2021
Sep
23
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憎悪で覇者となるよりも、愛に滅びる道を選ぶ 『BANANA FISH』ラスト感想
最終回シーンより
あれから『BANANA FISH』、最終回まで視聴しました。(前回の記事)
並行して観ていた『MONSTER』の設定があまりにも重みがあり面白過ぎて、『BANANA』の世界観へ戻れずに途中ちょっと挫折しかけたのですが、最後まで観て良かったと思います。
※以下ネタバレかもしれませんので今後観る予定の方は注意してください※
フィクションゆえに表現された友情の真理
最終回に心が震えました。
それこそ80年代に奇跡的に存在した、極上のアメリカ映画の薫りがする。
爽やかだが冷たく肌を刺す都会の秋風を感じて切なくなります。
「二度と会えないとしても、あいつは俺の友達」と英二を呼んだアッシュに、私は思わず自分の記憶を重ねました。
これはフィクションですがこのような友情は現実にも存在します。
長い人生のうち、いや永遠に繰り返す生の間で一瞬でもそう思える相手と巡り会えたなら幸福ですね。
切ないラストですが、『BANANA FISH』は幸福な二人の友情物語だったと思います。
アッシュが英二について語った台詞には打たれました。
あいつが傍にいてくれると、あいつの優しさや誠実さ、温かさがどんどん体に流れ込んできて、俺を満たしてくれるのがわかった…図々しいが、自分にもこのような言葉を投げてくれた人がいた(前世・今世で)と思い出し、目頭が熱くなってしまいました。
この作品にて、英二が「護られるだけのキャラ」として作品中に存在している理由を理解します。
もし彼が何らかの能力に長けていたらこの作品のメッセージが弱まったでしょう。前回、「英二に特徴が無いのがリアリティに欠ける」などと書いて申し訳なかったです。
これが実話をもとにした話との違いですね。
友情、特に男性同士の友情はチームのなかで育まれることが多いので、お互いに相手の欠けを補う形で成立しやすいのが現実です。
これは精神についても同じ。お互いに支え合い補い合っている。どちらか一方だけが救われ癒される友情関係というものは、現実には存在しないと思います。(もちろんアッシュが「一方的に救われている」と思っているのも誤解なのですが)
そんな補い合う関係であっても、現実には利益だけで結ばれているわけではないのです。自分に無い能力を持っている相手へのリスペクトも含めて友情という感情になります。
でも創作において、登場人物に能力や地位などがあると“友情”のメッセージが届かなくなる危険が確かにあります。
「能力や地位で結ばれているだけ。信頼関係などではない」とうがった見方をする人々が必ず出て来る。
人と人の信頼関係などこの世に存在しない、と頑なに信じている人々にとって、能力などの利用価値は愛の不存在を証明する拠り所となってしまう。つまり、歪んだ誹謗中傷の根拠となる穴になってしまう。
だからせめてフィクションの中だけでは、純粋に「利用関係ではない」友情を描くため、一方に能力を偏らせる設定にするのが良いのかもしれません。
メッセージのために現実らしさを削ぐ。これこそフィクションだけに可能な“芸術”です。
憎んで覇者となるよりも、愛して滅びる道
他、最終回から一つ前24話のこの台詞に痺れました。
あいつ(アッシュ)は憎んで覇者となるよりも、愛して滅びる道を選んだんです
類まれなる才能を持ち、裏社会からの庇護を得ることも可能だったアッシュには世界を牛耳ることもできたはず。
その才能もバックグラウンドも棄てて友情に走ったアッシュについて、師匠のブランカが語った台詞です。
憎悪を利用して覇者となろうとしているNY華僑の主・李月龍などと比較して述べたもの。
私にはブランカの台詞、アッシュの気持ちがよく分かります。
憎悪の使い手となって覇者になるくらいなら、愛する人々のために滅びの道を選ぶ。
今後もきっとそうなるでしょうし、そうでありたいと思います。
ただ、もう少し人を悲しませない生き方、人を救える生き方がしたいなとは反省しています。
来世というものがもしあるなら、もう少し勝ちにこだわって頑張りたいです。
辛口な感想
このように幾つか宝物になりそうな台詞、シーンが輝いていた最終回。その輝きを見るためだけにも視聴する価値がある作品です。
ですが総合的には手放しでお奨めするのが難しいというのが正直なところ。
最終回の芸術性がとても高いだけに途中のチープさが惜しいと思います。
(以下は辛口な評価になりますので批評が苦手な人は読まないように)
具体的に難点を述べますと――
敵方であるゴルツィネの凄みが今ひとつで犯罪描写も弱いし、華僑の悲哀や闇もほとんど描かれていないし、少年たちが拘束されてからの救出までの展開があまりにも簡単過ぎます。
そして何よりも、人殺しのシーンが安易過ぎるのが残念です。
肝心だったはずの「バナナフィッシュ」もそこまで深い意味がなく…。
等々、ハードボイルドに大切な「必然」が足りない気がします。
女性視聴者の多いアニメでエンターテイメントだから描写を控えるのは仕方ないのですが、設定に手を抜いている印象が否めない。レビューによればアニメで作品の質が低下したそうだから、原作はもっと重みがある話なのかもしれません。
とは言え、この作品の本質から見てマフィアやギャングの描写などどうでも良いはず。
描きたかったのはアッシュと英二の友情だったのでしょう。
周辺の設定は何でも良かったのだろうと思います。
プロでもないのに図々しい言い草ながら、かつて私も小説を書いていた頃、中心の設定を際立たせるために周辺描写をぼかすことを意識して行っていました。
(たとえば『我傍』など。あれは特殊な小説で、「あまり細かく書けない」という不可抗力な事情がありましたが)
中心となるメッセージを伝えるためにあえて詳細を描かない、という手法は有りなのではないか、と思います。
だから、『BANANA FISH』は2時間半の映画として大胆に設定を省いてぼかせば伝説的作品になる気がします。たとえば、冒頭/出会い~逃避行・中盤/アッシュと英二が同居する辺り・最終回 …だけで良いという気がします。
もったいない作品だからぜひアニメ映画にして欲しいですね。
その際はぜひ1980年代設定で。
やはり全体として2010年代末の設定では無理があり過ぎます。
たとえばブランカが元ソ連の秘密警察だとすれば、いったい今幾つなんだか。60歳過ぎ? そうには見えないが。…等という細かいことも気になりますが、それより時代の空気感を表現しきれていないという芸術としては致命的な不都合があると思います。