2021
Jul
14
-
今、過重労働を強いられている人へ。自分のための時間を生きましょう
あれから薬を飲み、少し体調が戻ってきました。
とは言えまだ長文を書くのは難しいし、政治話のほうはストレスが強過ぎるからしばらく無理と思います。
それで休止宣言を兼ねて別館へ記事移動しました。お役立ち記事になるよう少々加筆しています。
(こちらは当ブログ内記事です。要パスだった記事を公開したもの。別館へのリンクは冒頭にあり)
【要パス公開】諸葛亮の死因を医学的に考えた記事
あの低質な歴史改ざんコラムを書いた医師へ怒っているわけではないので、念のため。
ただ誤っていることは誤っていると言っておかねば。
それに何より、過重労働を訴える側の立場から見れば、厚労省の労災認定基準を妄信して足切りに加担するあのような医師の存在は良くないなと思います。
私はいつも孔明の人生を「幸福だった」と表現していますが、それは自分自身が選んだであろう宿命を全うしたからです。他の方々へ過重労働を強いるつもりは毛頭ありません。
自分で選んだのではなく、ブラック企業が強いた奴隷労働のために死ぬのは絶対に間違っているし「不幸なこと」と思いますよ。
誰も誰かに利用されて死ぬべきではないでしょう。
魂は何度も転生する。人間が信じようが信じまいが、これは真実。
とは言え、ここに在る命はたった一つ、二度と味わうことのできないかけがえのない人生です。
明日があるからといって今日をないがしろにする理由にはならない。
過ぎ去る一瞬一瞬の全てが、二度と戻れない奇跡。
だからこのかけがえのない時間は、ほんとうに大切なこと・大切な人のために使ってください。
そう言う私も、残された少ない時間を自分の大切な人・ことのために使わなければならないと思っています。
今回の体調不良は……告白すれば死が少しちらつきました。
それこそ、今世ではゆっくりと訪れるであろう死の、まだほんの入り口に過ぎないのですが。
今はこうして少しずつ症状が進んでいくこともブレーキになっていると感じます。
孔明と違って私は、「ブレーキのかけられない人生」を送っているわけではない。
自分のためだけに時間を味わうことができる、コントロールの効く人生です。そのことも有難し、と思えます。
有名にはなれず、何事も成せず残せず、私の言葉に耳を傾けてくださる人はごくごく僅かでした。
でも人は二つのことを追うわけにはいかないようです。
ここでほとんど存在を消して生きたのは、日常を味わうためだったのだと今は分かります。
とは言えまだ長文を書くのは難しいし、政治話のほうはストレスが強過ぎるからしばらく無理と思います。
それで休止宣言を兼ねて別館へ記事移動しました。お役立ち記事になるよう少々加筆しています。
(こちらは当ブログ内記事です。要パスだった記事を公開したもの。別館へのリンクは冒頭にあり)
【要パス公開】諸葛亮の死因を医学的に考えた記事
あの低質な歴史改ざんコラムを書いた医師へ怒っているわけではないので、念のため。
ただ誤っていることは誤っていると言っておかねば。
それに何より、過重労働を訴える側の立場から見れば、厚労省の労災認定基準を妄信して足切りに加担するあのような医師の存在は良くないなと思います。
私はいつも孔明の人生を「幸福だった」と表現していますが、それは自分自身が選んだであろう宿命を全うしたからです。他の方々へ過重労働を強いるつもりは毛頭ありません。
自分で選んだのではなく、ブラック企業が強いた奴隷労働のために死ぬのは絶対に間違っているし「不幸なこと」と思いますよ。
誰も誰かに利用されて死ぬべきではないでしょう。
魂は何度も転生する。人間が信じようが信じまいが、これは真実。
とは言え、ここに在る命はたった一つ、二度と味わうことのできないかけがえのない人生です。
明日があるからといって今日をないがしろにする理由にはならない。
過ぎ去る一瞬一瞬の全てが、二度と戻れない奇跡。
だからこのかけがえのない時間は、ほんとうに大切なこと・大切な人のために使ってください。
そう言う私も、残された少ない時間を自分の大切な人・ことのために使わなければならないと思っています。
今回の体調不良は……告白すれば死が少しちらつきました。
それこそ、今世ではゆっくりと訪れるであろう死の、まだほんの入り口に過ぎないのですが。
今はこうして少しずつ症状が進んでいくこともブレーキになっていると感じます。
孔明と違って私は、「ブレーキのかけられない人生」を送っているわけではない。
自分のためだけに時間を味わうことができる、コントロールの効く人生です。そのことも有難し、と思えます。
有名にはなれず、何事も成せず残せず、私の言葉に耳を傾けてくださる人はごくごく僅かでした。
でも人は二つのことを追うわけにはいかないようです。
ここでほとんど存在を消して生きたのは、日常を味わうためだったのだと今は分かります。
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