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教師になれない自分の痛々しさ (『ここは今から倫理です。』感想)

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最近放送されていた『ここは今から倫理です。』というドラマを観て色々と考えました。

音楽や風景… 全てが、何故か懐かしい


このドラマ、ちょっと好きでした。
時間が無かったのであまり真剣に観ていたわけではないのですが、家族が観ている画面を横目で眺めていると、何か心地良さを感じていました。

BGMはとても美しく胸締め付けられるものがあります。
投げやりになって自暴自棄になりかけても、どこかに希望を感じている。そんな思春期のピリピリした心を表しているかのようで、このドラマの世界観によく合っていましたね。

※梅林太郎氏の曲だそうです。耳コピ再現

学校の風景やエピソードも正確に“高校時代”を抽出していて、高校の頃の思い出が立ち上ってきます。
具体的に同じエピソードがあるわけではないのですが、むしろ同じではないほうがいいのですね。
“高校時代”という印象風景を描いてくれたほうが、懐かしさが湧いてくる。

自分の高校時代と言えば、エピソード的に最も正しいものは『僕が見つけた前世』です。
あれはあまりにも特殊過ぎて、全ての人が懐かしくなる“高校時代”の空気が描けているとは言い難いはず。
何故か私も今回観たドラマ『倫理』のほうが、自分とは違うエピソードばかりだけど懐かしいのです。これが上等な創作というもの。(ジャンルが違う、とも言うが)

そう言えば『孔子』ドラマの感想でも“古代の薫りを炊き込めた印象画のような”と喩えました。
私は画面――小説だったら文面から立ち上がる薫り、空気感のようなものに真実性を感じるほうなのだと思います。
しかしそんな空気感を正しく表すのはなかなか高度なことで、真実に対する究極の誠実が求められる気がします。
今回観た『孔子』にはその高度な誠実性がありましたし、偶然にも同時期に見かけたこのドラマ『倫理』にもそれがありました。
幸せなことなのですが、真にリアルな表現に触れると懐かしさに胸が痛くなるので参りますね。

高柳を眺めていると痛いと感じる


ドラマ『倫理』は懐かしさを覚えるリアルな高校時代の空気感が最大の魅力でしたが、エピソード自体にも色々考えさせられるものがありました。

「たかやな」こと、倫理の教師・高柳は眺めていてなんとなく痛い気がします。
それは自分にも遠からずなところを感じているせいかもしれません。
図々しい!と言わないでください。イケメンに自分を重ねたいわけではなくて、彼の欠点に共感するという意味です。

高柳は率直で真摯、心から生徒に寄り添いたいと思っている優しい教師ですが、人間関係に対しては神経質なところがあり生徒との間に線を引いています。それは絶対に踏み込まない、踏み込ませないという境界です。
おそらく彼は“生徒”だけではなく全ての他人との間に境界を引いていて、だから他人から見て最終的には誠実になりきれない。最悪、ぎりぎりのところで相手を突き放して棄ててしまう結果になってしまう場合があると思います。
境界を越えて全てを与え・与えられの関係になるとお互いの人生が破壊されてしまう、そのような事態に対処する自信がないからなのだと思いますが。(でも恋愛なら距離を置くのが正しい。ドラマでは過去の痛い経験が示唆されています)
そのように及び腰だから、リストカットをしている生徒を救えないし、スキンシップが必要な生徒を抱きしめてあげることすらできないのです。
そして結果、救えなかったことに苦しんでしまう。場合によっては相手が自殺して激しい後悔に打ちのめされるでしょう。

ああ……あのようなところ、自分にもあると感じて痛々しく眺めていました。
理屈が先に立つせいなのか。好きでもない相手の要求に従って自分を与える、それは嘘になってしまうから悪だなどと考えたりして、目の前の要求にオロオロしているうちに機会を失ってしまう。
そして気付けば相手が深く傷付いているか、憎しみを買っている。
相手を傷付けまいとして口にした言い訳が自己保身の「欺瞞」へ変わり、もっと深く傷付けたりして後悔する。
そしてあろうことか、「自分など要らない存在なんだ」などと中学生のようなことを口走ってしまう。痛い!

このようなタイプが学校の先生になると苦しむでしょう。
高柳も大人になりきれていないところがあり、逆に生徒から教え諭されたり気を遣われたりしている。生徒のほうが大人。
教師としては滅多にいない同等の存在なので、「最高の教師」になり得るが同時に「最低の教師」でもある……。

同じようになりがちという自分の欠点を知っているので私は「教師」の立場になれません。
若い時に哲学に目覚めていたら(そして金銭的な事情が許せば)哲学科へ通っていて、教員免許を取っていた可能性もなきにしもあらずですが、そうならないで良かった。

今も流行のセミナーやサロンなど開いて上から説教する気になれないのは、全面的に自分へ同意する“信者”を得ることを恐れるからです。
同意ロボットの信者を受け入れることができない。もちろん自分の説を押し付けたり、騙して従わせることも無理。
対等な人間同士なのですから同意できるところにだけ頷いてくれたらいい、嫌なら離れてくださいと言っている。
(だから同意できないとクレームを言われるのは意味不明だし、「押し付けるな」と言われるのも不当。私が他人へ自説を鵜呑みにするよう強要したことは一度もない)

実は、SNSのフォローですら相手を同意で縛る気がして苦手。
と言うことは、やはり趣味ブロガーなどで勝手に主張するのが性に合っていたのでしょう。
今の読者様とは対等だからこそ、本心で同意できるメッセージだけ届くのではと思っています。
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