三国志、歴史|隆中譚

    判官びいきは日本人の美徳です。(同情される側は複雑ですが…)

    いつもワンパターンで申し訳ないのですが、別館にて歴史の危機を叫んでいます。

    今回は、前にも少し触れた「大河ドラマで義経がサイコパスに改変されている」ことの詳細。

    ⇒義経はサイコパス!? 「鎌倉殿の13人」レビュー
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    ワンオペにつき、拡散にご協力願います


    ワンパターンになってしまうのは、“奴ら”の行いがワンパターンだからですね。
    しかも向こうは大人数の工作員を使って繰り返しプロパガンダをしていますが、日本人でこの危機を叫んでいるのはたぶん私一人。
    (中華圏ではもちろん文化破壊の危機を叫んでいる人は多いものの、彼らは日本語が使えないので日本人には届いていない)

    ですから、日本人による唯一の反論としてネットに投げておかねばなりません。
    本当はもっと大きな世界の話をすべきと思いますが、ワンオペにつき歴史の話で手一杯となってしまい他のことが書けずにいます。
    退屈でしょうがご容赦ください。

    かつて“源義経の生まれ変わり”を名乗っていた方は今、何をしてらっしゃるのでしょうか…? 検索しても引っかかるのは当ブログの記事くらいですね。
    義経の生まれ変わりを名乗る方は何人かいて、確かそのなかで宗教党(保守系)から立候補していた方がいたと思うのだけど、今こそ文化破壊に抵抗すべき時ですよ。政治を志したのなら率先して日本文化保護に努めていただきたいのですけど、どうされているのかな。

    一人で叫び続けなければならないのはキツい。もはや苦行です。

    どうかお手伝いください。YouTube・SNS・掲示板等々で拡散していただけると助かります。
    リンクはどの記事でも構いませんが、三国志カテゴリの記事だとなお助かります。

    実は最近、三国志カテの記事のアクセスが増えて大変助かっています。
    たぶん孔明(または私)を嘲笑する目的、あるいは批判目的でリンクされていることもあると思うのですが、それでも構いません。
    どんな形であってもできるだけ多くの人の目に触れて欲しい。そして「伝統文化の危機」という重要メッセージが日本人へ届くことを願います。


    「判官(ほうがん)びいき」に思うこと


    以下はここだけの私的な雑談です。

    伝統文化を救え、と言いますが、私はむしろ今まで率先して『三国志』等の伝統フィクションに反対してきたほうですね。…非常に申し訳なく思っています。
    しかし今ではフィクションも受け入れています。
    むしろ史実を徹底的に読み込みデフォルメ化した演義について、「スゲー」と作者陣を尊敬するようになりました。

    日本人の源義経から発した「判官びいき」が孔明にも及んだことについては、当初は微塵も理解できませんでした。
    “悲劇の軍師”との評もよく理解できず。
    いったい何を悲劇と呼び、同情されているのか、若い頃の私にはよく分からなかったのです。
    本人視点から言えば、本当にひたすら思うまま生きただけのことで何も“悲劇”は無かった気がします。むしろ幸福過ぎる人生だったと思うのですが、そう思えるのは私だけが特殊な情報を持つからかもしれません。

    ただ今は判官びいきも日本独特の文化として認めています。
    「敗者への同情」をせずにいられない日本人の情の深さ・優しさには感動を覚えますし、それはどう考えても美徳に違いありません。

    行き過ぎの同情心から、たとえばサッカー日本代表のまずい試合を批判しないとか、虐待者を擁護してしまう人が現れるのはどうかと思いますよ。イジメ擁護の太田光氏とかね。
    そのように「義」を理解しないまま、ただ不利なほうを擁護するだけの歪んだ「判官びいき」は間違っています。
    だから虐殺王の崇拝に乗っかり、騙されて虐殺賛美しちゃうのでしょう。

    たぶんこの歪みは現代教育のせいですね。きっぱり獣化教育のせい。
    「義」がないため、やっていいことと悪いことの区別がつかず犯罪者を賛美してしまうようになったのです。

    昔の日本人は先に「義」というものが分かったうえで、義があるほうを優先して称えたのだと思います。
    たとえば源義経と頼朝を並べて見たときに、ただ「邪魔だから弟を粛清する」というだけの兄のほうには何の義もないでしょう。功労者なのに殺された義経は、どう考えても気の毒過ぎます。人間としての情があるなら義経に同情するのが当たり前と言えます。

    義の前提ありき。そんな昔の「判官びいき」を私は美徳と呼んでいます。

    いつも思うのですが、歴史や物語の本当の主人公は「見ている側」。
    観衆のほうと言えるでしょう。
    源義経の物語で最も輝いているのは、判官びいきの美徳を持っていた昔の日本人です。


    同情されて怒る人


    最後に余談、「同情されること」について一般的なお話。

    世の中には同情されると激しく怒り出す人がいますよね。

    私が昔付き合っていた友人にも、
    「この世で同情という感情が一番許せない、すごいムカつく! 同情されたら怒りが止まらなくなる」
    などといつも言っていた人がいました。
    なぜそんなことで怒るのだろうか? 不可解でしたが、同情されると激怒する人はけっこう存在するようです。

    「同情するなら金をくれ!!」
    というやつですか。 by昔のドラマ『家なき子』より
    いや、ちょっと違うか。金を恵んでもらうともっと怒り出しそう。

    おそらく同情されて激しく怒り出す人は、プライドが高いのだろうなと推測します。
    たぶん、「見下されている」と勘違いしてしまうのではないでしょうか。

    確かに同情するのは自分に余裕があるときで、しかもたいてい弱者に対してでしょう。
    自分より年下だったり、小動物だったり。
    源義経も牛若丸の子供のイメージが強かったので同情心が集中したのではないかと思います。
    (ではオッサンで死んだのに同情されている孔明は何なのだ?と悩みますが、笑。たぶん虚弱体質イメージだからなのでしょうか。いずれにしろ、孔明が江戸時代の日本人から上ではなく下または対等に観られていたことは、私は良いことだと思いますね)

    だからと言って、同情されたことに対し「見下されてる!」と怒るのは違う気がします。
    投げ銭をして優越感に浸りたいなど、そんなイヤな心で同情する人ばかりではないでしょうに。
    ただシンプルな人間としての優しさで同情心を発する人がほとんどではないでしょうか。

    何でもかんでも他人の心を利己心規準で歪めて考え、単純な親切心すら「自分が気持ちよくなりたいだけだ」などと分析し、罵倒する。
    心理分析官にでもなったつもりなのか? 穿った読みをすれば頭良さげに見られると思っているのか知りませんが、とにかくそれは歪んだ心のフィルター。
    人の行為をありのまま見る、シンプルに受け止めることが必要だと思います。たいていの人は現実にシンプルですから。


    自分について述べますと――

    私は自分へ向けられた同情へ怒りを覚えたことはありません。
    ただ、同情させてしまった無力さ・至らなさについて情けないな…、と反省するだけです。それが、“複雑な気分”。

    同情してくれた相手に対しては「優しい人だな」と尊敬心を抱きますね。
    お菓子をくれたりメッセージをくれるなど、小さなことでも他人の厚意は奇跡だと思っているので感謝の気持ちが湧きます。感謝をどう返したらいいか分からず苦しくなることはありますが。

    人の厚意へ感謝することを忘れずにいきたいですね。
    厚意さえも穿った考えやプライドで蹴散らすようになったら終わり。

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