Y様へ。遅くなりましたが、共鳴する箇所を引用しながらお返事させていただきます。
2月1日付『「自閉症スペクトラム」テスト再受診。独自性ある変人でもASDとは限らない』を読ませていただいて、最近思うことを書いてみたくなりました。親近感を持っていただいて嬉しく思います。
私は世間とズレた感覚を持つ者です。趣味・興味の対象から慣習・生き方に対する考え方まで、他者との間で接点がなかなか見出だせません。(だからか、吉野様の記事をいつも親近感を感じながら読ませていただいています^^)
…(略)…
自分の意見を言えば全否定されるので、社会の中では当たり障りのないことしか言えません。
生まれつき世間の多数派と同じ趣味を持ち合わせなかった者として、周りに合わせるストレスによる疲労感をお察しします。
上記事でリンクしたブログ主さんは、「独自の感性」をチヤホヤする昨今の世間へさらなる疲労感を覚え反発していたのでした。
私は最近ではもう独自性をチヤホヤされることも叱られることも疲れてしまったために、「どちらでもいいよ」と投げ出しているわけですが。笑
それでも、「変人」とは普遍的な価値のあるものなのか、と考えることがあります。つまり今「ここ」にいるから「変人」なのであって、別な場所へ行けば「普通」になるのでは?と。確かに。
デメキンは赤い金魚の中にいると「変人」ですが、デメキンばかりの中に入れば「普通」になるはずです。個性は普遍的ですが、変人かどうかは環境に左右されるのではと思うのです。
今の人間社会ではたまたま「変人」に分類される浮いた個性であっても、違う場所や時代では多数派となるかもしれませんね。
私は最近Twitterをやっていて思ったのですが、あのSNSは自動的に思想で区分けされてしまうコミュニティシステム。放り込まれたグループの他メンバーと少しでも違う考えを持つと村八分に遭ってしまいます。
※何か共通の話題を話しているアカウントのツイートしか表示されず、狭くて特殊な思想グループに組み込まれやすい。そして一度その集団へ入ると他の話題を話しづらくなるため、抜けづらいシステムとなっている。エコーチェンバーとなりやすいプログラム。
その狭い箱のなかで違う意見を言う人は「自分は独りぼっちの変人」だと思って孤独を感じやすくなります。
ほんの少し視点を変えて広い外の世界へ出て行けば、自分と同じ価値観の人はいくらでもいるのに。
そのエコーチェンバーのもう少し大きめな箱がこの地球かもしれません。
いや、もしかしたら「日本」限定である可能性もあります。
外国へ行けば自分と似た価値観の人が大勢いて生きやすくなるケースもあるのでしょう。
あるいは時代限定、ということもあります。
時代が変われば価値観も変わるものです。
私が生きてきたこの数十年でさえ価値観は大きく変わったと感じています。
かつて私が子供だった頃、古典的な意味で自由主義者(liberal,Not Communism)である私は街に一人いるかいないかの少数派で、どこの集団でも「奇抜な変人」扱いでした。
しかし最近ではリベラリストを名乗りたい人のほうが多くなり、そのせいで過剰に「差別っぽいもの」が叩かれる傾向にあります。
私から見ればそれは形だけの自由主義で「勘違いのリベラルもどきが暴走している」と思えるのですが。
それでも、「自由」や「反差別」を主張して叩かれなくなったのは驚きです。
おかげで「変人」と叩かれた私の個性は少し多数派に近付き、埋もれるようになりました。
特別扱いに憧れる人は埋もれることを嘆くのでしょうが。ずっと生きづらさを感じてきた私は、昔よりほんの少し呼吸しやすくなったことを有難く思っています。
しかしこの状態が長く続けばまた居心地が悪くなるのでしょう。
皆が似たようなことを言っている世界は不自然で気持ちが悪いような気もしてきます。
それでまた、異質な人たちが多い世界を求めてしまうのかもしれません。自身の修行のためでもあります。
シルバーバーチによると、死んだら自分と似たような魂の集団(類魂)に戻るそうですが、そこでは私は「普通」のデメキンです。葛藤も苦しみもないでしょう。同感です。
今ここにいるのは葛藤するためなのだと思います。それによってエゴを抑制し、自分より他人を優先するという感覚を身に付けたいと潜在的に望んでいるから、赤い金魚に交わって生きているのではないでしょうか。
私は未熟者ですので、知らず知らずの間にエゴを出し、誰かを傷付けているかも知れません。そのことによる葛藤は免れないものですし、その葛藤を否定的に受け止めず、成長できるチャンスととらえることで、今ここにいる意義を見出せたらいいなと思う日々です。
私も人間関係ではあまりにも未熟で、幾つになっても(何度転生しても)反省することばかり。
またこの先も周囲との軋轢を起こして葛藤してしまうでしょう。特に今は闘いの時期に来ていますから、言い争いの醜態をお見せしてしまうかもしれない。
でも、それはそれで「自分らしいこと」と思えるのです。
個性は無理に求めるものでもないし、周囲から浮いたとしても嘆く必要もないはず。
私はこれからも、“我は咲くなり”で生きていこうと思っています。
お返事になっているかどうか分かりませんが。
温かいメッセージをありがとうございました。今後とも弊ブログをよろしくお願い致します。