~について(基本的な考え方)

    SNSアカウント処刑で幽霊の気持ちを理解した。「死ぬ」とは表現を封じられること

    Twitter政治アカウントをついに凍結されました。

    私が何か犯罪をしたのではなく(Twitter社はそのように見せかけていますが)、ある国の人道に反する行為を批判したツイートを運営側が「削除しろ」と強要してきて、応じないでいたらアカウント凍結されてしまったものです。

    つまり言論封じのための“処刑”ですね。経緯は下記事へ。

    ※政治的な話あり、苦手な人はクリックしないでください:

    Twitter、某国に不利となる言論の統制を強める

    まさにオーウェル『1984年』ディストピアです。…とフィクションのタイトルを持ち出すまでもなく、今現実にあの国で行われている言論統制が旧西側でも始まった、というだけのことですが。

    まあ私はTwitterをフォロワーさんとの連絡のためだけに細々と続けていた※もので、活動の場として重視していたわけではないのでダメージは低いのです。それでも少し精神的な痛手を感じています。

    ※だからこんな細々と運営している極小アカウントまで狙って弾圧して来たことが、なおさら驚きでした。私はよほどピンポイントに奴らの弱点を突くことを述べたらしい。(おそらく連動していたブログ記事、孫子を先頭固定にしたことで目をつけられたと思われる)

    SNSで殺されると、幽霊になった気分


    しかしこのたびアカウントが処刑されて気付いたことがあります。

    幽霊はこんなふうに生きている人たちを眺めているのか、ということ。

    たとえば私はアカウントが凍結されて以降、Twitter外にブックマークしていた気に入りのアカウントをブラウザで眺めているのですが、こちらからは何もアクションが取れない。

    意見を言うことも「いいね」を押すこともできない。もちろんDMも送信できない。相手のことはどこの誰だか全く知らないので、一切連絡を取る手段がないわけです。そのSNSという場だけで会って話していた人々。

    そして自分が存在した痕跡(呟きのログ)などもSNSから消され、忘れ去られていく……。

    いや、SNSで何を大げさな! またアカウント取って連絡すればいいだけだろ! と思われるでしょうが、アカウントを取るのがそんなに簡単ではないとしたらどうでしょうか。

    私は再び政治アカウントで電話番号を登録するつもりはないし、そもそも自分の電話番号は既に「反動分子」としてリストに載っていて再取得時に拒否される可能性も十分にあります。今後さらにディストピアが増して行けば、SNSのアカウントを取るのにマイナンバー登録が必要など本人確認のハードルが上がり、予め思想検閲もされるようになるはず。某国の権力へ批判的な人物は、ネット中どこでもアカウントが取れなくなるということになるでしょう。

    たとえ再びアカウントが取れたとしても、かつてのフォロワーさんたちに同一人物だと信じてもらえるとは限りません。ほとんどの人が、自分が自分であることを本気で証明することなど不可能なのです。

    ――で、こんなふうに考えていくと、これって地上で肉体を持って生きることに似ているなと思ったわけです。

    SNSを外部から眺めるのは幽霊の気持ち


    自分の存在がSNSから完全に消され、アクションは取れないのだが、こちらからはかつての知人の活動を観ることができる。寂しくもどかしい。

    ……おそらく死んで幽霊となった人は生きている人々をこんなふうに眺めているのではないかと思います。話しかけても誰も自分の存在に気付かず答えてくれない。生きている人との連絡手段が無い。

    アカウントの再取得は「生まれ変わり」


    再びアカウントを取ったとしても、外部にブックマークやメモが無くアカウント名の記憶も思い出せなければ、かつてのフォロワーを探し当てるのは不可能に近い。たとえ見つけたとしても、相手に自分が過去と同一人物のアカウントだということを信じてもらえない可能性があります。

    ……これは、生まれ変わりと似ていますね。肉体(SNSで言えばアカウント)が違う場合、地上の人々に自分が過去と継続した人物であることを証明するのはほぼ不可能なのです。このことは私も身に沁みて理解しています。

    死んだ人は、いなくなったわけではない


    自分の過去生では死後に“幽霊”として生きている人々を眺めていた記憶はありません。

    地上にあまり執着がないほうだったのか、死んだらさっさと去って次の人生へ向かったようです。

    一つ前の前世について言えば、死後に直接ここへ飛ばされたという記憶がありますので、地上の人々を眺めることはありませんでした。だから地上で自分がどのように扱われてきたか本気で知りませんし、感覚としても自分の前世イメージは「生きていた当時」で止まっています(つまり小国の大臣だったという地味なイメージ)。
    あのときから今日までの長い間、地上から私へ呼びかけてくださった人々は大勢いたのかもしれません。でも、このようなわけなのでメッセージを聴くことはできませんでした。申し訳ない。地上に生きている今、ようやく受け取っています。

    このように私は、死んでしまったら地上と関わりを持たないタイプです。

    それでも本当に“消えた”わけではないし、“いなくなった”わけではありませんでした。

    誰にも信じてもらえなくてもここでこうして語ることもできています。人生ログをある程度まで復活できたという特殊ケースなのではありますが。

    私でさえ地上に戻って来れば再び語りたいという衝動にかられる。できることなら誹謗中傷を訴える権利も欲しいと思ってしまう。

    それを思えば、他の地上に留まるタイプの霊たちはもっと強く「語りたい」「存在したい」という衝動を持っているでしょう。でも言葉を発する権利を奪われ、存在を示すことさえもできずに寂しく悔しい想いで生きている人々を眺めていることと想像します。

    殺して口封じしても、歴史捏造しても罪は消えない


    遅ればせながら、そんな死者たちの気持ちが私もSNSで殺されて初めて理解できました。長いことオカルト・スピジャンルで書いてきたのに、SNSで(笑)初めて気付くとは情けないことですが。

    人は自分が経験しない気持ちについては理解できないもの。アカウントを殺され無理やり口を封じられるという経験をして、初めて地上にこだわる気持ち、「命を奪われて悔しい」という気持ちが実感できたわけです。

    もちろん、現実に肉体を殺されて人生を奪われる無念さとは比べ物にならないでしょうが。今回その気持ちの数%でも理解できたことは良かったなと思います。

    悪い目的を持つ人たちは、「殺して相手の口を封じてしまえばいい」と考えます。だから安易に処刑、安易に粛清します。でも殺された人たちはいなくなったわけではないし、無念も消えるわけではないということを覚えていて欲しいです。必ず死後世界など別次元から殺害者の行いを眺めています。そして別次元で「あいつがこういうことをした」と宣伝していると思います(SNS外のネットで私が今こうしてTwitter社の行いを宣伝しているように)。おそらく、そのような死者たちの叫びが地上にも影響して「後世の評価」ができていくのでしょう。

    いくら殺して口封じしても、悪いことは隠せません。地上で必死に歴史捏造して過去を書き換えたつもりでも、過去の現実は変わりません。人の道にそむく行いには必ず相応の報いがあります。

    相応の報いとは:因果応報ということで自分自身にて負のカルマを返していくのですが、それだけではなく後世の評価にも必ず真実が影響するということです。政治的な謀略による歴史捏造は、一時期だけ地上を覆うでしょうが真実は隠し通せないものです

    生きているということは、表現する権利を持つということ


    死んでも「いなくなる」わけではない。死後世界という別次元で騒ぐことはできる。

    ただ地上での発言権(表現する手段)を完全に奪われるのは、事実ですね。

    それを思えばなおさら、生きて語ることができるという命を持つことが、どれほど有難いか分かります。

    生きているということは地上で「表現する権利」を持つということでしょう。仮に声を発することができなくても、言葉を綴る知能を持たなくても、生きてここに存在するだけで他者へ影響を与えています。言葉や芸術で表現する人なら、なおさらその影響力は大です。

    だから今、生きている機会を大切にしましょう。

    自分の表現力を甘く見ないで。

    できる限り叫ぶことです。ただし無駄死にしないように気を付けながら。

    無策の丸腰で突進して行って簡単に玉砕してしまい、口を失うことは他の人々にとっても痛手。

    とにかく生きて表現の機会を持ち続けてください。

    “生きて語る自分の口”がとてつもなく貴重な力だということを自覚すること。自殺を考えるくらいならその暇を表現に当てましょう。その表現が、いずれ必ず他の誰かを救うことになります。

    (これは自戒のためにも書いています。私も時々自虐が極まって全て消去したくなるので。生きるのが難しいのは、程度の差こそあれ皆同じ)
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