなと思います。死ぬほど心を疲れさせるのが人の悪事なら、蘇らせてくれるのも人の善意。
そんな力をくれる友人が「夢で見た」という話を教えてくれたのですが、私は感覚的にスピリット界に触れる話だと感じました。昔は霊感などない友人だった気がするのですが…(笑)、しばらく会わないうちに次元上昇したようです。
許可を得てここに一部を掲載させていただきます。
魂は恐怖を無理やり付けて生まれて来る
私が文章を作って会話文だけ引用しようと思っていたのですが、この素朴で正直なニュアンスを大事にしたいから引用します。(友人へ:ごめん、ちょっと恥ずかしいかもしれない。嫌だったら言ってください)
生き方に影響与える不思議な夢を私も「恐怖が地上限定の物」という話を理解します。
何年かに一度みるのですが、
夢っていうか映像を踏まえた会話を
するんです。
その中で最近印象に残った夢?会話?
「魂と恐怖の関係」について教えられたことが
あります。
その人?いつも声だけなんですが、
その人が言うには
「魂とは本来純粋で混じり気のない綺麗なもの」
「人に生まれる時には本来絶対混じわらない恐怖という物を無理やりくっつけて生まれてくる」
「恐怖の大きさは自分の魂とほぼ同等のレベルのものをくっ付けてくる。なので絶対に苦しむし辛い思いをするようになっている」
僕はこの辺が修行と言われる所以なのか?
そんな苦しいのは嫌だ。どうしたら良いのかと
聞きました。
「苦しむようになっているが、あくまで恐怖は魂とほぼ同等。50対49くらいの差。
その1の差は次元が違うので絶対に埋まらないようになっている。だから魂は恐怖に負けることは絶対にないのだ、だから心配するな」
心配しなくても良いのは分かったがどうしたら
それを乗り越えられるのか?と聞きました。
「恐怖というのは寂しがり、だから恐怖すらも
愛してやることだ。恐怖すらも愛して包みこむ
ことで乗り越えられる」
自分のレベルに合わせた恐怖だから自分自身で
乗り越えなければならないがそれは愛情で
なんとかなるらしいって話(笑)
と言うのも、自分自身の記憶で、前回死んだときに全ての恐怖や苦しみが消え去ったことを覚えているからです。
(『我傍に立つ』または『僕前』で描いた“狼の夢”参照。当ブログ記事『死の後、数日間の話』でも少し触れています)
この記憶を思い出した時、現世の私へ向けて遠くから聞こえた声がこう言っていました。
「何も恐れる必要はない。お前を傷付けることができる者は、どこにもいない」
お前は究極に強い完璧な存在で、傷付くことは決して無い。だから恐れる必要は無いのだと仰る……。
現世の私は始めこれを自分個人へ向けられた言葉と解釈していたので「まさかそんなはずはない! 自分は強くない!」と思ったのですが。
その後にスピリチュアル本などを読んでいて理解しました。
これは、全ての人(魂)に当てはまる言葉なのだということを。
つまり魂は究極に強い存在ということ。何故なら欠けることはなく、傷付くこともないから。
(魂エネルギーが解体され構成を変えられることはあるらしい。ただしエネルギーが消えることは絶対ない)
なので肉体を脱ぎ捨てて魂だけとなった時には「恐怖」を持つ必要がないし、持ちようがないのです。
何故、恐怖や苦しみが必要なのか
それではいったい何故、魂は地上へ生まれて来る時に無理やり恐怖を付けて来るのか?
第一は、肉体の維持のためだと思います。
「恐怖」というものはそもそも肉体の維持に必要不可欠です。これは動物も同じ。
恐怖が無かったらどのような危険な場所でも何も警戒せずに突き進み、すぐに死んでしまいます。おそらく全員が2歳くらいの歩き始めた時点で死んでしまうことでしょう。
全員が幼児の時に死んでしまう世界では地上へ生まれて来る意味がなくなります。
(そもそも誰も大人になれないから種として続いて行かないか。笑)
つまり「恐怖」はもともと肉体にセットされている本能と言えます。
魂に属するものではないのですよね。
ただ、前世記憶を思い出すときに「恐怖」も再生される場合がありますので(その場にいるかのように怖いわけではありませんが)、完全に肉体だけに属する本能とも言い難いようです。
以前、『魂が記憶しているもの、肉体が記憶しているもの』で書いた通り、完全なる肉体所属の記憶は100%カットされます。魂は肉体に関する行為の光景すら覚えていないようです。(人生の大筋に必要ない場合)
いっぽう感情はクラウドに記録保存されるらしい。
おそらく魂は「恐怖」を持たないのだけど、その体験をしたときの「怖かった」「辛かった」という感情を記憶します。
そしてこの、感情を体験し記憶していくということが「恐怖」を携えて生まれて来ることの真の目的だと思います。
言い換えれば、地上で肉体を持って生きることの理由でもあるのでしょう。
もしかしたら感情というものは全て「恐怖(生存本能)」を原動力として生まれるのかもしれません。
喜びも楽しみも、苦しみの反対にある感情として味わうことができます。
だからと言って過剰な苦しみを味わう必要はないと言っておきます(虐待に遭っている子は逃げるべき)。ただ内心に「命」としての衝動があるために、あらゆる感情が生まれるのだという意味です。
生きる目的は、「物語を紡ぐこと」
“魂を磨き次元をアップさせていくための修行”
がここで生きる目的なことは確か。カルマを回収することはそのためのカリキュラム。
しかし「修行」とは人間が想像する、ただ辛いだけの鍛錬ではないと私は思います。
修行を地上言語で言い換えるとするなら
「物語を紡ぐこと」
が最も近いのではないでしょうか?
良い物語のためには苦しみの設定が必要です。
「恐怖」は、どんな物語にもベースとして必ずあります。
(恋愛物ではなさそうに思うかもしれないが、「恋人を失う恐怖」などは必ずある)
「恐怖」を起点として、あるいは中心に置いて、複雑で豊かな物語が紡がれていきます。
人生がそんな物語のようなものだと思えば、自分のなかの恐怖を否定したり克服しようと闘う必要はないと分かるでしょう。
勇気ある振る舞いをする人はきっと「恐怖」を認め受け入れたうえで、目的のために進むのだと思います。
恐怖も苦しみも物語(人生)の伴として進め、ということです。
臆病者を救う言葉
偉そうなことを言っていますが、地上では誰よりも恐怖心が強く臆病者なのはこの私です。たぶん。
「臆病者選手権」があったら日本国内でも十位に入る自信があります。笑
しかしそんな私も上で引用した友人のガイドさんの言葉、
>あくまで恐怖は魂とほぼ同等。50対49くらいの差。その1の差は次元が違うので絶対に埋まらないようになっている。だから魂は恐怖に負けることは絶対にない
に救われました。
>愛情でなんとかなるらしい
にも。
自分の人生を苦しみも込みで愛し、真の意味の「自信=負けることは絶対ない」を信じて生きていこうと思います。