「正義は勝つ」のか? 改めて考察 (と、記憶の種類について)

2020年11月10日

20日に書いた記事、誤りが多かったようです。すみません。修正しました。

→『正議』という文について感じたこと

まず、『正議』と書くべきところを『正義』としてしまった。変換そのままに。
それから、「記憶」について矛盾するような意味不明な書き方となっていました。見直しせず公開する癖、反省です。

 

持論が変わっていなかった驚き

「記憶」のことを正確に述べておくと
“持論として周囲に説いていた記憶はある”
ということになります。感覚として。
ただ、はっきりとした場面記憶を持つわけではない(誰かと会話した場面を映像として覚えているわけではない)し、裏付けの記録を知らなかったために自信が無く
“もしかしたら当時は違うことを考えていたかもしれない”
と思っていたわけです。
何しろあれは今の自分の強い持論でもありますから、現代で養われた感覚の可能性もあると思っていました。

もともと夢などで見た場面記憶にも、建物や調度品のイメージには必ず現代文化の加工が施されていました。
なにしろ夢ですから。映像加工されるのは、今世中の記憶を素材にした夢と全く同じ。

いっぽう、
「自分はあのときこういう考えでいた」
とは確固たる感覚なのですが、あくまでも感覚でしかない
現代人の私がその考えに全く抵抗が無いということは、現代感覚で作り替えられている可能性も捨てきれません。
人間は時代と状況によって考えが変わるものですから。生きているうちに変化することだって頻繁にありますよね。私も、ほんの三年前の自分のブログ記事を読み返して考えの変化に驚くことがあります(トランプ氏嫌いから支持へ変わる、など小さなことですが)。
だから私も、当時の自分の考えについてはっきり「こう」と言い切れないのです。

しかし今回初めて、明確に感覚記憶が裏付けられました。
結果、今の持論とのあまりの変化のなさに唖然としましたね……。
本当に時代、変わってる??
と思わず目をこすってから見直してしまったくらい。
適当に書いているこのブログの三年前の記事よりも、よほど確固たる「今現在」に近い気がします。

我ながら安心の安定感。(ぶれなさ過ぎ。驚異のワンパターンとも言う。笑)
魂に刻まれた強い信念は時代や環境でも変化しないものなのでしょうか? 心底驚きました。

正義は勝つ、のか?

話は変わりますが、改めて吉野の考えとしてこの件について述べておきます。
公開の場ですから少し詳しく書きましょう。
テーマ: 「正義は勝つ」のか?

※用語の定義は最後の項参照

 

結論から言えば、正義だけでは勝てませんよ。
戦争なら、物理次元の軍備を徹底して整えるのが前提。
ビジネスなら、資金を得て商品(サービス)を揃えなければ商売できない。
当たり前です。
あまりにも当たり前過ぎるために、上の文書のように省略して語られる場合があるというだけのことです。

「劣勢でも正道にかなっていれば勝利できる」
とは言っても、圧倒的に巨大な敵に対し、丸腰で向かって行っては無駄死にするだけ。
現代・HKの人たちへも言いたいのだけど、玉砕の美学など自己満足の陶酔でしかありません。
語らず死んだ者たちは一瞬で忘れられます。
あと半年もすれば、大勢の人たちが死んだことすら「無かったこと」にされてしまうはずです。
だから、自ら口(意見を述べる命)を棄ててはならないのです。残された時間の限り生きて叫んでこそ最終勝利が得られる。

 

人事を尽くして天命をまつ
この言葉は、「人事を尽くさない者(やるべきことをやらない人)は何の結果も得られない」という意味です。
しばしば「努力しなくても神様に祈ってさえいれば願いが叶うんだあ♪」という都合の良い意味に誤解している人を見かけますが、そんなことは昔から誰も言っていないので勉強し直してください。

武士は食わねど高楊枝、それは不可能です。
兵士は飢えて白骨となったら戦えません。
竹槍で核ミサイルに立ち向かえるわけがありません。
初めから現実を整える努力を放棄して神仏に祈りを捧げるだけで、勝てるわけがないでしょう。
ちょうだい、ちょうだい、と泣きわめくだけの子供に飴を与えますか? 与えるとしたら最低の甘やかし親です。そのような甘やかしはDVにも等しい育児放棄。
神々(オーディエンス)は地上の魂を育てようとしているきちんとした親なのですから、人事を尽くさない者へ与えることは一切しません。本人たちのために、助けたいのを必死でこらえて見守るだけです。

道理は現実の力

いっぽう、物理次元の人事を徹底的に尽くした後なら、最終局面で決定打となり得るのは人道・正道です。
何故なら人々もオーディエンスも、同じ道理にしたがって動いているからです。

私がいつも
「道理=合理」
と言っているのは、目に見えるハード的な力以外のソフト面、“見えない力”は現実の力であるという意味です。
人々の共感を得て支援がある側と無い側、どちらが最終局面で勝利すると思いますか? もし物理次元の戦闘で敗けたとしても、そんな敗北は一時のことで、最終勝利は道理にかなった側にあるのです。

と、結果を得てから私が述べると言い訳じみていて、情けないですがね……。
過去を他人として観察するなら確かに、「一時的な勝利を棄てて永遠の勝利を選んだ」と言えます。これほど強固な勝利があるでしょうか?

 

道にかなったほうが最終勝利する。
この真理は現代の軍学やゲーム理論によってようやく証明されつつあり、“見えない力”が尊重されるようになってきました。

“目的のためなら手段を選ばず”
超限戦を行う地獄の虫たちが、暴虐の限りを尽くし世界征服できたとしても、そんな勝利は一時的なものです。
嘘が消えることはないし非難の声がやむことはない。
欺瞞を通すためにどれほど反対意見の人間を殺し続けても、生まれ変わってまた道義を叫ぶのですから無意味です。
さらに神々(オーディエンス)すら同じことを語り続け、未来へ伝えてくれる。欲を貪りたい、殺人を愉しみたいという我がままのために、神々を殺すことはできません。
道理を破壊するために宇宙を否定し五角形や六角形へいくら唾を吐いても、地獄の虫に宇宙と敵対する力などありません。残念。

なお、私は計算しつくして人心を操作しようとしている(した)者ではないので誤解なきよう。ただ信念のまま語った、語るだけの者です。
ここで大事なことは、浅はかなプロパガンダで心にもない正義を掲げても、上で述べた「力」は決して得られないということです。

浅はかなプロパガンダとは……
たとえば、選挙戦で有利となるために黒人デモを起こした者。そのために自分が「ゴミ」と思っている犯罪歴ある黒人一人を、無残なやり方で殺した。何が、「闇を照らす光」だ。闇で世界を覆うことを目的として生きている地獄の虫が。
あのような汚い欺瞞が永久に通ることはありません。
東洋的な“天”、オーディエンスたる神々は見ている。いつでもどこでも目がある。心の底まで見通している。
(それが真の意味でのプロビデンスの目、ですかね)

人として可能な限り、正真正銘の本心から義に沿って生きることだけが最終勝利への唯一の道
とても狭い狭い道ですが、目隠しされても歩んで行けるように信念を抱き続けたいものです。

 

用語について:正義正論

『正義は勝つ』。
このタイトルだけで、現代の、正義・正論破壊したがったいる人たちは猛然と非難を浴びせて来るでしょう。
「正義なんか勝つわけがない」
「正義を振りかざした戦いこそ悪だ! 正義こそ暴力だ!」
などと言って。

たびたび持ち出して申し訳ないけど、この方の意見が現代の「正義・正論破壊」工作の典型です。

→正義正論を「悪」と呼ぶ人たち

メールをくださった方はおそらくお若いので、現代の漫画やアニメのキャラクターになりきって正義叩きをしているだけでしょうが、あのまま無自覚に大人になるとまずいですね。
今現在、世界中で正義・正論を破壊して、デモを偽装し殺人を行っている勢力(例:現欧米の黒人デモ。HKのことではない)に飲み込まれていくことになるでしょう。
今や「超限戦」のプロパガンダ道具となってしまった漫画やアニメの世界に閉じ篭もるのではなく、もっと多方面を学んでいただきたいと思います。

――そうは言っても、現代ではこのように正義・正論破壊の勢力が強い。
また、実際に正義を振りかざした暴力に繋がることもあって危険なため、今の私はなるべく「人道主義」「人道至上」と言うようにしています。

“人道”とは私が現代の一般用語として使っている言葉で、生物としての最低限の道徳観念のことです。欧米では「ヒューマニズム-humanism」に相当します。
つまり猿ですら同族に対して持ち合わせている情け、虐殺や拷問などの暴力を愉しむサイコパスの対極にある感性のことです。

たとえば
「民族ヘイトやめようよ。人間同士、仲良くしよう」
と言ったり、
「赤ちゃんまで殺すプレイを愉しむ快楽殺人者はクズだ」
と憤りを覚えるなどの当たり前の感性のこと。
(これを「当たり前じゃない! 正義を振りかざすお前は悪だ!」と罵倒するのが現代のアチラ側の人たち。前述)

古代なら「正道」「天道」などと表現したほうが正確になるでしょう、確かに。しかし天という概念のなくなった現代では通じないので、なるべく使わないようにしています。
実際、現代では日本でも「神」「天」という用語にアレルギーを持つ人が多く、この言葉を使っただけで反射的に権威主義者と決めつけられることがあるからです。

【参考】 神は死にません。「神」とは何か、このブログにおける用語定義

欧米にはもう少し複雑な事情があり、神(教会)が人間を虐げてきた歴史があるため、神との対立として「人道主義 humanism」が叫ばれました。
これこそ、天が人間・民に寄り添って守ってきた東洋との大きな違いです。

ということはつまり、

欧米の“humanism”+“justice” ≒ 東洋の“天道”

なのですが、このことがなかなか理解されづらい。

欧米人に「天道」と言えば、人間に敵対する権威主義者なのかと疑われてしまいます。
半端に欧米化した日本でも同じです。

ちなみに上の『神定義』記事でも書きましたが、私自身は天や神々の存在を“オーディエンス”として信じています。
道理にかなった行いにはオーディエンスたちからの応援が降り注ぐ。これは体験からも事実です。
だから人道・天道・正道を見失わなければ、物理次元の勝利よりもさらに上の果実が得られるわけです。
ただしこの記事の半ば辺りで書いた通り、最終勝利のためには人事を尽くさなければなりません。努力なき者が得られる果実はない、と繰り返し注意しておきます。