2015
Oct
11
-
地獄に堕ちる人間とは? 『天国と地獄』
ご紹介いただいて、アラン・カルデックの『天国と地獄』という本を読んでいます。
久々に心洗われ、癒されています。
具体的かつ高尚な内容。人間としての道徳観に近く、馴染みやすい。馴染めるから癒される。
私にはストライクな本です。
そうそう、死後について、こういう案内書が読みたかったのだ。
これぞドラッグ(ヘミシンク)的な幻覚と現実の違い、という気がしました。
松村先生の知人で「死後を恐れている」と言っていた人は、たぶんこういう内容の本を求めていたのではないかな。この本なら救われますよ。
自殺願望のある人にも、こちらの本を読むことを絶大にお薦めします。

天国と地獄―アラン・カルデックの「霊との対話」
※出版社が某宗教団体なので誤解しがちですが、内容的にあの団体とは無関係です。宗教団体を儲けさせるのが嫌な方はぜひ中古でお買い求めください。私も中古で買いました
内容紹介:
スピリチュアリズムの始祖とも言われている哲学者アラン・カルデック。
彼は高級霊だけではなく死の直後の人霊も呼び出して話を聞いており、客観的にデータを集めているので参考になります。
『天国と地獄』という本からは、様々な死後のパターンを知ることができます。
霊を含めて登場人物の全てがキリスト教圏の人たちなので、内容的にキリスト教に寄り過ぎなところがあり、そこは東洋人としては今いち理解できないところです。
たとえば、霊たちは何かと「神よ、主よ」と言い、参加者の全員が「悔い改めましょう」「祈りましょう」と繰り返す。
また、キリストを人類最高の魂として称えています。
まずこれらの思想に馴染みがなくピンと来ない。
だいたい「神」を人格化して「あの方は良い方です」などと言ってしまうのがキリスト教独自の感覚で、我々には理解できないのだよな。人格化できる時点で「神」の定義とは違うでしょうに、と思ってしまう。
だからこういうところは我々的に、単語の読み替えが必要なのかもしれません。
たとえば
「神」→ 魂が向かう最高峰という意味では「根元」、話しかけてくるのは「高次霊」(言語化される思考でメッセージを送って来たり、人格化して「あの方」と言えるのは“地球担当”の高次霊でしょう)
「悔い改め」→ キリスト教的な意味ではなくて、人間的な意味での悔恨。被害者への謝罪の気持ち
「キリスト最高!」→だけじゃなくて、たまには釈迦とかも入れてね。笑
等々。
アランの頃はまだ初期のスピリチュアリズムのため、キリスト教を含めて宗教を肯定するのは仕方なかったのかもしれません。人々にショックを与えないという意味で。
また参加している高級霊たちも、人間界からさほど離れない先輩霊たちだから宗教に馴染みがあるのかもしれない。
それを考えると、モーゼスの『霊訓』は聖職者に対して「宗教ドグマはいかん!」と言い切っているのだから、凄いことです。(それを発表した牧師も凄いが)
あの霊は人間界からかなり離れた高い位にいると思われます。
このように「宗教団体・ドグマ」を否定するかどうかで、霊の格の高さが調べられそうですね。
シルバーバーチも人間界の宗教や教義に肯定的ではないから、こちらの種類でしょうか。
しかしアランの霊実在主義は、輪廻転生を認めているのだから、当時としては相当に過激な思想だったと思われます。
また今でも十分に必要性の高い、道徳的な内容です。
心を癒して前向きに生きるために役に立つ、素晴らしい本と思います。
人生の意味に迷っている人。
間近に迫った死が怖いという人。
――そんな人たちはぜひこれを読むべきと思います。
「信じるか信じないかはあなた次第」ですが、これを信じて損することは一つもありません。
ただし出版社には問い合わせしないでくださいね。
この本に書かれた死後のパターンを大雑把にまとめますと
●進んで善を成した人は死後に苦しまずに肉体と分離し、高次元の世界へ行ける
●自殺した人は死んでも肉体から離れられず、長いこと混乱の中で苦しみ続ける
●悪事をはたらいた人は死後に肉体感覚を伴う拷問、精神上の拷問を受け続ける
●人生を無為に過ごした人も死後に混乱して苦しみ続ける
ということになるようです。
苦しんでいる者たちは全て、自ら罪を後悔して償うことを約束すれば、晴れて転生が許されて次の人生で負債を返すことになります(償いを行う)。ただし転生の機会は簡単に与えられるものではなく、長い拷問を耐え抜いた後のことです。
この本では、拷問などについて「神が処罰を与える」と表現している箇所もあります。ただし罰は神が与えるものではなくて、実際は魂が自分でその境遇に赴くだけです。
これは私の記憶とも一致しています。
少なくとも、他人を侮辱することに快楽を見出している人、人を殺して押しのけてでも欲望を貪る人が
「地獄」
と呼ばれる境遇へ堕ちることは間違いないようです。
一切他人の役に立たず、目先の欲だけに溺れて人生を無駄に過ごした人も、同じく地獄的な境遇へ堕ちるという話は興味深い。
生きている限り、何か積極的に役目を務めなければならないようです。
自殺も、この本を読むと恐ろしくて今すぐその考えを消し去りたくなります。
なお「自殺が罪」と考えるのはキリスト教特有の思想です。自殺した人やその家族を責めるべきではないと私は思います(言われなくてもキ教徒以外は責めたりしないでしょうが)。
ただスピリチュアル的に言えば自殺とは、せっかく転生した稀有な機会を放棄することになるので、やはり魂が背負うべき重大な負債となります。肉体も地上からお借りしていただけで自分の物ではないのだから、肉体を殺した罪は負うことになります。
自分のためにもその道を選ぶべきではないでしょう。自殺しても死ねないのだから。
死のうとしても永遠に死ねないことが自殺志願者には最高の恐怖ですね。
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久々に心洗われ、癒されています。
具体的かつ高尚な内容。人間としての道徳観に近く、馴染みやすい。馴染めるから癒される。
私にはストライクな本です。
そうそう、死後について、こういう案内書が読みたかったのだ。
これぞドラッグ(ヘミシンク)的な幻覚と現実の違い、という気がしました。
松村先生の知人で「死後を恐れている」と言っていた人は、たぶんこういう内容の本を求めていたのではないかな。この本なら救われますよ。
自殺願望のある人にも、こちらの本を読むことを絶大にお薦めします。

天国と地獄―アラン・カルデックの「霊との対話」
※出版社が某宗教団体なので誤解しがちですが、内容的にあの団体とは無関係です。宗教団体を儲けさせるのが嫌な方はぜひ中古でお買い求めください。私も中古で買いました
内容紹介:
スピリチュアリズムの始祖とも言われている哲学者アラン・カルデック。
彼は高級霊だけではなく死の直後の人霊も呼び出して話を聞いており、客観的にデータを集めているので参考になります。
『天国と地獄』という本からは、様々な死後のパターンを知ることができます。
霊を含めて登場人物の全てがキリスト教圏の人たちなので、内容的にキリスト教に寄り過ぎなところがあり、そこは東洋人としては今いち理解できないところです。
たとえば、霊たちは何かと「神よ、主よ」と言い、参加者の全員が「悔い改めましょう」「祈りましょう」と繰り返す。
また、キリストを人類最高の魂として称えています。
まずこれらの思想に馴染みがなくピンと来ない。
だいたい「神」を人格化して「あの方は良い方です」などと言ってしまうのがキリスト教独自の感覚で、我々には理解できないのだよな。人格化できる時点で「神」の定義とは違うでしょうに、と思ってしまう。
だからこういうところは我々的に、単語の読み替えが必要なのかもしれません。
たとえば
「神」→ 魂が向かう最高峰という意味では「根元」、話しかけてくるのは「高次霊」(言語化される思考でメッセージを送って来たり、人格化して「あの方」と言えるのは“地球担当”の高次霊でしょう)
「悔い改め」→ キリスト教的な意味ではなくて、人間的な意味での悔恨。被害者への謝罪の気持ち
「キリスト最高!」→だけじゃなくて、たまには釈迦とかも入れてね。笑
等々。
アランの頃はまだ初期のスピリチュアリズムのため、キリスト教を含めて宗教を肯定するのは仕方なかったのかもしれません。人々にショックを与えないという意味で。
また参加している高級霊たちも、人間界からさほど離れない先輩霊たちだから宗教に馴染みがあるのかもしれない。
それを考えると、モーゼスの『霊訓』は聖職者に対して「宗教ドグマはいかん!」と言い切っているのだから、凄いことです。(それを発表した牧師も凄いが)
あの霊は人間界からかなり離れた高い位にいると思われます。
このように「宗教団体・ドグマ」を否定するかどうかで、霊の格の高さが調べられそうですね。
シルバーバーチも人間界の宗教や教義に肯定的ではないから、こちらの種類でしょうか。
しかしアランの霊実在主義は、輪廻転生を認めているのだから、当時としては相当に過激な思想だったと思われます。
また今でも十分に必要性の高い、道徳的な内容です。
心を癒して前向きに生きるために役に立つ、素晴らしい本と思います。
人生の意味に迷っている人。
間近に迫った死が怖いという人。
――そんな人たちはぜひこれを読むべきと思います。
「信じるか信じないかはあなた次第」ですが、これを信じて損することは一つもありません。
ただし出版社には問い合わせしないでくださいね。
この本に書かれた死後のパターンを大雑把にまとめますと
●進んで善を成した人は死後に苦しまずに肉体と分離し、高次元の世界へ行ける
●自殺した人は死んでも肉体から離れられず、長いこと混乱の中で苦しみ続ける
●悪事をはたらいた人は死後に肉体感覚を伴う拷問、精神上の拷問を受け続ける
●人生を無為に過ごした人も死後に混乱して苦しみ続ける
ということになるようです。
苦しんでいる者たちは全て、自ら罪を後悔して償うことを約束すれば、晴れて転生が許されて次の人生で負債を返すことになります(償いを行う)。ただし転生の機会は簡単に与えられるものではなく、長い拷問を耐え抜いた後のことです。
この本では、拷問などについて「神が処罰を与える」と表現している箇所もあります。ただし罰は神が与えるものではなくて、実際は魂が自分でその境遇に赴くだけです。
これは私の記憶とも一致しています。
少なくとも、他人を侮辱することに快楽を見出している人、人を殺して押しのけてでも欲望を貪る人が
「地獄」
と呼ばれる境遇へ堕ちることは間違いないようです。
一切他人の役に立たず、目先の欲だけに溺れて人生を無駄に過ごした人も、同じく地獄的な境遇へ堕ちるという話は興味深い。
生きている限り、何か積極的に役目を務めなければならないようです。
自殺も、この本を読むと恐ろしくて今すぐその考えを消し去りたくなります。
なお「自殺が罪」と考えるのはキリスト教特有の思想です。自殺した人やその家族を責めるべきではないと私は思います(言われなくてもキ教徒以外は責めたりしないでしょうが)。
ただスピリチュアル的に言えば自殺とは、せっかく転生した稀有な機会を放棄することになるので、やはり魂が背負うべき重大な負債となります。肉体も地上からお借りしていただけで自分の物ではないのだから、肉体を殺した罪は負うことになります。
自分のためにもその道を選ぶべきではないでしょう。自殺しても死ねないのだから。
死のうとしても永遠に死ねないことが自殺志願者には最高の恐怖ですね。
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