脱社畜教批判に違和感を覚えた人へ
ここのところ連投していた「脱社畜教批判」を読み、筆者の主義主張が矛盾していて信頼できないと思われた方も多いのでは?
どちらかと言えば私はかつての「ニート代表」?と見られており、「ニート擁護者」と思われていたのではないでしょうか。(推測です)
それなのに「脱社畜教」を批判するとは、主義に反すると感じられたかもしれません。
しかし元々の皆様のイメージ通り、私は「生き方・職業選択は人それぞれでいい」と思う者です。
私自身、今は会社勤めをしていますが若い頃はフリーランスでした。今も会社組織にどっぷりというわけではなく、副業禁止規定に縛られない半フリーです。
占星術をご存知の方だけに話をしますと、私のこのような性質はおそらく本性が水瓶座であるせいでしょう。
縛られるのは嫌い。他人を縛るのも嫌い。
今も私はこう思います。
人の生き方は自由であるべき、選択肢は無限にあって良いと。
大企業に勤めることだけが人生ではない。
(古代中国においては、役人として出仕する狭い範囲の生き方だけが人生ではない)
自身の技術を磨いてフリーランスで生きていくことや、自給自足の農業で食べていくことも立派な人間の生き方です。
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この地上では、一個の生物として自分で考え、自分の心に従い、選んだ人生を歩んでいくことが最も望ましい生き方と言えます。その観点から言えば、周りに合わせて漠然と同じ生き方を選び、他者と競争して蹴落とし合い、心をすり減らしながら生きていくほうが不健全です。
何も考えず周りと足並みを揃えるだけの人生が「誤った生き方だ」とまでは言えませんが、不幸で愚かな生き方だと思います。心に背いた人生を歩んだ人は最終的に後悔することが多くなるでしょう。
ただし「人生の選択は自由」と言っても一点だけ、他人様を傷付け奪い取り迷惑をかけて生きていく自由だけは人間に認められません。
振り込め詐欺や恐喝で他人から奪い取った金で生きていくのは当然にダメ。
情報商材やマルチ商法、セミナー商法などの詐欺まがいの行為で生きていくことも許されないでしょう。これら詐欺まがいビジネスもグループによって犯罪性の程度は様々ですが、顧客となった人々を食い物にして使い捨てする点では詐欺と同じです。
さらに、怠けたい・働きたくないというだけの理由でニートとなり生活保護を申請する人々もこの部類に入ります。働ける身なのに働こうとせず、国(他者の税金)から金を騙し取って平気でいるからです。
★付け加えておくと、「ニート」と「フリーランス」をごちゃ混ぜにして語っている現代の人々が愚かしいと言えます。ニートの定義は厳密に言えば、「就学・就労・職業訓練のいずれも行っていない若年者(15歳~34歳)」のこと。→ニートとは
しかし日本のネット民は、企業に就職して固定給を得ていない人たちを全て「ニート」と呼び嘲笑しています。この嘲笑対象にはアルバイトやパート・派遣、自営業者、農業従事者も含まれます。信じ難く許されない職業差別と言えます。
諸葛亮についての悪口を言うためにアニオタや農業従事者を「キ〇ガイの引き篭もり」と呼ぶ京大卒(おそらくサヨク)がいましたが、許されない差別と思いますね。
情報商材ビジネスと、フリー主義の違いを確認
最近、私が批判している「脱社畜教」は本質的に上の後者、“他人から奪い取った金で生きている人々”に該当します。
「脱社畜教」が狡いのは、昔からある
“生き方の選択肢は自由”
“競争から脱して心に従って生きろ”
という自由主義思想を都合の良いように捻じ曲げて利用していることです。
だから私も含め、元々自由主義的な考えを持つ人たちが同じ目で見られて迷惑を被っているわけですが。
“生き方の選択肢は自由”と言っても、それは自分の技術や知識を他人に提供したり、自給自足で身を立てる人生を選んでも良いという意味。
たとえば創作などの知的財産コンテンツを遺すことは、充分に価値ある仕事と言えます。創作に費やした時間は、現実に得たマネーを遥かに凌ぐ永久的資産価値を持つでしょう。
また専門性の高い知識でアドバイスする職業を選んでも良いと思います。頭脳労働も、「汗水垂らして働く」ことに該当します。肉体を動かさなかったとしても労働の価値は同じです。
ただし、情報商材ビジネスは違います。
情報商材ビジネスは、「情報」という名が付けられていても対価として認められる情報など何もなく、「コンテンツ」と名乗ったとしても何ら知的財産として認められるような価値がないからです。
ここで「価値がない」と言うのは、偏見による漠然とした話ではないので注意してください。
これは法的な観点から見た資産価値のお話です。
実は、他人に儲け話を吹き込むだけの、コピーペーストしたような情報商材・ブログ・ユーチューブの勧誘文は「知的財産コンテンツ」として財産価値が認められる可能性が非常に低いのです。
※誰が書いても似た内容となる確率が高い宣伝文・勧誘文などに著作権などの独占的権利は与えられません(著作権法及び判例による)
つまり脱社畜教の教祖たちが主張する、
「会社辞めてアフィリブログ書いたほうが永久的価値ある財産を築ける」
という話は、残念ながら完全なる嘘ということになります。
(また、そのような知財でもない情報商材は他者に売る価値のないものであるとも言える。つまりグレーではあるが「金銭の対価として求められた商品を返すつもりがないビジネス」である点、詐欺に該当する)
知財として認められるコンテンツとは単体それだけで価値があると認められる作品でもあります。
もし純粋にコンテンツとしての価値があるなら、儲け話の勧誘文句を抜きにした内容にて、書籍としてのみ売れるはずではないですか?
「中身が何だか分からない情報商材」を買わせたり、セミナーやサロンの会費で稼ぐようなことをせずに。
オリジナルの想いを表現した文章や絵、音楽などだけが財産としての価値を持ち、人類にとっての永遠の価値を持ち得ます。法律上も世の中的にも。
どうかこの点を間違わないでください。