「道徳」という免疫側に立ち続けることが私の役割でありテーマのようです

吉野 圭

以前に当ブログの記事を引用して漫画を描いてくださった ななしのあいき さんより、いただいたメールが筆者の以前からのテーマにヒットしたので記事を書かせていただきます。

(メッセージへの返信と言うより私の考えの説明なので、カテゴリは「~について(基本的な考え方)」としておきます)

またむやみに長いので必要なら目次をお使いください。



メール引用と感謝


メール文は要約しようと思っていたのですがニュアンスが伝わりづらいため、そのまま引用で失礼します。
…唐突にこういう事を言うのも、気が引けるのですが、吉野様の言葉が気持ちに届きにくくなりましてメッセージを送らせてもらいました。
もう…いや、最初から正論だけでは人は動かないと思うのです。
自分の描いたマンガですが、それを一部形にしたものです。
(リンク一部自粛)
https://www.pixiv.net/artworks/81284514
https://www.pixiv.net/artworks/81284718
こちらの二本は「進撃の巨人」のエレンの行動(地ならしによる命の駆逐の理由)を核にして、現実を霊的に分析したものです。今日描き上がり更新しました。

最初から、他者…人が正論で一般的な「悪」の行為を止められるのならば、自分自身も虐待や性的暴行は延々と受けなかったと思います。

もっと言うのならば、進撃の巨人にある描写があるのですが「「良い人」が体制を占めたらそれこそおしまい」で、人の行為を全て「正しさ」を前提としてしまうことの方が危ういと思います。

自分の行動や言葉が「正義」だと思えば、相手に対し容赦なく石を投げれるのは、ななしの自身も吉野様も、全ての人にとって同じだと思うのです。
そして、言葉をはじめ、色々なもので人が人の過ちをつつきすぎた先が「殺人」「自殺」「戦争」など、悲惨な結末なのだと思います。(自分自身も、他人や自分自身を正しさで責めすぎて、何度も自殺未遂があったので、体験からの確信です。)

今起きている全ての問題は、自分も含めた「全ての人」が「人を本当の意味で人として見て」解決する必要がある問題だと、ななしのは思っています。
特定の集団や個人を叩いて解決しようとするのでは、また同じ歴史の繰り返しだと思います。
まずは感謝から。

インターネット上で、SNSでもブログでも相手に意見することは非常に勇気の要ることだろうと思います。
何故ならたいてい想定外に相手が激怒してしまい、面倒なトラブルに発展するからです。
ほんのわずかな誤字や誤記を教えただけで激怒されてブロックされることは多いですね。まして、相手の考えに意見したら最後、怨まれてストーキングされ延々と嫌がらせを受けたり。警察沙汰になるケースも散見されます。

世の中、わずかなミスの指摘も受け入れられない・議論のための意見と悪口との区別がつかない方が大勢いる。
それは残念だが事実です。だからインターネットではスルー至上という風潮があります。
または作品で提示されたように、「あえて相手に都合の悪いことは言わず 相手を分析して逆手にとって利用する」。大概の人はこちらを選ぶのでは? (私は、そういう策士気取りの手法が嫌いだから絶対しませんが。話しても聞かない相手とは関わりません)

そんななか。こうして正面から苦言を呈してくださるのは、誠実以外の何物でもないと思うのです。
それも陰口ではなく直接にです。

おそらく今、別館などで「正義の暴走」をしているように見える私を止めるための苦言。
それは私のためと言うよりは、私の攻撃によって潰されようとしている国民・集団のためでしょう。

まあ私が「ある国や集団の人たちをヘイトして殺そうとしている」という見方は少々誤解(誤読)があると思うのですが、何であっても最近の私の言葉に危うさがあることは確かです。

--数行カット--

現実を言えば、別館で書いている話について私自身は内心冷めており、発言の論理的/戦略的な理由を持ちます。ですから決して殺人鬼モンスターにはならないでしょう。が、私の言葉によって周りの人たちが変化してしまいモンスター化する可能性が無いとは言えない。それだけは避けなければなりません。だからそろそろ方向転換が必要と思っていたところ。きっかけをくださったことにも感謝です。


5/24修正点 後でこの記事を見直し、ちょっと過剰に感謝し過ぎたなと思った箇所を数行カット(撤回)しました。
「暴力を止めたいから意見する」との動機が誠実であることは確か。その誠実さに感謝したことも事実です。また私自身、周囲の危険性を感じてもいたので撤退するきっかけをくださったことには本当に感謝。
しかし今回ほとんど相手のことを何も知らないのに、一部のワードを拾って「民族差別主義者」「正義を振りかざした誹謗中傷を愉しむ者(匿名暴力主義者)」とのレッテルを反射的に貼り付け、その括りで批判するのはさすがに失礼と言えます。
このように反射的なレッテル貼りを行い一種の思想立場から批判するのは、下の諏訪緑さんと同じです(だから既視感を覚えた)。反射的なレッテルが当たっているところは多分にあったにせよ、真実とは言えないでしょう。


正論を言いがちなのは私の個性なので、直せないという話


こう、冷静を装って答えていますが、上のメール文を読み、人格としての部分でダメージを受けなかったかと言うと嘘になります。

正直に言えば上のメールを読んで、何年ぶりかの深々としたダメージを受けました。
それと覚えたのは徒労感、ですかね。
「ああまた、その批判か……。またそこからスタートか」
という。

実は、私はこの人生で何度も投げつけられてきた台詞があります。
「正論言いやがって。偽善野郎」
「正義を振りかざすお前が一番の悪だ」
「正義なんかこの世に無い、正義を信じているお前は馬鹿」
等々というもの。
※小説『我傍』読者様や、ブログ読者様はもちろん。私の創作活動を知らないネット外の人たちからも同様

私自身は本気で自分のことを正義の人間と思ったことは一度も無いし、正論を振りかざしているつもりは欠片もないのですが。
いつも書いているけど、私は「正義」という言葉が嫌いなんですよ。意外ですか?

 過去記事参照:
 ・「正義」を疑え
 ・三国志における大義論

それでもどうしても他人は私を
「正義の側に立ちたがる偽善野郎」
と決めつけてくる。
違う! といくら抗っても
「お前はどこかの教科書で学んだ正論を唱え、従っているだけ。原理主義ロボット」
だと決めつけられるということは、きっともう私の本性からしてそうなのでしょう。どうしようもないです。私は誰に学んだわけでもなく自分のまま考え発言しているだけなので。

つまり正論という教科書に従っているように見える言動は、私の有りのままの個性ということ。
何かの施設で矯正されたとしても、変えられない魂の本性です。

もしそれが「有害だから治せ!」と言われるのだとすれば、もはやそちらのほうが私の人格に対する暴力。人格否定の攻撃と言えるでしょう。
(前項の、“暴走に対するブレーキ”とはまた別の話です。あいきさんは、人格否定までは仰っていないと思う)

実際、現代社会で私のような人間は生きづらい。
何故なら現代社会では道徳が完全否定され、正義っぽい匂いを持つもの全てを「悪徳」と考えるような教育が行われてきたからです。
おそらく私と同じようなタイプは現代で成長する過程で個性を否定され、潰されているのではないでしょうか? 私が受けてきたものと同じ弾圧を受けて。

証拠。
『進撃の巨人』でも『デスノート』でも現代の創作は全て「正義」へ疑問を投げかけ、最終的に「正義」など存在しないと明かすスタンスです。
(これらは悪くない目的で描かれた良質な創作ですが、現代教育の影響を受けた代表作なので挙げておきました。もっとはっきりと洗脳の目的をもって、人間らしい行いの全てを否定し、殺人や虐待を正義だとして奨励する作品もあります。これを獣化教育のための教科書と呼びます。作品名はここに書きませんが、いつも書いていることなので察してください)
これは若い方々は気付かないでしょう。
日本ではもう70年以上そのような教育が行われているため、ほとんど真理であるかのように日本人の心へ植え付けられてしまっています。

私の子供の頃は今よりマシで虐めは受けませんでしたが叩かれました。
「お行儀良過ぎ。道徳教師みたいで気持ち悪い。治せ」
と嘲笑され責められることは日常。成績表にも“いい子”風な態度について批判的な言葉を書かれましたね。
だから私は現代で生きていくために自分を殺さねばならない、と思いました。(他に、成績優位で目立つことが恐怖だったせいもあります。それはまた違う話)
しかし、常に自分の考えではない・自分のものではない言葉を喋らねばならない人生は拷問でした。自分の個性=心を殺すことは本当に、肉体の死よりも恐ろしいことと思います。

だから私はある時からそのような「精神の自殺」をやめて、思う通り生きることに決めたわけです。
結果、再び
「道徳教師!」
「クソ偽善者!」
との罵倒をさんざん浴びることになったのですが、それもやむなしと諦めています。

諦めたので、最近は言葉の定義に気を遣うことがなくなりましたね。
たとえば長年、注意して「正義」「悪」との言葉を使うことは避けてきたのですが、最近は毎回の定義が面倒で使ってしまう記事が増えました。
たとえば
 『悪の存在も計画されている? 「必要悪」について私が考えること』
など。
これはメール文の相手が使った言葉へ対応させたため。また、引用しなかった箇所について「悪」としか表現できない行為について語っているので便宜上この言葉を用いているのですが。
上記事を書きながら「きっと、言葉に反応して批判する人がいるだろうなあ…」と予想していました。
あいきさん以上に「正義」「悪」という言葉に敏感な人は大勢いるから、陰口をたたかれていることだろうと思います。揚げ足取りにも使われそう。
でも今は、他の言葉と使うとややこしくなり過ぎる場合、そのまま使うことにしています。
現実社会の話をするときに、哲学あるいはスピリチュアルに焦点を合わせて厳密な定義をすると、ほとんど全ての言葉が封じられてしまうからです。「次元が違う」あるいは「チャンネルが違う」と考える必要があります。


「道徳教師」を受け入れる。免疫キャラクターであり続けるということ


もう少し過去語りをします。

私が本当に諦めて、自分のキャラクターを受け入れようと思えるようになってきたのは最近のことです。
そのためにはたくさんの地雷を踏み傷付いてこなければなりませんでした。

ターニングポイントとなった地雷は、『時の地平線』という作品ですね。あれはクリティカル・ヒットどころか、トラウマ級の爆弾でした。

これで何度目の紹介か分かりませんが、こちらの作品↓には、あいきさんのご批判と全く同じ批判が描かれています。だから、今回のメールを読んで激しい既視感を覚えていました。

tokiti1.png

※画像はアマゾンより


このマンガについての紹介と感想はこちらの別館記事にて。特に痛かった台詞をここにも転載。
・9巻P130

〔バタイ〕
「孔明さま……
あなたはあまりにも性急で理詰めです
きっと……
野心もなく悪気もなく理屈は通っているのでしょうが
それではバショクさまのお心は動かせません」
とかね。
・巻、ページ数忘れ

「うっとおしい性格。全てを自分の責任と思って背負うんじゃねー」
はいはいはい……仰る通りですよ。
ハッ! 今の、吉野への批判ではなかったのですか!? 
などと思わず乗り突っ込み(笑)してしまうような直球で刺さる台詞が多々あり。
そう思うのは私の勘違いなのかもしれませんが、現代だから意外と何があるか分かりませんね。上の感想記事ラスト参照。

(今、アマゾンにて第一巻の紹介文を読み目が点になった。「朝廷軍の将軍・曹操に、朝廷への憎悪をむき出しに立ち向かってくる少年がいた。彼こそが諸葛亮孔明―軍師として史上名をはせた天才の、若き日の姿である。」憎悪? いやいや憎悪って……あのね。確かに曹操は嫌いだけど一個人への憎悪というわけではないし、まして対朝廷ではないよね。こういう設定で描くからなおさら他者フィクションと無関係の私が巻き込まれ攻撃されるのか;)

ともかく、この遠隔による苦言メールのような作品が私の人生を決定的に変えました。
それは子供の頃のような、“自分を殺して嘘のキャラクターで生きる”という地獄へ逆戻りするのではなく。むしろ、「本質個性を変えることは無理なのだからそのまま生きるしかない」という悟り(ある種の諦め)を与えてくれた意味で。

決して、欠点そのままで良いと開き直っているわけではないです。
正義の暴走を肯定するわけでもない。
ただあの作品を読んだことで、「精神の自殺をするくらいなら自分を有りのまま受け入れて生きていこう。どうせ変えられないのだから」、と腹をくくることができたということです。

どうやら私は欠点込みの自分の個性を受け入れ、他者へ与えるイメージ「道徳教師」「偽善者」の看板を背負っていくのが役割のようです。
これは私のお役目だし、今の私の人生テーマなのでしょう。
そしてこれこそが私にとっての、正確な意味のカルマ解消の道だというのが真相です。

もっと真相を言えば、シンプルに対立相手と戦うことが私の人生テーマ。それは私の出生ホロスコープにも表れていますよね?(特にMC)

そんな私個人のテーマ、人生計画を否定することは誰にもできないと言えます。
私の戦いはきっと多くの方に不快を与えているでしょうが、私が虐殺王とならない限り、批判されても引き留められてもやめるわけにはいきません。
これは人を人として見ずに奴隷化する目的ではなく、ただ城壁となるためです。

実は私の本性を言えば、常に防衛に立つ側の者であり、攻撃側になったことがありません。だから自分はモンスターにはならないだろう、と言えます。過去の全てを注意深く見れば私が先に他者を攻撃したことは一度もなく、常に防衛側にいるということが分かってもらえるでしょう。
理想を言えば、永久の「受け師」でありたいと思っています。※「受け師」とは将棋の用語。現実的に言えば、防衛・後攻に徹すること
むろん、防衛すら許せないという極端な戦争嫌いにとって私は、あくまでも誹謗中傷の相手となるのでしょうが。


地上の真理と私が思う話


少し図々しいかもしれませんが自負していることを言えば。
実は今、私のような古代から直接に来た化石のような人間は、現代に必要なのではないか?と感じています。

あいきさんの作品で少し違うかなと思うのは
(今の残酷な世の中や災禍について)これは多くの魂が望んだ結果だ
という箇所。

確かに時代の運命は、その時代に生きている人間の魂のカルマ総合で導き出される計画書です。
しかし、それは「望み」という表現とはまた違います。
と言うのも、「全ての魂が残酷な現実を望んでいるから現代のような残酷な世の中が到来した」ということはあり得ないからです。

残酷な世界の実現を望んでいる者たちは確かにいます。それが目を逸らしてはならない現実。しかし残虐世界を悦ぶのは、約50%の魂でしょうか。
あとの50%は、人類の免疫として盾となり城壁となり、残虐な世界の実現を阻止しようとしています。私は非力ながら、おそらくこちら側に属します。
(これは善悪や正義論とは次元の違う話です。私が自分を「正義」に置いて、誰かを攻撃したい欲望を満たそうとしているのだと勘違いしないでください。単にA/Bどちらの陣営に属しているのか、程度の話)

現代、最もスタンダードな
「暴力に抵抗してはならない。抵抗の戦い自体が、さらなる戦争や悲惨な禍を生むのだ。どんな悪事でも許して受け入れろ、人を裁いてはならない、虐待も殺されることも受け入れろ」
という論。
これは一方から見れば真実でしょうが、我々の側から見れば誤りです。
もし人道を守りたいなら地上で絶対に唱えてはならない主張です。

もちろん被害者の方が、自分を今以上傷付けないために相手を憎むことをやめるのは良いと思います。憎み続けることは辛いことであり、自分を傷付けてしまいますから。
でも周りの者が被害者に虐待を受け入れさせ、加害者の行為を認め奨励するような発言をするのは絶対に違います。やってはならないことです。

たとえば、→このような異常判決をする裁判官を許容していては駄目。人間社会が、こんな蛮行を許す論理に納得してはいけないのです。
この記事で引用している5ちゃんねる民の意見のほうが、真っ当な人間らしい意見と思いますよ。
今や正論を言うのはすっかり少数派となってしまいましたが、このような「正論」が無くなったらいよいよ本当に人類は終わりです。

歴史の話をすると、「暴力を受容せよ。抵抗すると禍が起きる」とする思想は2000年前にある宗教によって布教されました。
今はスピリチュアルジャンルで「引き寄せ法則」を唱える人々によって強固に主張されていますが、現代教育や創作でも、ほとんど全てのものにこの教育は浸透しています。
私が思うに、これは50%の地獄実現を願う者たちによる詐欺教育でしょう。
何故なら、古代人類に元々そういう考えは無かったのですから。そして無かった頃の人類はもっと健全でした。
罪と罰がシンプルで人間的であった時代では、幼児虐待などの残虐な行いは人類免疫として防ぐことができていました。(完全ではないとしても全ての者に伝播はしていかなかった。まして表立って許し、奨励する論など語られることは無かった)

付け加えれば、本当の正論とは、人類の免疫機能として自然に湧いてきたものだけを指すと私は思います。

現実には正論を装った暴力もあります。
本音から出た正論と、嫉妬心や憂さ晴らし・利己主義の都合から出たバッシングは違います。必ず区別する必要があるかと思います。
たとえば、あいきさんのメールなどは「バッシング」にはなりません。義のある意見です。
しかしSNSなどで住所を晒したり人格攻撃するのは、誰かを叩きたい欲望を止められなくなったモンスターの暴力です。
曇りのない目でこの二種を区別できなければ、ただ苦言を呈しているだけの免疫機能を過剰攻撃することになったり、反対にヒトラーのような詐欺師を間違って崇拝することになってしまいます。

これはややこしい話なのでまたいずれ、別記事で書きましょう。
とにかくシンプルな正論を叫ぶ者も必要ということは真理。消えたら終わりの人類の免疫なのだと理解してください。
それでも「正義っぽい者の存在が不快だ、どうにかして正義を潰したい」と思う人がいるなら、それはもうその人が“石を投げる側”なのだと言えます。

最後に繰り返し述べますと、私はこのような自分の個性を殺すことは二度とできません
ですからもし今後も私の言葉が不快で耐えられないとしたら、それは生来の価値観が異なるということ。
精神衛生を保つために私のブログ等々を見ないことをお奨めします。


続き。もう少し具体的な話 >>私が人種・民族差別をするわけがない、絶対的理由(Twitterアカの件など補足)

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