神は死にません。「神」とは何か、このブログにおける用語定義

吉野 圭

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いよいよ大晦日。令和元年もあっという間に過ぎて行きます。
この日に相応しいかどうか微妙なのですが、本年の総まとめとして「神様」についてお話ししておきます。

と言っても宗教へのお誘いなどではありませんのでご安心ください。
あくまでも当ブログ内で使う用語定義の解説です。

いい加減な筆者の性格を反映して全体に適当なこのブログ。
最もセンシティブと言える「神」「神様」という用語の定義が曖昧なまま書いてきました。
そのため、「神」に敏感な読者様は疑念を抱かれモヤモヤされることが多かったかもしれません。

この記事で一度「神」という用語を定義しておこうと思います。
筆者が文中で使う「神」が何を指すか分からなくなったときは、ここへ戻り確かめてみてください。

※この記事は後ほど『筆者の思想スタンスまとめ』にリンクしておきます




1.「神様はいない」と言うとき


私はスピリチュアル系の分野で話をするときによく「神様なんていません」という言い方をしますが、それは人格化された神様、人間の願いを叶えたり運命を操る存在はいないという意味です。

こちらの質問と回答を引用しておきます。
問い: 吉野さんは「神様などいません、それは高次霊のことです」とおっしゃっていましたが、神様(創造主)も高次霊もいるのでは?

うん、それは「人間が思うような神様などいない」という意味です。
つまり人の形をしたゼウスやキリストのような神や、一民族の味方をして戦争の手伝いをする都合の良い「神様」はいないということです。
地上から卒業して間もない高次霊は人の形を持つことがありますし、義があると思われる集団の味方をすることもありますが。
(このような地上に近い霊たちを昔の人は「神」と崇めて祈ったのだと思います。私は「オーディエンス」と呼んでいます)

また、キリスト教徒がイメージしているような「創造主」も厳密な意味ではいないと私は考えます。
有るのはバーチが言うところの「大霊」、古代インドのブラフマン(アートマン)、仏教の「仏性」、私がいつも言う「根源・根元」です。
それは人間ごときの想像では及ばない巨大で壮大な、かつ精緻なエネルギーと思われます。ですから簡単に「神」と呼び、崇拝するのもはばかられます。

そもそも根源エネルギーは人格ではありませんから感情もありません。末端の人間が崇拝しようと邪見にしようと、腹を立てたりヒイキしたりすることは有り得ないでしょう。
根源エネルギーは自分の中にもあるものです。(一個の魂に仏が宿る。ブラフマンとアートマンは等価)
だからこそ自分の中にある壮大なエネルギーを信じて目の前のことを一所懸命に行うべき。それで十分、と私は考えます。
補足。
スピリチュアル界隈には特に言えることですが、地上の欲望を満たすために都合の良い神様を崇める人があまりにも多いと感じます。
そのような「欲の神様」を崇拝することは有害です。
追記: 神社へ初詣に行ったときお賽銭を投げ、受験合格や家族の幸福などを願って手を合わせる… こういったささやかな願い事までも私は「有害」と言いません。願い事に真心があり行いが正しく、義にかない(等身大で)欲張りでないならオーディエンスたちが応援してくれるでしょう。「有害」であるのは義もなく貪ろうとする際限ない欲望のことです。

「欲の神様」にとり憑かれてしまった人は、欲望を満たすために際限なく宗教団体へ金を貢いだり、神様の名のもとに殺戮まで行います。
あの世の原理で地上の欲望を満たせるはずがないということは考えれば分かるでしょうに。馬鹿馬鹿しい。

しかしたいていの人は自分の願いを叶えてくれる存在を「神様」と呼んでいます。
だからそのような人の定義に合わせて語る場合に私は「神様などいない」という表現をしてしまいます。
正確な表現ではないのですが、そう言わざるを得ない場面が多いことを悲しく思います。


2.中華思想のジャンルで「神」と言うとき


中華思想のジャンルにおける「神」は、日ごろ私が書いている占星術やスピリチュアル分野(西洋)での「神」と少し異なります。

以下は『筆者スタンス補足。民主主義者か、独裁主義者か?』の記事へいただいたメールから引用させていただきます。青字は筆者による。
吉野様の記事をいろいろよんでいて、ひとつだけいつももやもやするものがありました。

「筆者スタンス」のなかにその文章がありましたのでメールをしようとおもったのでした。

「国家にとって最も大切なものは国民、統治を委ねられた為政者は民を神と崇め下僕として働くべき。」

この国家がどんなにすばらしいものだったとしても、わたしはその国家の一員となりたくありません。わたしはだれからも神と崇められたくはありませんし、だれのことも下僕にしたくはありません。そして、わたしがだれかの下僕になるのもいやです。言葉のあやだとおっしゃられるかもしれませんが、それでもいやです(笑)

…(個人情報に関わる話はカット)…
(仕事上のスタッフと利用者は)対等な立場だとおもうのです。どちらが上なんてありえない。
たとえばコンビニの店員さんと買い物客も対等だとおもいますし。そこにへんな優劣をつけるからおかしなことになるのでは、とおもうのです。
かみさまはいない、と言っているひとたちはみずからがかみさまになることに躍起になっています。でもかなしいかなにんげんなのでできることといえば破壊と殺戮ばかりです。かみさまがいるかどうかわたしはしりませんが、少なくともにんげん同士でだれかを神にしたり、だれかが神になったりするのはもうやめにしたらどうかとおもうのです。すくなくともわたしたちはだれも神ではないのですから。
わたしの勝手な希望ですが、来たる水瓶座の世界がそうなったらいいな、とおもいます。
お気持ちはよく分かります。
ものすごく正論ですし、「だれからも神と崇められたくはありませんし、だれのことも下僕にしたくはありません。そして、わたしがだれかの下僕になるのもいやです。」に私も完全同意です。

と言うより普段から私も言っていますね。
「神様と崇められるなんて絶対に嫌だ」と。
その苦しみと弊害は何度も語ってきた通りです。
それなのに「民は神」「為政者は下僕」と崇める表現をしてしまいがちなこと申し訳なく思います。

しかし、ちょっと言い訳がましく受け取られるかもしれませんが上はあくまでも「中華における話」。
「言葉のあや」と言うよりは中華前提という公式上どうしてもこう回答を書かざるを得ないのです。
(上記事はその前記事、『孟子』『孔子』に関する話からの流れ)

まず、中華の世界では神(→多神→天)という概念があります。
この概念の正体は不明ですが、ともかくその上層の何者かから命令が下って国を治めることになった人を、「天子(君子)」と呼びます。天子が天から受け取る命令が「天命」です。

「命」を現代語に完全翻訳するとすれば「主権」に相当するでしょう。
そして「神として崇拝する」という表現は「主権者を尊重する」という意味に換えられます。
しかし孟子や孔子は古代の人なので「主権者」ではなく「神・天」という言葉を用います。民間一般の人々も同様。このため、中華思想に合わせた文章表現のなかでは「主権者」のことを「神・天」と喩えざるを得ないわけです。

さらに中華思想の根幹には陰陽道があります。
(孔子や孟子は儒教の祖ですが、彼等も自然に陰陽道の概念を取り入れて語っています)
陰陽道では全てのものに「陽=プラス」「陰=マイナス」の性質があり、この二つの性質がバランスを取って世界が成り立つと考えられています。
このため全てのものは対極を対峙させて中庸を取るという形で説明されます。
思想の話は漏れなく二極がセットになっていますし、詩文でも二連が対となる形がよく見られます。

私が思うに、そんな中華世界において最も壮大な二対は『孔子』『孟子』です。これが大きなワンセット。
『孔子』が上からの権力統治を説いたのですから、革命による下から上の管理(厳密に孟子はそう述べていないが事実上は民による統治)を説いた『孟子』が不可欠となります。
この通り中華ではどうしても上・下が活動したうえで真ん中が存在することになるわけです。これが一神教が支配する西洋と違うところ。
だから中華について語るときは神が出て来て、上下が存在して、……という流れになってしまいます。

始めからフラットで停止した世界ではないのですよね。
始めから停止した世界とは、死です。存在しないのと同じ。
(私がこのブログを書いていて、上や下・右や左にほんの少しでもブレた表現をすると「お前は中庸じゃない!」というヒステリックな批判が来る。そんな思考停止が「中庸」なのではなくて、活動のなかのバランスが「中庸」です)

この陰陽道の約束事は実際、世界を説明する際の計算式のようなものなのです。
二極が活動することで世界が生まれる。物質は全てプラス・マイナスを行ったり来たりしてバランスを取っている。――つまり物理学です。現代最先端の物理学がようやくこの真相へ追い付いて来ていますよね。(厳密には物質に限定されないので「物理」と呼ぶのは正確ではないのですが。最先端物理学が形而上まで説明し得る次元に近付いていることは確か)
ですから中華における「神」は「+」・「下僕」は「-」という数学上の記号のようなもの、と考えて読んでいただければ正しいと思います。神様という言葉にあまりこだわらなくて良いということ。ぶっちゃけ中華の神に西洋ほどの深い意味はありませんので(笑)。
現代の殺戮をする神は一神教の神であって中華の神ではありません

ただし現実の人間に「神を崇拝するような尊敬心」が完全に無いかと言えばそれもまた違います。
少なくとも私は、かつて国で政治を任された時に主権者である民を尊んでいました。それは神にかしずく想いであったことを否定しません。
国民が「そんな国に住むのは嫌だ」と思っていたかどうか知りませんが、自分としてはそこまでの想いが無ければあのような生き方は不可能だったと思っています。
理想を言えば、為政者は必ず主権者たる民を崇拝に近いところまで愛し尊重すべきと思います。そうして初めて権力とのバランスが取れ、誠実に仕事を行うという気持ちが生まれるのではないでしょうか。

究極の真実では「人間存在は全て対等」です。もちろん。
本性の魂に上や下があると私は考えていません。
誰も下僕ではないし神でもない、そんなことは当たり前のなかの当たり前です。
ただ私は地上に生まれたスタート時点の差異まで完全否定することは違うと思っています。
本性がフラットであっても地上の人間は必ず善悪どちらかに傾いているし、経済力・権力の格差も現実に存在します。
その差異を否定して始めから見た目にフラットな社会を求め過ぎれば、危険なカルト主義(共産など)への道に繋がります。

多少の差異はあっても結構。
崇拝ではなく、現実的な尊敬心で人を称えるなら構わない。
悪いことをした人は軽蔑心を抱いてしまうのが自然。
社会も「機会の平等」だけがあれば充分です。無理やりに「結果の平等」を求める共産主義は危険で間違っています。
人間は皆、違う。
違いや個性を愉しみましょう。
それでいて心は対等でフラットであれば良いと私は思います。
――こういう考え方が人間における水瓶座らしい性質だと思うのですが、いかがでしょうか? 水瓶座は結果の平等にこだわらないし、強制もしないのです。本性が平等だと本気で思っているから、見た目の平等を強制する必要を感じません。

 関連記事:「平等圧力による公平性ストレス」で極端差別へ。個性の彩り豊かな、ファンタジー世界の実現を願う

(ただしマンデーンで水瓶座が強い時に社会で起きる現象はまた違う解釈になるかもしれません。強制的に押し流されることで権力階級がフラットになると解釈される場合が多くなります)

一点だけ
「すくなくともわたしたちはだれも神ではないのですから」
と仰るところ私は意見が違いまして、逆に誰もが全て神なのだと思っています。
全ての人のなかに神性(仏性)があります。あるはず。
皆がその真実に気付けば本当に平等な世の中が訪れるのではないでしょうか。


3.真実の意味で「神」と言うとき


最後に、他者の定義に縛られない私自身の考えを述べます。

他の全ての人にとって真実かどうかは分かりませんが、筆者が幼い頃から一貫して変わらずに抱いている「神」のイメージがあります。これは自分に嘘をつかず方便でもない、本心からの本当の考えです。

私がイメージする「神」とは全宇宙誕生のエネルギーとしての大元・根元・根源のことです。おそらく。

それは創造主ですらありません。
意思を持って世界を創造した者なのではなく、ただ“在るもの”だからです。

この意味の「神」は世界の全てに等しい。(森羅万象と等価)

全ての物質、全ての生物、全ての動的な行い、――それら全ての中心に核のようにこのエネルギーが存在していると私は信じます。

“信じます”と言うより、実は幼い頃からそれが在ると感じてきたものです。
誰かに教わった話なのではありません。
ここに生まれまだ言葉を話せないときから細胞の一つ一つ、分子の一つ一つ、運動の一つ一つにそれが在ることを感じていました。
目で見えるわけではないのですが、頭あるいは心のどこかで感じます。

日本語を扱えるようになった頃からこの核のことを「真実」あるいは「真理」と呼ぶようになりました。
そうとしか表現できないからです。

他人にこの話をして理解してもらったことはありませんが、古典思想のなかに似た概念を発見することがあります。
たとえば『老子』の語る形而上の話は私の思う「真実」の表れ方に近いと感じました。
仏教における「仏性」は私の「真実=神」と重なるところがあります。
それより最も近いのは、インド古代教の「ブラフマン/アートマン」です。
ギリシャ哲学の「万物の根源」論は、きっと根源を察知していた人々が正体を突き止めようとしたものでしょうが、物質に限定したため本質からずれてしまったように思います。惜しい。
しかしこのように古典思想に自分の概念を発見できるということは、自分独りが「真実」を見ているわけではなかったという証なので嬉しく思います。

最近スピリチュアル関係の本でもこの「真実」に近い神の話が書かれていることがあります。
インド思想を取り入れた結果なのかもしれませんが、嬉しい流れと感じます。

この意味での「神」は決して死にません
世界そのものである「神」が消え去ることは永久にないからです。

きっとこの意味での「神」に人々が目覚めたとき、地上で真実が叶うのでしょう。


ご挨拶


なんだか宗教めいた記事になってしまいました。意味不明だったらすみません。
来年以降も私は宗教団体を設立する気はさらさらありませんので(笑)、念のため。

本年も怪しい当ブログへ懲りずに通ってくださった皆様、ありがとうございました。
それでは良いお年をお迎えください。
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