~について(基本的な考え方)

    感情は魂に属し、霊界にも来世にも持ち越される。「感情」と「肉体本能」は異なるもの

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    前記事を見直していて、「感情」「肉体的本能」などの定義が分かりづらく混乱しやすいかなと思いました。

    ここに改めて当ブログの用語定義として解説しておきます。過去記事と重複する話が多いのですが、新たに来訪された方のために書くものです。ご容赦ください。

    感情は肉体に属するか、精神に属するか


    まず「感情」は地上・肉体だけに属して死後は消えてしまうものなのか? それとも死後も感情は続くのか? という話。

    この点、スピリチュアル本によって見解が異なります。

    そもそも「感情」とは、地上の一般用語で定義しますと
    “他者との交流のなかで生まれる愛(絆)・憎悪・喜怒哀楽”
    などの反応のことになると思います。
    このなかで愛(絆)と憎悪は永く続きます。喜怒哀楽と違って、その場限りの反応ではなく心に定着するものだからですね。

    そのような「感情」は地上の肉体だけのものだと説くスピリチュアル本が多いようです。
    感情=エゴ=肉体本能、とネガティブに考える人が多いから、死後世界へ行くと感情が消えるとの推理が一般的になるのでしょうか? 
    あるいは“悟り”を得た仏陀などには感情のない超然としたイメージがありますから、死ねば即悟りを得られる(輪廻などない)と信じている人たちは、「死=永遠の安息」で感情のない世界を想像するのかもしれません。

    そのいっぽうで、死後世界の体験者たち…前回死んで生まれ変わるまでの間の記憶を持つ人々は「霊界にも感情がある」と口を揃えて語ります

    たとえばニュートン氏のレポートでは霊界で地上のごとく仲良しな魂同士で親しく交流している様子が述べられています。(血よりも濃い、グループソウルとの絆

    また、死後世界を旅した人々の話によれば“地獄”のような次元もあるそうで、そこはネガティブな感情に囚われた魂たちが自ら留まっている世界だといいます。(一例:Aファーニス『死後世界地図』)

    実は死後世界体験者の話だと、後者のほうが多勢。

    自分の体験から言えること


    私自身の考えも、後者(感情は死後も引き継がれる)のほうです。

    これは単なる想像やスピ本をつなぎ合わせた発想ではなく自分の体験から思うこと。

    私の記憶では前回の死の直後、肉体的な痛みや苦しみは消え去ったのですが、逆に感情は強まり圧倒されました。
    むしろそこは感情しか無い世界だった、と言っても良いでしょう。

    肉体を脱ぎ去った後だからこそ純粋な精神が解き放たれ、地上に比べて何倍にも増幅された感情を味わうことになるようです。
    そこで地上の真実を悟ることができます。肉体の垣根に阻まれて知ることのできなかった相手の感情をダイレクトに感じ取ることができるからです。ごまかしのない相手の心が伝わるため、一切の嘘が入りようがありません。
    だからこそ私は生きていた頃にはあまり気付いていなかった(自惚れまいとして信じ過ぎることを抑えていた)、魂の伴侶※のとてつもない信愛を知って衝撃に打たれたわけです。

    ※詳細は小説『我傍』または『死の後、数日間の話』

    もちろんこのとき、自分自身の生前の感情もごまかしなく思い出されます。
    嬉しかったことや楽しかったこと幸せだった日々の気持ちはもちろん、悲しかったことや辛かったことなどのネガティブな気持ちも増幅されて感じ取ることになります。
    (出来事の具体的な事柄など、細かいことは省略されて場面と感情だけを感じ取るのです。神経が剥き出しになった状態で味わう感覚を想像すれば近いかも。だから、ネガティブな感情が多い人の場合はきついだろうと思います)

    このように肉体を失ったからこそ感情が純粋に増幅されたということは、感情は完全に精神すなわち魂に属するものだと考えることができます。

    現実にも、何らかショックを受けて魂を失ったかのようになる離人症や記憶喪失の場合、感情に紐づけられているエピソード記憶が失われてしまいます。

    【実例の話】魂が記憶しているもの、肉体が記憶しているもの

    いっぽうで肉体のほうは生存のための記憶を持ち続けています。こちらの本能に関わる記憶は、どうやらDNAで受け継がれるようです。(生物学の実験結果からも肉体DNAが生存手段を記憶することが判明しました)

    これらのことから、
     感情=精神・魂に属して死後も来世も持ち越す
     本能=肉体に属する記憶でDNAにて受け継がれる

    と考えることが可能です。

    魂と肉体は生きているときは一つに繋がっていますが、実は別々のものであり、魂は肉体という乗り物をお借りしているだけ。
    このため魂(精神)と肉体とで記憶する担当が異なるのだと思われます。

    「死んだら即感情を失う」とか「感情を持っている限りはエゴが強くて成仏できない」などと言うのは、“悟り”に対するイメージからの想像。
    感情を超越した仙人(または仏陀)に憧れる人々の希望的観測、とも言えます。

    あるいは、地上での体験から遠く離れた高次霊たちは本当に“感情”からも遠ざかっていて忘れてしまっているのかもしれません。
    ただし感情は精神(心、魂)の軌跡そのものですから決して消えることはないでしょう。
    感情を深め味わうためにこそ魂は地上へ降りて活動するわけです。そのような貴重な体験が消えるはずがないと思います。

    肉体の欲望に翻弄されるのは、魂の願いから離れること


    前回の記事で私が書いた
    「ドロドロした本能に取り込まれて堕ちていく」
    「魂が老いていけば肉体へのこだわりが薄れて本能が減っていきます」
    とは、上の肉体反応や肉体記憶のことを指しています。

    肉体はどこまでも生存して子孫を残すことだけを希求するもの。ですから、欲望の塊でもあります。
    他者を蹴落として競争に打ち勝たないと肉体は生存し、子孫を残すことができません。そのため純然たる私利私欲だけで行動するようにインプットされています。

    このような肉体の欲望を制御できずに翻弄されてしまうことを、若く未熟な魂は「心に従う素晴らしいこと」と混同しがち。
    文学などの芸術作品にも、本能に翻弄され堕ちていくことを「精神性の高さ」だと勘違いし誇るものが多くあります。
    しかし本能と精神性は全く逆方向のものなのです。

    確かに恋愛など本能と区別しがたい感情もあるでしょうが…

    他者を蹴落としたり殺したりしてまでも自分一人が勝ち残りたいという欲望が、本能。すなわち肉体に属するもの。
    結果に関わらず感じ・抱き続け燃え続けるのが、感情。すなわち精神に属するもの。

    ――などと私は区別しています。
    あくまでも過去世記憶を幾つか持つ私の考えです。

    【当記事の話をまとめたイメージ図】
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    我欲は地獄への道、自分を突き動かす心(魂の意思)に従え


    肉体は魂の乗り物に過ぎないとすれば、その肉体に属する「本能」に溺れてしまうといつまでも肉体に囚われ、地上の学習つまり輪廻転生から卒業できなくなってしまうでしょう。

    さらに地上で肉体の欲望に溺れ続け、虐殺などの快楽に手を染めればネガティブなカルマも抱え込み、“地獄”という精神次元に堕ちていくことにもなります。
    だから私は私利私欲に囚われて貪るべきではない、と述べています。

    逆に「心に従うべき」と言うのは、精神・魂の願いに耳を傾けるべきということ。道しるべとなるのは純粋な精神に属する“想い(感情)”です。

    感情を悪者扱いしないでください。感情を抹殺しようとしているカルト思想が地上へ出現させた地獄こそ、かの国々の悲惨な現実
    地獄に堕ちたくなければ、心を信じましょう。魂発信の想いに生きましょう。

    当ブログのスピリチュアル用語について、基本


    最後に立場を明確にしておきますと、私は主に自分の体験を語っている者です。

    誰か教祖に師事してその言葉を代弁しているのではないし、もちろん何かの団体に属して教義を布教する者でもありません。

    また、何かのスピリチュアル本、たとえばシルバー・バーチやニュートン氏の本を信じて紹介するためのブログを運営しているわけでもありません。

    ただ自分の体験に関わる手がかりとして読んだスピリチュアル本をご紹介することはあります。
    このため、私がその本の著者の完全なる信者だと勘違いされることも時々あるようです。

    たとえばこちらが典型でした…
    筆者のことを完全なる「ニュートン氏」の信者だと思われ、筆者の意見がニュートン氏と完全に同一であると思われてしまった。
    (引き合いに出してすみません。好例だったので)

    【運命論まとめ】 「幸せ」って何ですか? 因果応報、カルマの受け取りも自分で選んだ道

    一応、私は自分の意見と違うところは「違う」と書いていたつもりなのですが…分かりづらかったか。
    それにしても本を紹介した場合、自分が述べていないことまで、「ニュートンがこう言っているからお前も同じに違いない」と決めつけられるのは少々恐ろしさを感じます。そのように思われてしまうなら何の本からも引用できなくなってしまう。

    私が何かの本を紹介したからと言って、一から十まで信じ切って賛同していると思わないようにしてください。
    好印象を抱いた本であっても、賛同するところもあれば違う意見の部分もある。本来これが当たり前です。

    一から十まで聖書を信じるのは「宗教」信者の態度でしょう。〇〇主義者とも言いますね。

    私は死ぬまで他者の考えに染まりきった〇〇主義者にはならない(他者の話を参考にするけれども無考えの信者には絶対ならない)という自信があります。
    いや、死んだ後も永遠にかな。
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