
先日書いた『「才能と宿命」アングルで読むYOD』へ返信いただきました。ありがとうございます。
個人情報に関わる話の引用は控えますが、YODの解釈は現実その通りだったというご回答でした。
ホロスコープの解釈が
外れていない一例として
役立てていただければ幸いです
現実の答え合わせとして私も理解を深めることができました。教えていただき感謝致します。他の占星術を学ぶ方々にも参考になることでしょう。
今回メールをくださったYN様が仰っていました。
占星術に興味を持っていなかった頃からと。
ホロスコープ通りの出来事が起きています。
そうですね。ホロスコープで表現された人生計画は、後から振り返ると現実そのままだったと分かるものです。
YN様も、YODの強制力で人生にリセットがかかったそう。積み上げてきたものを崩されるような経験をきっとお持ちなのだろうと思います。
私も何度かそういうことがありましたので、その絶望感を多少なりとも理解致します。
などと。
「凪」で平穏無事な人生を送る私が、絶望を理解すると言うと怒られるかもしれませんが……。
凪の人生
私の「凪人生」も、何かしようとするたび目の前へシャッターが降ろされるように邪魔が入って阻止された結果です。
得られて当然と考えていたもの――たとえば大学で学業を修めること※、一般的な家庭、自分の能力を活かせる仕事などは強制力で阻止された結果、得ることができませんでした。
阻止された時点での絶望感は言葉で表現しきれません。
まるで努力が無効化する呪いにでもかかっているかのように感じます。
しかし振り返ると、全ての強制力が「凪の人生計画」を実現するために行われたものと分かります。
「凪」の計画が予めあって、そこから逸れると強制力で戻されてきたわけです。
何故こんなバカげた人生計画を持って生まれたのか? と言うと、記憶を辿ると心当たりがあります。
※昼の大学へ通えなかったのは別の角度から見ても良かったと思います。おかげで偏った教育を受けずに済みました(日本の大学はほとんど左カルトに侵されている)。これについては守護がはたらいたのかも。学業に深入りしやすいと心配された? 教授らと直接の関わりを持つだけでも危険があったのかもしれません。
前世で叶わなかった人生の実現
実は、今の私の現状は前世で叶わなかった人生の実現だったのですね。
下の長くややこしい記事で書いた通り、運命とはカルマ(行動)で自動的に決まるもの。
生まれる前は先輩方から幾つか人生計画を提案され、どれを選択するか自分で決められるようです。しかしその計画で解消すべきカルマは変えることができません。
【運命論まとめ】 「幸せ」って何ですか? 因果応報、カルマの受け取りも自分で選んだ道
私の今の人生計画は、通常よりも選択の余地が少なかったイメージです。
前世とちょうど反対に見える今の状況は、単なる運命エネルギーの反動だと考えることもできます。
(陽極まれば陰に転じる。カルマはバランスを取ろうとするので極端は極端で釣りあいをとる)
ただこれは意外にも、前世で私自身が望みながら叶わなかった人生でした。
そのために絶たれた夢が時間差で叶ったような状況となっています。
具体的にお話しします…
前世の私は若い頃、
「平穏無事な人生を送ることができればそれでいい」
という漠然とした願いを持っていました。
しかし途中で真逆の人生となってしまったために、晩年には「平穏な人生」が切望へ変わりました。
当時は輪廻転生の思想を持っていなかったと思うので「生まれ変わったら」とは考えなかったと思いますが、
「もしもう一度人生を送れるなら、一般人としての平和な人生が欲しい」
と強い願いを抱いた覚えがあります。
つまり前世の若い頃に中断された形となった、皆さんが呼ぶところの“晴耕雨読”を全うしたいと思ったのです。
ところで、晴耕雨読(せいこううどく)という言葉の意味をご案内するために今検索したところこのような解説が出てきました。
「堕落」と解釈する人がいるんですか?笑
頭の悪さ全開ですね。
「労働していないわけではありません」に笑いました、当たり前でしょう。農業従事者を本気でニートだと思って蔑んでいるのは小児病のお馬鹿さんだけ。
…話が逸れました、すみません。
上の用語の定義を読み、前半はまさに現在の私の人生ではないかと改めて感じています。
〔筆者の現状〕畑仕事ではないのですが、生活できるだけの労働を少しして他の日は読書または執筆活動する状況です。ちなみに現代で農業従事者だったら悠々自適な生活はできないと思われます。「農業経営なめんな!」ですよ。
このような人生を今世のうちに自分で計画して、あえて選んだのだとしたらカッコイイのですがね。
今の私はかつての自分の切望を忘れてしまっていたので、「強制スローライフ」状態であり、周りにもそう思われ気の毒がられています。
あれだけスローライフを切望していたくせに
「努力が報われない。自分はなんて不幸なんだ!」
と一時的にせよ運命を呪うとは。
人間は愚かな生き物ですね。
宿命は塞翁が馬
愚かなのは私だけではなく、おそらく全ての人に私と同じことが起きています。
“時間差”で運命が実現するので、その原因は忘れていて運命を呪うわけです。
そして運命を創った主と教えられている神を恨み、「神を殺せ!」と叫んで社会を破壊し、何故か人間を殺戮してしまうという悲劇が起きています。これこそ愚の骨頂。
人によっては虐待などの過酷な運命を背負うこともあります。
その運命について、
「自分で選んだ人生。自業自得だから我慢しろ。助ける必要はない」
などと言うつもりはありません。
前にも書きましたが、その場合は状況を打開すること、周りが助けることも込みで設定された運命だと考えられます。
(何度も言ってきた通り、運命計算は複雑で他の人々も絡んでいるため、小学生レベルの単純な算数で答えが出せるものではありません。私は話を分かりやすくするため、自分の人生のうち単純な例をサンプルとしてご提供しているだけです)
いずれにしろ、魂の成長を願って自分で今の人生計画を選んだことは確か。
運命を呪っているだけでは永久に嫉妬の地獄を卒業できません。
前にYODの話でも述べたと思いますが
「万事、塞翁が馬(ばんじ、さいおうがうま)」
です。
つまり不幸と思われることがきっかけで大成功したり、最終的に幸福や栄誉を受けることがある(特にYODはそうなりやすい)ということ。
塞翁が馬:
昔、中国の北辺の老人(塞翁)の飼っていた馬が逃げたが、後に立派な馬をつれて帰ってきた。老人の子がその馬から落ちて脚を折ったが、そのために戦争に行かずにすんだ。このように人生の吉凶は簡単には定めがたいことをいう「淮南子‐人間訓」の故事による格言。人間万事塞翁が馬。〔東海一漚別集(1375頃)〕
『精選版 日本国語大辞典』より
「諦める」ことも成長のために必要な一つの過程かもしれません。
人生計画にはなかった横道を捨てることで本来の道を歩けるようになる……そういうことも現実にあります。
そのことに気付けたとき、「諦める」ことは「こだわりを捨てる」というポジティブな意味へ変わるのだと思います。
そして、その時点から新たな展開が始まることもあるでしょう。
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願いが実現した後
最後に再び私自身について語りますと、今の時点ではポジティブな諦めをもって現状を受け入れています。
前世の願いが叶って平凡な人生を手に入れたのだ、とようやく心から納得できました。おかげで幸福感が湧いてくるとともに人生へ感謝できるようになったと思います。
しかしこうなると失う恐怖も覚えるもの。
願いが叶ったと自覚できたのですから、
「平穏な人生を充分に楽しんだ? じゃあ、もういいよね」
と言われて次へ進ませられるのではないかと予感しています。
次の展開が始まったとき、私の出生ホロスコープにセットされたYODの本当の意味が分かる気がします。生きているうちに実現するのか、それとも死後かは分かりませんが。
(死後だとありがたいなあ~と願う、相変わらずビビりな私)