初の定義。私はリバタリアン(中道自由主義)だそうです。【山猫総研価値観診断テスト結果】

2020年9月21日

自分の価値観を他人にラベリングされるのは、ものすごく抵抗があるのですが。
山猫総研の診断テストがあるということで、もしかしたらネット民の脊髄反射ラベリングとは違うのかな?と思って試しにやってみました。

結果、意外なことに私は『リバタリアン』だそうです。
驚き。でもかなり納得。まさか自分がこの比較的新しい分類に当てはまると思っていませんでした。

診断結果:

あなたはリバタリアンです。この象限に当てはまる人は、自由を基調に物事を捉えており、経済と社会の両面において国家の介入に警戒的です。国家主導の経済政策や国としての一体性の保持よりも個々の企業体や個人による選択の自由を重視しています。多様性や少数者の権利を信じていますが、国家による介入に警戒心を持っていることから、自発的な選択こそが最適な秩序を生むと考えています。
また、外交安保ではリアリズムです。外交安保リアリズムとは、憲法改正や日米同盟強化、自衛隊の役割拡大などに賛同する立場であり、現実主義に基づいて一定の軍備を必要とする考え方です。
山猫総合研究所『価値観診断テスト』より

そう、その通り。少ない質問のわりに的確で驚きました。

私は基本的に現実主義なので軍備も必要と考えます(当たり前。防衛第一)。
しかし全体主義ディストピアには抗していきます。
愚民制度を是正した前提でのバランス良い自由国家、修正版・古代アテナイが理想ですね。

でも、私はアメリカにおけるリバタリアンとはかなり違うでしょう。エリートではないし黒人(民族)差別主義者でもない。お国柄も状況も違うから当たり前ですが。宗教も違いますね。
山猫さんの定義はおそらく「右でも左でもない自由主義・現実主義者」というほどの意味。やはり中道ということでしょうか。

追記 あと、「自発的な選択こそが最適な秩序を生むと考え…」も完全ではないかな。公園パーティを防ぐためには自治体の政策が必要、などとは考えます。過激な自警団を防ぐための政策は必要でしょう。ただ国家介入は危険なので最小限を希望。
笑ったのが、表示された分布図で自分の立ち位置を見たとき。特に左の図。
自分で言うのも何だが呆れるほど完璧に中道。
まさかここまで真ん中とは……自覚が無かった。なるほど、これではほとんどの日本人と話が合わないはず。(多くの日本人は極端な左右ではないものの、左右どちらかの台本で話をしていると私は感じる)

私も含め、たいていの人が自分の価値観くらい自分で分かっていると思い込んでいますが、今の世の中で言うところのどこに属するかは分かっていないのかもしれません。
私の場合、表面的な用語だけで「右」「左」とラベリングされることに激しい抵抗を感じながらも、“この人たちの脳には二極しか無いのだから話しても仕方ない…”と諦め口を噤むしかなかった。そんな、既存のグループと話ができず孤独だった私にとっては、この新定義は初めて腑に落ちてスッキリしました。

ただこんな形でもグループ分けで一括りされるのは怖いことです。
決して他の人たちと同じ考えとは限らない。
(ほらほら、そういうところが縛られたくないリバタリアンだろ……というループに陥りそうだけど)
今はまだ新しい定義だから分かりづらいですが、この定義に属する全ての人と賛同できるとは思えません。当たり前のことですが。

具体的に賛同できるところ、納得できないところ

Wikipediaリバタリアニズムの定義を読んでの感想:
まず宗教が違うからアメリカ的な分類は違うと思いますね。キリスト教らしい決定論と自由意志の対立は、理屈では分かっても体感的には共鳴できません。(私の宗教は強いて言うなら、仏教あるいはスピリチュアリズム。決定論と自由意志は対立しない)
また私は「完全自由主義者」では無いし、危険な「無政府主義者」でもありません。それより緩やかで適正な、小さい政府による統治(善良な為政者と国民同士の協力)を望む者です。
そんな国家を表現するなら「修正版古代アテナイ・ポリス」となるわけです。(実を言えば蜀が千年王国となり、そのような小さい国家になれたら理想だったな…とファンタジー的に思います)

しかし、皆が幸福になる自由を実現するためには、「自由の暴走」を留める安全システムが必要不可欠です。ポピュリズム、愚民制度は絶対避けねばなりません。
やはり自由は「他者の身体や正当に所有された物質的、私的財産を侵害しない限り」という制限が必要と思います。だから私は法治主義なのです。個人の命・財産・自由を守るための法治です。

“リベラリストとの違い”について。
まあ私はリベラリスト=全員が社会主義者とは思っていないので(それは日本的解釈)、さほど嫌悪することも無いのだけど、以下は確かに自分が抵抗する考え方。

リベラリズムは結果的な自由を重視して平等を掲げるため、リバタリアニズムと相反する。例えばリベラリズムは、努力を怠った結果としての貧困者や弱者をも救済するため、富の再分配や法規制など政府による一般社会への介入を肯定し、それにより実質的な平等を確保しようとする。

まさにこの、「結果の平等」を求める極端な反差別主義者が諸悪の根源なのだと私は思いますね。口を開けば、差別ではないものを「差別、差別」と叩いているし。
本来、行動や能力によらず結果を等しくすることを「不公平」「不当」と呼びます。古代人類ならそう解釈する。
(もちろんそれは障碍があって働けない人を食べさせない、排除するという意味ではありません。本人の責によらず働けない人は皆で助けて当然)
他人から奪ったり殺したり怠慢していた者へ、他の人々と同等に与えるのは不当に「与え過ぎ」ということになりますね。

「社会的な価値観は収斂すべき」
「社会正義のための国家による介入には肯定的で、格差是正や少数者の権利保護のために積極的な国家の役割を期待」
(山猫総研「リベラル」の解説より)
これも、かなり怖いことです。結果の平等を求めた独裁政権がどれほどの悲劇を生むか、旧東側諸国が示していますね。