現代世間話

    誹謗中傷を考える …この悪意に満ちた世界をどう生き抜くか?

    遅い話題かもしれませんが少々世俗語りです。
    HK弾圧法案や米国のデモなど書きたいことは山ほどありましたが、ここで触れると支障があるので避けました。余裕があればまた別館にて書きます。


    ここではもう少し身近な話をしましょう。
    本当はこれこそ暗い気分になる話だからやめようと思っていたのですが、見て見ぬ振りをして黙るのも暴力をふるう側に加担することになる。ですから亡くなられた人々のために、具体的な話をすることにしました。

    メンタルの健康に問題があり、暗い話を読むと具合が悪くなる方は読むのを避けてください。

    木村花さんの事件


    kimurahana.png
    木村花さん最後のインスタグラムより


    プロレスラーでタレントの木村花さんという若い女性が、ネットの集団暴力でなぶり殺しにされてしまった事件、皆様も既にご存知かと思います。

    私もこのニュースを大変な衝撃と悲しみで受け取りました。
    しかし今さら世間が騒いでいるのが不思議。
    「今さら騒ぐなんて遅過ぎる」と思って憤りさえ覚えます。

    ここ二十数年間、残酷なネット暴力の餌食となり自殺を余儀なくされた人々がどれほどいたことか。
    暴力をふるった者たちは裁きを受けることが一切ないどころか、誰かが自殺すると「ばんざい!」と祝杯を上げ狂喜乱舞、殺人の快楽を味わってご満悦でした。
    それだけではなく、自殺された方を今もまだ延々と嘲笑し続けている。どこまでも卑劣、非道です。

    私自身はネットが普及し始めた頃からサイト・ブログを運営してきたので、このような非道事件をたくさん眺めてきました。
    (念のため。私は掲示板などの集団暴力の加害者側となったことはありません。どちらかと言えばブログ運営者という、常に誹謗中傷のターゲットとなる被害者側ですから戦々恐々として眺めていました)
    しかし自殺者が出ても表の世界で一切報道されることはありませんでした。
    餌食となった無名の人々は声を上げることすらできず、誰からの同情も受けられずに死んで行かれましたね……。

    当時は暴力をふるう側が作り上げた
    「炎上する人は必ず悪いことをやっている。100%その人が悪いから、殺されても文句を言えない。暴力を批判してはいけない」
    という建前が信じられていたこともあります。
    いや、同調圧力の脅迫で信じるように強制されていたのでしょう。
    本当は心を痛めていた人も大勢いたはず。しかし少しでも被害者に同情したり加害者へ異論の声を上げると、今度は自分が標的となるので誰も本心を表明できなかったようです。
    (私自身は、各事件に深く関わったことが無かったので意見できなかったという感じ。一般論として残虐な暴力に苦言を呈する程度だったでしょうか。時々、旧2ちゃんねるを批判していましたが部外者だからスルーされていた…と思います。反応を観察もしていないので実際どうだか知りません)

    確かに、きっかけとして当人が少し変わった言動をして目立ったから炎上するわけです。
    なかには本当に悪質なことをやって炎上をしている人もいました。たとえばボランティアサイトのサポーターが、被災者の方を馬鹿にする発言をしたとか。ストーキングが趣味の変態で若い女子を虐めていただとか。

    しかし、そんな“理由ある炎上”はほんの僅か。
    ほとんどは嫉妬や、ほんの僅かな言葉のあや、たまたまその時だけの小さなミスが原因です。とうてい、なぶり殺しに遭うことが相当な罪を犯したとは言えません。
    もちろんどんな場合でも私刑で集団なぶり殺しにしていい事件などはありません。ここで「相当な罪」とはあくまでも国家の死刑に相当する罪を犯したわけではない、という意味です。

    いっぽうで本当に責められるべき人間のことを彼らはスルーします。
    児童虐待して罪に問われない者や、集団で同級生を虐めて殺してしまったが処罰されなかった未成年 等々。
    人間として許されない行いをした者を責めるネットユーザーは少ないことから、彼らが義憤で動いているわけではないことが分かるでしょう。
    幼児を虐待して殺した非人間の者は赦され、ほんの日常的で些細なミスを犯した女性や子供などの“弱者”だけが心も人生もズタズタに破壊され死んでいく。

    これのどこが、「正義」ですか?


    「正義の行きすぎが誹謗中傷をエスカレートさせている。正義が全ての暴力の原因となっている」
    と言って正義潰しをしている人々へ。
    あの者たちの行いの、いったいどこが「正義」なのですか?

    彼らは暴力の罪を覆い隠すために後から「正義」の皮を被っただけですよ。
    そんな明らかな欺瞞すら見抜くことができないのでしょうか?

    なるほど。だから暴力愛好家を崇拝し、抵抗する者を「悪」「暴徒」と呼んで叩き潰す人が多いわけです。

    たびたび引き合いに出して申し訳ないけど、先日は私もあの種の暴力愛好家と混同され批判されたのですね。
    そう思うと後から腹が立って来ます。(遅延で怒りを感じるタイプ。すみません)

    私がいつ個人攻撃をしたというのでしょうか? もしかして、Wのこと? あれは某国政府に所属する活動家。私の批判は、個人への攻撃ではなく国家による暴力への僅かな抵抗。
    まして民族ヘイトと見做すとは、誤読し過ぎです。

    筆者をあまり深く知らずに早合点した、ということもあるのでしょうが、一番の問題はこの種の勘違い「免疫潰し」によって暴力至上主義社会が築かれていることです。

    あのように抵抗の声だけを「誹謗中傷の暴力」と呼び、一方的に叩くなら、弱者が無抵抗に殺される世の中を認め助長することになります。
    たとえばHKが典型的。核ミサイルまで持つ巨悪の政府に抵抗するHK市民を「暴徒」と呼んで叩き、悪徳政府を援護している日本人が多いのですが、それは虐殺政府の一員となるに等しい行い。
    このままでは被害者が永久に救われません。暴力がどこまでも賛美されて自由に行われるようになる。女性や子供は殺され放題、抵抗の声は潰されるいっぽう。

    日本語でちょっと汚い表現だけど、“味噌も…(自粛)も一緒”という言葉がぴったりです。
    むしろ現代日本は「味噌だけを排除して…を擁護する、…を崇拝する」社会となっています。

    もし、あなた方がほんとうに暴力を防ぎたいという志を持っているのなら、先に暴力をふるった強者たちだけを批判すべき
    暴力への抵抗をしている側の者たち、つまり、あなた方が攻撃しやすい“弱者”だけを吊るし上げて叩き潰そうとするな。
    それは暴力側について援護射撃をする卑劣な行為です。実は裏で誹謗中傷の快楽を愉しんでいた、暴力をふるう側だったと疑われても仕方がない。

    事実、暴力に参加して愉しんでいた者たちが、暴力を批判する声を「正義の行き過ぎ」と言って叩き潰そうとすることはよくあります。
    匿名だから分からないと思っているのでしょうが、言葉の端々にあちら側の人間であることが分かる表現が滲み出ている。

    今回の花さんの件でも、明らかに誹謗中傷を書きこんでいた人たちが「誹謗中傷を責めるのも悪だ。やめるべき」と言って批判者を叩いています。
    自分たちが逮捕されたくないから。ただそれだけ。汚い者たちです。

    そうではなく、なんとなく流行に乗って「正義叩き」している人も散見されますが。暴力を許容して、自分はイイ人なのだと・次元の高い正義感を持っている人間なのだと見せかけたいのですかね? 彼らの偽善アピールのためにも死者が利用されてしまう。あれでは亡くなられた人々が報われない。


    暴力はスタートから暴力


    真実を言えば、この誹謗中傷の暴力に限っては初めから「暴力を目的とした暴力」です。正義が変容したのではなく、スタートから暴力を愉しむことが目的だったのです。

    若い女性や子供、住所を公開している自営業者、物言えぬ芸能人たちがターゲットにされていることで分かるでしょう。
    抵抗される可能性の低い、弱い獲物を探しては、集団でなぶり殺しにする過程を愉しんでいるのです。

    そこには嗜虐的な快楽しかない。
    女性は同性への嫉妬による憎悪がスタートですし、男性は若い女性・子供をなぶる時の性的快楽を得ることが目的。
    人間と言うより獣としての、最も汚い欲望に基づくのです。
    暴力中毒の欲望で動いている獣たちなのだから、どんな説教も届くわけがありません。人間の言語は通じないと思った方が良い。

    よく誹謗中傷する人たちに対して
    「言葉は相手を切り裂くナイフだということを知るべきだ。正義のつもりで書いたコメントが暴力となっていることに気付いて!」
    などと、もっともらしい説教をする人がいます。
    あれは本気で言っているのですか? 愚かなのでしょうか?
    もし本気で、誹謗中傷を趣味とする人々が“暴力”であることの自覚が無くやっていると思っているのなら、人間を知らないにも程がありますね。

    誹謗中傷が趣味の人たちは始めから「言葉はナイフ」だと知っています。相手の心が切り裂かれ、苦しみを与えることを知っています。
    何故なら上に書いた通り彼らは、苦しみを与える目的で書き込んでいるからです。
    逆に言えば、言葉が鈍いナイフだからこそあえて選択して使っているわけです。
    一瞬で相手を殺すことのできる本物のナイフでは退屈でしょう。すぐに愉しみが終わってしまいますから。
    それで、あえて苦しみが長く続く言葉という鈍いナイフを選んでいる。
    相手が痛がって苦しむ期間が長ければ長いほど、彼らの嗜虐的な快楽は増すのです。

    暴力愛好家のことは、諦めろ


    「何故、このような人々がいるのか……」
    「人類から暴力主義を排除する方法は無いのか……」
    そう思案したくなる気持ちは分かりますが、もう無駄なことを考えるのはやめましょう。

    それこそ、今さらです。
    人類の長い歴史で彼らが一掃されたことは無かった。
    人類の50%は暴力愛好家なのだという事実を、いい加減に受け入れるべきです。

    少なくとも今、生きているうちに暴力愛好家たちを改心させることは不可能と思ったほうが良いです。
    何故なら彼らはもう何千年、何万年と繰り返してきた転生のなかで、暴力を愉しんできて魂がその中毒となっているのだから。
    暴力ジャンキーたちは自分が暴力という行為で快楽を得ることを本心から正義だと思っていますし、暴力の愉しみを味わう権利があるとすら思っています。たった一生で改心させることは不可能。この事実を知るべきです。

    文化教育や法律によって暴力愛好の趣味が抑制されることはあります。
    暴力を防ぐ免疫側の人間が自信を持って強くなれば、社会のシステムとして抑制することができるからです。
    古代社会は概ねそのように造られていました。
    日本も、江戸時代までは免疫側のほうが強い社会だったと思います。
    しかし、いわゆる“暴力崇拝の悪魔教”が世界を覆うようになってから人類の教育も変わりましたね。
    暴力を禁じるどころか、「暴力を許せ」「被害者は泣き寝入りすべきだ」という教育が行われている。
    法律も形は整っているのに被害者救済のためにはほとんど運用されず、加害者は一切処罰されることなく無罪放免。被害者は一方的に傷付けられ、裁きの場でも踏みにじられるばかりです。

    もちろん、それでも暴力をふるった者たちを法律で裁く努力をすることは必要です。
    花さんの件でも、誹謗中傷を書きこんだ人々は必ず刑法で処罰されるべきでしょう。殺人事件に等しいのだから。
    そんなことは論じられるまでもない。

    開示請求を容易にする法改正も良い。
    ただ、この“味噌…一緒”の現代では、法改正してもきちんと被害者救済のために使われるか疑問。
    なおさら暴力愛好家側だけが、免疫潰しのために使う兵器が増えるのではないかと疑ってしまいますね。
    たとえば悪いことをしている政治家が批判の声を潰すためだけに使うとか。
    悪いことをしている団体が、抵抗する声を潰すために使うだとか……。

    このようなわけで、法律も教育も無力とまでは言えませんが完全な解決法にはなりません。

    優れた文化教育によって社会の免疫を高めていくことは絶対必要ですが、時間がかかります。
    “今すぐ”
    目の前の命を救うには、暴力愛好家がいるという事実をまず認める必要があります。


    暴力から身を守るために


    これは実は国家防衛でも使える原則。
    最初に現実をありのままに受け入れることが肝要です。全ては現状分析から始まるのです。

    つまり、まずはこの世に暴力が存在する現実を認めること。
    そのうえで現実的な対処をします。

    身体への暴力や脅迫には迷わず警察を呼ぶ。
    緊急を要する場合には、必ず逃げる。誰かに訴える。大声で叫ぶ。
    酷い誹謗中傷コメントは、見ない。自分の精神はそれほど強くないと認めて、防御する。刑法処罰をするために見る必要があるなら、弁護士など他人に見てもらう。

    そもそも素直に批判コメントを受け入れる必要は無いのですよ。
    暴力愛好家の言うことなど相手を苦しめるためだけに考えた嘘なのだから、一切価値はありません。
    暴力を趣味とする魂から学ぶべき思想があるはず、ないではないですか? あるとすれば、「最高にエクスタシーが得られる暴力のふるい方」「捕まりそうになったときの逃げ方」だけです。
    あるいは「暴力愛好家の生態」とか。彼らが暴力を糧としながらどのような日常を送っているか、その腐敗した行動を分析することは研究価値がありそうですね。


    死なないために、自分のなかに真実を抱く


    防御に最も有効なのは、自分自身のなかに真実を持つことです。
    それは、どのような暴力が襲ってきても決して傷付くことのない、「自分は愛されたことがある・価値のある人間だ」という真実のことです。

    愛されたという記憶は、今この時点である必要はありません。
    離れた場所にいる家族からでもいい。別れた恋人からでもいい。
    幼い頃だけ会うことのできた祖父母からでも。
    今の人生に愛された記憶が無いなら、前世でもいい。
    あるいは空を見上げて、この世界に存在を許されているという事実に気付くのでもいい。

    もし、今この時点にしか焦点を合わせてはいけないのだとすれば、暴力をふるわれている・誹謗中傷を浴びている自分だけが全てと誤解してしまうでしょう?

    人は「永遠など無い。今この時点しか存在しない」と思ったときに追い詰められ、死を選んでしまうのだと思います。
    学校やSNSなど狭い世界を「全て」と思ってしまうことと同様。
    集団や、時間の牢獄という狭い箱のなかに閉じ込められたとき、死を選ぶしかなくなってしまう。

    だから精神を広げなければなりません。
    心のなかに広い世界を持たなければなりません。

    私が前記事『人生は思い出だけでも充分』で書いた通り。

    なかなか難しいでしょうが、この暴力に満ちた世界を生き抜くためには、自分のなかに揺るぎない免疫を持つしかありません。
    永遠の愛に気付いて世界の広さを知ることができるかどうかも本人次第。
    それは決して強さなどではなく、愛に気付く心を持てるかどうかです。

    愛に応えたいという誠実だけが魂を守ります。
    “最後の最後に自分を救うのは自分しかいない”とは、こういうことです。


    可能なら、生前に愛の声を届けてあげて(これはご本人の周りの人へ)


    花さんの事件に触れて投稿した下の呟きで書きたかったのも、「愛された真実を忘れてはならない」ということでした。
    決して愛に気付かなかった花さんを責めるために書いたわけではないし、生前に愛の声を届けなかった周囲の人たちを責めるつもりでもありません。
    ただ、同じことが繰り返されて欲しくないので書いたまで。

    (あるまとめサイトを読み)

    非人間な誹謗中傷の具体的な内容とともに、仲間たちや芸能人たちの温かいコメントも掲載されている。

    仲間たちのコメントを読んでいると花さんがどれだけ愛されていたか分かる。

    どうして、これだけの愛が生きているうちに届かなかったのだろうか…。

    亡くなる直前まで届くのは最低な悪魔どもの声ばかり、暴力だけが彼女の周囲を覆っていた。

    生きているうちは相手が強いと思っているし、遠慮もあって、愛を表現することが難しいのかもしれない。

    もちろん… 亡くなった後でも愛の声は届く。死者を踏みにじるような鬼畜の行為よりいくらかまし。

    でもほんとうは生きているうちこそ助けが必要と思う。


    最も理想的なのは、本人が周囲の愛を揺るぎなく信じて身を守ることです。
    でも誹謗中傷の集中暴力を浴びているときは、なかなか難しいかもしれない。うつ病となれば正常な思考さえ持つことが難しくなるから真実に気付きにくくなります。

    だからできれば、その人を愛している人たちは直接本人に「愛してる」の声を届けてください。

    花さんの事件ではコロナによる自粛期間と重なったことが本当に不幸だったと思います。
    もし彼女が仕事に出ていて周りの人々と直接に話すことができれば、誹謗中傷など真実ではないと気付くことができたでしょうに。ファンの声援も直接に届いていたでしょうに……。

    せめて花さんのご冥福をお祈りします。来世が幸せでありますように。
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