2015
Sep
29
-
『死後を生きる』感想まとめ、段階を飛ばさないこと
松村潔著『死後を生きる』レビュー、まとめです。
最後からの数十ページを読むと「やはり凄いなこの人」という印象。
P194の「事象から表象を引きはがす」で表象とは明らかにプラトンが観ていたイデアのことを言っており、それを観念として語るのではなく実際にこの人は「観ている」わけだから、限りなくプラトンレベルに近付いていることになります。
この本では冒頭の序章、そして最後の数十ページだけに圧巻の価値があります。
前記事で引用したアマゾンレビュアーの方はかなり読解力あり、鋭いですよ。
中間の、どうでもいいダラダラとした定義ぶれのある備忘録について「よく分からん」と言うのは、裸の王様に「裸だよ」と言う子供と同じです。
この本は原稿を出された時点で編集者が「先生、もう少し整理して書いてください」と意見しないと駄目でしたね。
せめて「利休どの! もっとかいつまんで仰れ!」とでも言ってくれ。
松村先生の用いる言語は難しいので、誰も彼の言っていることが分からんのです。分からんのに、バカだと思われたくなくて理解した素振りを見せて「素晴らしい」などと編集者たちも言った光景が想像されます。
多くのレビュアーもそんな感じですね。正直なレビュアー「ぽい」さん、偉いです。
ところで「魂」の定義は、この本のラストでようやく統一されます。そこを読むとやはり松村先生は魂を個として見ておらず「類魂」または「霊脈」と同義に考えているようです。
したがって、松村先生にとっての「前世」はこの霊脈グループに所属する他の個体の経験、というイメージになります。
私は彼の考えを深く理解できます。
と言うのも、最初の前世を思い出してからしばらく、その前世を受け入れたくないものだから「類魂」「霊脈」の思想に逃避したからです。
「輪廻転生という現象はあるのかもしれない。でもあの記憶は決して私自身ではなく、類魂の他の人が経験した記憶だ」
と言っていました。
今から考えるとこれは言い訳であり、現実逃避に過ぎませんでした。
犯罪者が裁判で、多重人格者でもないくせに、「あの事件は“今の私”が起こしたのではない。あの瞬間に存在した、“あの時の私”という別な存在がやったのだ」と主張するに等しい言い逃れです。
類魂・霊脈は確かに存在するのですが、そのグループに所属する魂たちは肉体に近いレベルで個性を保っています。この個性は地上時間で長期間続きます。
※ここで私の定義している「魂」はエーテル体に限りなく近いものです。エーテル記憶は譲渡されることもある、という話は面白いのですが、譲渡された場合はそれなりの契約に関する記憶があり別個性として他人の記憶を代理で背負う感覚があるはずです
死 → 霊脈
と直行するのではなく、
死→魂(個体)→類魂(集合体)→→→…霊脈
と段階を経て行くというのが真実です。
ちなみに一つの魂(個体)の中にも数多くの前世があり、これら前世は同時に存在しているので、このことを「類魂」の一種と考えることができます。私にとっては『前世一覧』の全てが類魂なのです。
一般的に「類魂」と言ったときには、この一個の魂が持つ無数の前世×他の魂が持つ無数の前世、となります。
つまり「死んでいきなり霊脈に属する」と考える人の想像よりも、類魂は莫大な数になります。
たぶんソクラテスやプラトンはこの段階をよく知っていて受け入れていました。
古代ギリシャの人たちは皆そうだったのかもしれませんが。
しかし後世の形而上解説者たちはプラトンを読解する際に中間段階を「バカバカしい。古代人の迷信」と笑い飛ばしてしまい、高次元な思想哲学だけを真実として語るようになります。
そんな思想哲学を少しでも齧ってしまうと、中間をすっ飛ばして急激に霊脈世界だけを語り「時間などない。前世などない」と言い出します。
(松村先生は、今このレベルだと思います。プラトンにはあと一歩及ばない)
だから正直な人たちから
「利休どの! かいつまんで!」(笑)
と言われてしまうのです。
禅問答は真実だとしても、中間の段階を飛ばして語っては何の役にも立ちません。
たとえば「時間などない」と霊脈レベルの真実を主張したところで、地上には時間がありますから、時間を無視した生活をする人は社会に参加することが出来ないでしょう。
「吾輩は悟りを得たのだ」と言って時間を無視して遅刻ばかりしている人は、存在そのものが迷惑です。仕事を辞めて引き篭もり餓死するしかありません。
地上において、時間があるというのは事実なんです。
同じく、個性を保った準肉体現象としての「輪廻転生」も、地上に近いところで起きている事実現象らしいです。
まず、この事実を認めて信じないことにはその上には行けないことになります。
階段を100段も飛ばして上階には行けないのですよ。
その意味で、前世を「コード」化した空想としか見ず、誇大妄想的な恍惚感に酔っている人たちへは
「甘えるな! お前はまだその段階ではない」
と言えることになります。
※追加
同じ意味で、生きている人間の意識だけを「エゴ」と呼び、死んだらそのエゴが消滅する(輪廻転生はエゴの妄想に過ぎず現実には存在しない・自分は死後すぐに悟って釈迦と同等になれるんだ)と思い込んでいる人にも「甘えるな!」と言いたいです。自分はどれだけ高尚な人間だと思っているんだ?
まずは嫌でたまらないこの地上生活を経験し、嫌で嫌でたまらない地味な前世を受け入れることから始めなければならないと思います。
それが正しい意味での「悪魔(という現実)を受け入れる」ことになるのではないでしょうか。
最後からの数十ページを読むと「やはり凄いなこの人」という印象。
P194の「事象から表象を引きはがす」で表象とは明らかにプラトンが観ていたイデアのことを言っており、それを観念として語るのではなく実際にこの人は「観ている」わけだから、限りなくプラトンレベルに近付いていることになります。
この本では冒頭の序章、そして最後の数十ページだけに圧巻の価値があります。
前記事で引用したアマゾンレビュアーの方はかなり読解力あり、鋭いですよ。
中間の、どうでもいいダラダラとした定義ぶれのある備忘録について「よく分からん」と言うのは、裸の王様に「裸だよ」と言う子供と同じです。
この本は原稿を出された時点で編集者が「先生、もう少し整理して書いてください」と意見しないと駄目でしたね。
せめて「利休どの! もっとかいつまんで仰れ!」とでも言ってくれ。
松村先生の用いる言語は難しいので、誰も彼の言っていることが分からんのです。分からんのに、バカだと思われたくなくて理解した素振りを見せて「素晴らしい」などと編集者たちも言った光景が想像されます。
多くのレビュアーもそんな感じですね。正直なレビュアー「ぽい」さん、偉いです。
ところで「魂」の定義は、この本のラストでようやく統一されます。そこを読むとやはり松村先生は魂を個として見ておらず「類魂」または「霊脈」と同義に考えているようです。
したがって、松村先生にとっての「前世」はこの霊脈グループに所属する他の個体の経験、というイメージになります。
私は彼の考えを深く理解できます。
と言うのも、最初の前世を思い出してからしばらく、その前世を受け入れたくないものだから「類魂」「霊脈」の思想に逃避したからです。
「輪廻転生という現象はあるのかもしれない。でもあの記憶は決して私自身ではなく、類魂の他の人が経験した記憶だ」
と言っていました。
今から考えるとこれは言い訳であり、現実逃避に過ぎませんでした。
犯罪者が裁判で、多重人格者でもないくせに、「あの事件は“今の私”が起こしたのではない。あの瞬間に存在した、“あの時の私”という別な存在がやったのだ」と主張するに等しい言い逃れです。
類魂・霊脈は確かに存在するのですが、そのグループに所属する魂たちは肉体に近いレベルで個性を保っています。この個性は地上時間で長期間続きます。
※ここで私の定義している「魂」はエーテル体に限りなく近いものです。エーテル記憶は譲渡されることもある、という話は面白いのですが、譲渡された場合はそれなりの契約に関する記憶があり別個性として他人の記憶を代理で背負う感覚があるはずです
死 → 霊脈
と直行するのではなく、
死→魂(個体)→類魂(集合体)→→→…霊脈
と段階を経て行くというのが真実です。
ちなみに一つの魂(個体)の中にも数多くの前世があり、これら前世は同時に存在しているので、このことを「類魂」の一種と考えることができます。私にとっては『前世一覧』の全てが類魂なのです。
一般的に「類魂」と言ったときには、この一個の魂が持つ無数の前世×他の魂が持つ無数の前世、となります。
つまり「死んでいきなり霊脈に属する」と考える人の想像よりも、類魂は莫大な数になります。
たぶんソクラテスやプラトンはこの段階をよく知っていて受け入れていました。
古代ギリシャの人たちは皆そうだったのかもしれませんが。
しかし後世の形而上解説者たちはプラトンを読解する際に中間段階を「バカバカしい。古代人の迷信」と笑い飛ばしてしまい、高次元な思想哲学だけを真実として語るようになります。
そんな思想哲学を少しでも齧ってしまうと、中間をすっ飛ばして急激に霊脈世界だけを語り「時間などない。前世などない」と言い出します。
(松村先生は、今このレベルだと思います。プラトンにはあと一歩及ばない)
だから正直な人たちから
「利休どの! かいつまんで!」(笑)
と言われてしまうのです。
禅問答は真実だとしても、中間の段階を飛ばして語っては何の役にも立ちません。
たとえば「時間などない」と霊脈レベルの真実を主張したところで、地上には時間がありますから、時間を無視した生活をする人は社会に参加することが出来ないでしょう。
「吾輩は悟りを得たのだ」と言って時間を無視して遅刻ばかりしている人は、存在そのものが迷惑です。仕事を辞めて引き篭もり餓死するしかありません。
地上において、時間があるというのは事実なんです。
同じく、個性を保った準肉体現象としての「輪廻転生」も、地上に近いところで起きている事実現象らしいです。
まず、この事実を認めて信じないことにはその上には行けないことになります。
階段を100段も飛ばして上階には行けないのですよ。
その意味で、前世を「コード」化した空想としか見ず、誇大妄想的な恍惚感に酔っている人たちへは
「甘えるな! お前はまだその段階ではない」
と言えることになります。
※追加
同じ意味で、生きている人間の意識だけを「エゴ」と呼び、死んだらそのエゴが消滅する(輪廻転生はエゴの妄想に過ぎず現実には存在しない・自分は死後すぐに悟って釈迦と同等になれるんだ)と思い込んでいる人にも「甘えるな!」と言いたいです。自分はどれだけ高尚な人間だと思っているんだ?
まずは嫌でたまらないこの地上生活を経験し、嫌で嫌でたまらない地味な前世を受け入れることから始めなければならないと思います。
それが正しい意味での「悪魔(という現実)を受け入れる」ことになるのではないでしょうか。
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