我傍的な話(裏話・実話を絡めた歴史空想話)

    精神愛とは何か

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    前々記事にて「今の私は幸福です」と書いたけど、ただの強がりだと思われたかもしれませんね。
    きっと私は、皆さまの目に少しも幸福に見えないことでしょう。

    貧乏で、完全無名で、何をやっても報われない。
    私の話は他人に完全無視されている。誰にも信じてもらえずバカにされるだけ。
    この状態は世間一般的には「不幸」と呼ぶのだよね?笑

    しかし、それでも私が自分を幸福な人間だと言うのは、愛があるからです。
    ごく身近に何故だか絶大に愛してくれる人が存在する。
    その愛は無限かつ無償の愛です。
    そんな愛が存在することを現実の体験として知ったために、私は人が人を愛することが可能なのだと知ったし、自分が孤独ではないことを知りました。
    自分自身も人を信じて愛するということが可能になりました。

    振り返ってみればその人と出会って以来二十数年間、孤独を感じたことがなかった。
    これはどれほどの金持ちでも得られるとは限らない、奇跡と言えるのではないでしょうか。

    故に私は、「自分は幸福である」と言っています。


    考えてみると私は多くの前世で、無償の愛というものを受け取ってきました。

    今世もそうなのですが、どうも私は家族には恵まれないタイプのようで、親の愛をほとんど知らずに育った人生ばかりでした。
    しかし親の愛に恵まれなかった穴埋めなのか、血もつながらない他人が絶大に愛してくれるという奇跡を経験しています。

    今世の伴侶は言うまでもなく。

    前世の主人もそう。
    前世で従ってくれた大勢の人々も。
    前々世の先生もそうでした。

    何故、愛してくださったのかは分かりません。
    何故それほどまでに? と考えるとたまらず、涙が出てきます。

    (人は哀しい記憶よりも、愛された記憶で泣いてしまうもの)


    この「愛」とは、多くの人が誤解してしまうような性的な意味での愛ではありません。
    純粋に人間同士の、人格(魂)を認め合い、相手の幸福を願い合う愛というものです。

    『我傍に立つ』
    ではこの愛のことを勢いで「精神愛」と書いていますが、これはもちろんプラトニック・ラブの和訳を使わせていただいただけです。一般的な意味でのプラトニック・ラブではないので、誤解なきようお願いします。

    プラトニック・ラブは文字通り哲学者プラトンが説いた「肉体の関係なしの愛」のこと。
    後世たくさんの人がプラトンの主張の真意を解き明かそうとしましたが、結局、本当に彼が言いたかったことは伝わっていないのではないかと私には思われます。
    一般にはプラトンは同性愛者と言われていますので、「同性に対する恋愛において肉体に触れず純粋に美を讃える(≒耽美主義)」という意味だと解釈するのが普通でしょうか。
    現代の用語としては「我慢して純潔を保つこと」という意味の言葉として使われています。忍耐という前提によって、逆になおさら性愛の強さが強調されてしまう用語です。

    ただ、和訳で「精神愛」と表現したとき、そこには肉体の入る余地がないように感じます。
    我慢しているわけではなく始めから「無」なのです。
    和訳した人が意図していたかどうか知りませんが、古代の哲学者が表現したかった愛の本質を「精神愛」という三文字こそが表現しているように思えます。


    私が『我傍』で「精神愛」と書いたのも、この三文字が持つイメージとしての「魂の愛」のことです。

    多くの人は、性愛や親子の愛だけを「愛」と呼びます。
    たとえば同性同士なら、肉体的な関係があって初めて「愛」が生じるのだと信じる人が多い。
    しかしそうとは限らないのです。
    性別も、血縁も、利害関係も超越した人間同士・魂同士の「愛」が確かに存在します。
    (あえてここに「友愛」を列挙しなかったのは、性愛や血縁や、魂同士の愛に比べて「友愛」は少し弱いと感じるからです)
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