小説【試し読み】

    水の話【小説・水魚之交】

    ※これは、自作品『我傍に立つ』の番外編として書いた短編を実名化した小説です。「統領」とは私のフィクションの中での主人の呼び方(現代日本語ニュアンス)であり、史実として正確なものではありません。

    水の話



    「水、ですか」
    「そう、確かに“水”と」
    「水……」
     私は口の中でその言葉を繰り返し考え込んだ。

     話がある、と趙将軍(趙雲・子龍)が私を庭に呼び出したのは、夏の日差しが降り注ぐある午後のことだった。色が白過ぎて青くも見える顔をうつむけ、彼はため息をつく。
    「参るよ。あの方の言動には」
    「しかし、いったい何故、“水”と仰ったのです?」
     私が訊ねると趙将軍はその整った眉をひそめた。
    「さあ。僕などには想像も及ばないよ、あの方の発想は。むしろ君のほうがよく分かっているのではないか? 夜通し語り合う最中に、お互いをそのようにたとえる話が出たのでは?」
     彼の言葉に含まれる小さな棘に気付いて私は気持ちを曇らせた。
    「いいえ。覚えはありません」
     私の落ち込みを見て、趙将軍は自分で自分が口にした嫌味に気付いたようだった。一転して私を励ますために笑顔を作る。
    「そうか。君にも覚えがないか。なら、仕方ない。だいたい君には責任がないじゃないか。悪いのは自由奔放過ぎるあの方だろう。まったく困ったものだよ。この現状をご覧になって、もう少し考えてから発言していただきたいな」

     趙将軍が嫌味を口にしたのも無理はなかった。
     彼は苛立っていたのだ。彼だけではない、この時期、軍閥内の全ての人間が苛立っていた。ただ一人、統領を除いて。
     出仕当時から疎外されている私に友人として声をかけてくれたのは趙将軍だけだった。私よりも十歳年上という、この軍閥内では比較的に近い年でもあったし、また良い家柄出身の彼はかつて自分も疎外されたことがあるので共感を持って親切にしてくれたのだろう。それに彼は穏やかで冷静な性格だ。怒る姿など見たことがない。その趙将軍まで苛立たせるということは、統領の発言で相当に状況が悪化したという証だった。

    「……ん。どうした」
    「は?」
    「君。震えて、いるのか」
     下を向いて考えにふけっていた私は趙将軍の言葉で顔を上げた。
     彼の灰色の瞳が驚いたように見開かれていた。その視線の先を辿り、初めて私は自分の肩が小刻みに震えていることに気付いた。
     どうしたのだろう。背筋が寒い。身が凍える。
     急に気温が下がったのかと辺りを見回してみたが、そうではないようだった。陽光を浴びて中庭の木々は濃い緑を輝かせている。
     ああ、そうか。寒いのではない。
     怖いのだ。
     怖いと気付くことさえ出来なかった強い恐怖に侵されていたのだった。叫び出しそうになるのを堪えているから、歯の根が合わず肩が震える。私は極寒の地で身を温めようとする人のように、自分で自分の両腕を抱えてみた。しかし震えは絶えることなく、身体の奥底から湧き上がって来ていた。
     くすり、と笑い声がして肩を叩かれた。
    「そんなに恐れなくてもいいよ。確かに困った状況だけど、僕がついてるから。関将軍もいるし、張将軍もいる。これだけ強い味方が付いているのだから、君は安心していればいい。ただ少しだけ部屋にいる時間を長くしてくれ。あまり一人で歩き回らないように」
    「ええ。ありがとうございます」
     私は冷や汗を拭って作り笑いを返すのが精一杯だった。趙将軍はさらに何度か私の肩を叩き、苦笑する。
    「それに正直なところ羨ましい話だよ。あの統領から、“かけがえのない存在”と呼ばれるなんてね」


     統領が自分を“魚”にたとえ、私を“水”にたとえたのは、私が出仕して間もなくのことである。
     精鋭部隊(古参兵の集団。昔から主人と一緒に戦って来た人々)の誰かが、
    「どうしてあんな新参者をヒイキにしているのか」
     と主人に訊ねた際に、彼は軽い口調でこう答えたのだ。
    「自分は魚で、あいつは水のようなもの」
     ――つまり、“あいつは必要不可欠”、“かけがえのない存在”と宣言したのだった。
     この話を聞いて皆が素直に納得したかというと、まさかそんなことはない。人の心がそこまで簡単なはずはないのである。
     軍閥内にあっという間に知れ渡ったこのたとえ話は、結果、火に油を注ぐこととなった。
    「古株の自分たちを差し置いて、新参者を“水”だと! “あいつがいなくなったら生きていけない”だと!」
     主人とともに命懸けで数々の闘いを潜り抜けて来た兵たちは、屈辱に打ち震え涙を流した。
     半ば本気でこう言う者もいたという。
    「奴がいなければ生きていけない、と統領は言ったんだな? だったら、本当に統領が死ぬかどうか、試しに“水”を殺してしまえ」


     この状況、怖くなかったと言えば嘘になる。
     殺意を抱いた人は一部だったとしても、誰もが私を憎み嫌っていた。廊下を歩いていて、いつ柱の影に引きずり込まれ袋叩きに遭ってもおかしくはなかった。
     けれど私はそうなっても仕方がないことだと思っていた。
     主人に命を捧げて来た人々の気持ちは若輩の私にも理解出来る。長年尽くして来た恩は報いられず、新参者に立場を奪われた彼らの悲しみ、悔しさは当然のものだ。もし殺されることになったとしても私は諦めて運命を受け入れただろう。
     だから子龍から“水”の話を聞いた時に感じた、あの激しい恐怖は自分でも意外なものだった。
     不可解な恐怖はしばらく私の中に留まり、心の底で淀んだ。


    「統領」
     数日後の夕刻。休息を取っている統領の寝室へ密かに伺って声をかけると、寝台に長々と寝そべっていた彼は、寝ぼけた顔を上げた。
    「なんだ。また深刻な顔して」
    「あの、噂話のことですが」
    「噂?」
    「本当なんですか。私を、その、“水”と呼ばれたとか」
     統領は楽しげに笑う。
    「噂ではない。本当だ」
     私は恥ずかしさと混乱で顔が熱くなるのを感じた。
    「何故、そのようなことを……いえ、ありがたいお言葉ですが、私ごときにはもったいない……」
    「もったいないことなどあるものか。俺にとってお前は、かけがえのない存在だ。それは本当のことだろうが。本当のことを言って、何が悪い」
     この人はいつでもこうだ。断定で物を言う。一度確信を持ったことに対しては決してぶれることも遠慮することもない。
     あまりにもはっきりと告げられるので、私のほうはうろたえてしまう。光栄な言葉に感謝することも忘れ抗議した。
    「し、しかし。今の時期にそのようなことを、公に宣言されるのはまずいのではないでしょうか」
    「公になんか宣言してねぇよ。数人しかいない場で言ったんだ。おおかた益徳(張飛の字)の奴が言いふらしたんだろう。あいつ、ガキみたいにこういうこと面白がるからな」
     自分も面白そうに笑っている。
     おかげで殺されるかもしれない私はさすがに怒った。
    「そんな、お気楽にされている場合ではありません。あなたの発言のおかげで皆の怒りは頂点に達しているのです。このままでは大変なことに……」
    「ああん? 大変なこと? お前が殺される、とか?」
     寝そべったままの格好で寝台に片肘を立て、頬杖をついて統領は私を見上げた。
    「俺は、構わないよ。お前が殺されても」
    「な、何を」
     唖然としている私に彼は淡々と言う。
    「俺はお前が殺されても泣いたりわめいたりすることはない。お前とは常に一体だということが分かっているからだ。そうだろう。違うか?」
     私は声も出せなかった。深い確信を持つ人を目の前にして、言葉さえ返すことが出来ない自分を恥じた。
    「なあ、聞けよ。魚は水あってのものだ。俺はお前なしには泳ぐことが出来ない。しかし俺は知っている、お前が死んでもいなくなったわけではないことを。だから俺は泳げない魚となっても安心して待つだろう。再び水と巡り会い、蘇る時を」
    「……あ……ありがとうございます」
     ようやくそれだけ言った私を見て、統領は口の片端を上げて笑った。
    「お前も分かっているだろうよ。俺たちは切っても切れない関係なんだ。だから、ぐずぐず小せぇこと心配してんじゃねえぞ。お前ともあろう奴が。小せぇことにこだわるな」
     言うと統領は大あくびをし、ぱたりと顔を寝台に伏せた。それきり話が止まったので近付いて声をかけた。
    「統領?」
     すると、ぼんやりした声が返って来た。
    「孔明よ。お前は死んだ魚だった俺を蘇らせてくれた……俺は蘇るよ何度でも……お前が蘇らせてくれるんだ」
     寝言なのだろうと思いしばらく耳を傾けていると、はっきりとした呟きが聞こえた。
    「水というよりお前は、魔法使いかな。俺を蘇らせる、“魔法使い”」

     後ろ手で寝室の戸を閉めてからしばらく私はその場に佇んでいた。
     膝の震えが止まらなかった。
     私は先刻まで自分が考えていたことに気付いてしまい涙を流した。口元を抑えるが、嗚咽が漏れる。
     なんということだろう。
     私は、逃げようとしていた。
     子龍から話を聞いて不可解な恐怖を覚えてからというもの、今の今まで逃げることばかり考えていたのだった。
     無意識とはいえあってはならない、恐ろしく悲しい考えだった。
     思えば、あの人の手を握る瞬間に私はどれほどの勇気を振り絞ったことだろう。鼓動は激しく高鳴り、全身が震えて眩暈がしていた。それでも恐怖を乗り越えて握った手だった。
     もう逃げてはならない。最大の恐怖を越えることが出来たのだから。
     せっかくこうして巡り会え、手を繋ぐことが出来ているのだから。
    “大丈夫。何も怖がることはない”
     心に刻まれた統領の声と笑顔が、少しずつ私の恐怖を溶かしていくのを感じた。

     何が私を怖がらせ、主人から逃げようと考えさせたのか。
     不可解な恐怖の源をこの時の私は知る由もなかった。
     けれど主人との間に築かれた確信は揺らぎなく、その後の人生を越える力となった。そしていつしか、不可解な恐怖も消えてなくなるのである。


    (了)

     >>この短編小説について、解説 ※ネタバレあり。要パスワード
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