-
・translate 翻譯
greece.jpeg

最近プラトンの話をよく持ち出すのは、読書感想文を書こうと思って佐々木著『プラトンの呪縛』を読み直していたからです。

本日ようやく読書館を更新しました。読後四ヶ月での感想投稿です。
書きあぐねた末に、小学生みたいな「面白かったです。」という文になってしまいました(笑)。
 佐々木毅『プラトンの呪縛~二十世紀の哲学と政治』感想

こういう思想ジャンル本のレビューは悩みます。
門外漢だから偉そうな論文めいた話を書いてはいけないという自縛もあるのですが、そもそも本を紹介するためのレビューの中に、その内容に関して「私はこう思う」という文を入れるのは場違いに思います。

それで内容に関する話はここに書くことにしました。
まとめない雑感にて。


この本を読んで驚いたのは、近代哲学者たちはよくここまでプラトンの著書を曲解できたな! ということでした。

そもそもキリスト教会がプラトンの威光を利用し、どう考えても違うだろうという教義のなかに無理やりプラトン哲学を取り込んでいったことからして驚きですが。
(信者たちがプラトンの著書をキリスト教義に寄せていくために書き換えた部分もありそうな気がします)

私には近代西欧人が
「プラトンはキリスト教的ではない」
と言われた時にガ・ガーンとショックを受けたことが滑稽に思え、まずそこで笑ってしまいます。そんなの当たり前でしょう。プラトンがキリスト教信者のわけがない。
でもキリスト教が浸透した社会においては、「偉いもの、正しいものは全て必ずキリスト教的であるに決まっている」と思い込むのが当然だったのだろうなと想像します。想像しますが、我々にはとうてい理解できない感覚ですね。

二十世紀初頭の哲学者や政治家たちが、自らの政治主張に合わせてプラトン哲学を曲解し利用するという芸当ができたのは、上のキリスト教会的な「曲解技法」が模範としてあったからかもしれません。

西洋人は過去の偉大な先生が言ったことでも批判し、自分なりに考えるということが最大の長所なのですが、このように過去のテクストをほぼ無視して都合よく曲解するのは犯罪的です。
批判するにしてもその人が書いたものはきちんと読んだうえで客観的に解釈し、筋の通った批判をしなければならない。そうすることで真理への階段を昇る足がかりとすべきなのに、偉大な人の名前だけ利用して内容は無視。ろくに本人が書いたものを読みもせず、反抗するために都合の良いところだけをピックアップし、あるいは勝手に内容ねつ造して批判するだけ(ただの揚げ足とり、誹謗中傷)。
これが代々当然の文化となれば「哲学」などの学問自体が無意味となるのではないでしょうか。

いっぽう東洋に目を移すと、東は東でこれまた極端で、過去の偉大な先生の言葉に永遠にすがりついて信奉するだけ。批判的な思考をもって自分なりに新たな発想をしようとしない。
おかげで孔子や孟子(あるいは老子)のテクストは今でもそのまま読み継がれています。
確かに孔子や孟子は素晴らしく、今でも通用する不朽の思想を含みます。だからと言って過去の先生が言うことを鵜呑みにするだけでは進歩がない。
これは東洋の長所でもあり短所でもあると思います。
批判能力が欠如しているということは、過去の先生が偉大であれば長期に真理を保存できるということになりますが、もし先生が誤っていたら修正のしようがないわけです。


西も東も、一長一短ですね。

もともと西洋哲学は批判し続ける(問い掛け続ける)ことで真理に到達すると教えます。このために哲学で統治することは不可能だった。それで、キリスト教あるいはイスラム教のような恐怖も抱かせる強い宗教が必要で、その結果が宗教による殺戮の歴史でしょう。
十九世紀から二十世紀初頭に
「神は死んだ。プラトンはキリスト教的ではない」
というショッキングな宣言によって、ついに宗教さえ否定された。
統治できない国家は一気に解体、人々は分離対立し、あの大混乱が訪れた……。

ふむ。
いったいどうすれば良かったのだろう?
何を選ぶのが最善だったと言えるのだろう?


過去の政治哲学者・社会思想家たちを眺めていると、誰もが最善の政策を求めたことは確かだと思います。
プラトンを曲解し、その威光を無理やり利用してまで彼らが目指したのは「人類の幸福」であったはずです。
大失敗した社会主義にしても、今はすっかり魅力が褪せた民主主義にしても、出発点は「人類の永遠幸福」を願う気持ちだったと思います。それがどうしてこのような結果を招くのか。

もしかしたら西だけでは足りず、東だけでは足らないのかもしれません。
お互いに良いところを持ち寄り、最善策を練っていくのが幸福へ近付く道なのでは?

ポパーという人の提唱した「漸進的社会工学」なるものに私は諸手を挙げて賛同できませんが、「漸進的」という部分だけには共鳴します。
一瞬で人類を幸福にする思想があると妄想するから地獄を招くのであって、より良いと思われる策を東西で持ち寄り積み上げて、ゆっくりと階段を昇っていくべきなのではないでしょうか。

だからせっかく残された先人の知恵は、ろくに読みもせず批判するのではなく、未来の階段を昇るために役立てるべきと思います。


幸いなことはプラトンの書いた文章が今も残っていることです。
(一部は書き換えられ贋作の追加があるため注意しなければなりませんが)

ソクラテスや釈迦は、「書けば曲解されるから書かない」と言い、確かにそれも一理ありました。
しかし2500年も前のプラトンが書いた文を直接に読める機会を与えられていることは、未来人の我々から見るとものすごく有り難いことです。
おかげで二十世紀初頭の人々が曲解したプラトン著書も、原書と比較すれば「横暴な曲解」であることが明瞭に分かります。


今はもう一度、スタート地点に立ち返って検討してみるべきなのでしょう。
人類は何を棄てたのか?
古代哲学のうち、見て見ぬ振りをして廃棄処分してしまったのは何か?

プラトンの著作で言えば形而上を棄て去ったのが間違いのもとだったのではないでしょうか。
プラトンが何を見ていたかというと、未来でも過去でもなくてありのままのイデアでしょう。
彼の描いた国家が酷薄で、地上では実現不可能に思われるのは、もしかしたら上の次元の国家モデルをそのまま表現していたに過ぎないからかもしれません。
(高次の世界は、地上から見れば酷薄です)
自分が理解できないからといって存在しないものと決めつけるのは、中学生の反抗期と同じ。中学生にとって「大人の世界なんか理解できない」からと言って、大人の世界が存在しないわけではありません。ただ中学生には実現不可能なだけのことです。

プラトンに足りないところがあったとすれば、地上の人間への配慮でしょう。
彼は(私が思うに)高次世界に片足を入れた人だったので、地上のことが既に分からなくなりかけていたと思われます。
妻子の共有などは地上社会では実現不可能ですね。実現してはならないと思いますし。
人間の情を考慮に入れないのは、高次世界の霊たちの悪い癖です。

地上の人間に不可能なことは「無理」と言って良いと思います。受け入れられない価値観を受け入れる必要はない。しかし、形而上を無いものと考えると真理は読み解けないはずです。
人生の幸・不幸、運命の不平等も、形而上の神秘を視野に入れて考えなければとうてい理解することはできないでしょう。形而上なくして地上に「平等」などあり得ないし、無理に地上だけの平等を実現したとすればその世界は地獄の様相をしているはずです。


極端に高次なプラトン世界と、低次元の欲望を貪る民主社会(獣の社会)との間にあるのが、もしかしたら東洋政治思想かもしれません。
プラトンが『国家』で語った理想社会の一部は、東洋の政治思想に似ていないでしょうか。
たとえば「哲人」はほとんど「君子」に近い概念です。
君子による徳治主義は中国の悪しき人治主義にも繋がってしまうのですが、もし西洋的な法治主義を取り入れたうえでプラトンの語る「哲人王政治」が可能だとすれば、最高の理想国家ができる気がします。

夢のような話なのですが、私はそれがかつての日本・江戸時代においてある程度実現されたのではないかと考えています。
人徳のある高貴な国家元首を戴いて、政府は民愛精神と法で自制し、民に尽くして国家の舵取りを行った。
あれは中国でもついに実現しなかった(法治ベース)「徳治政治」です。
もちろん完璧な夢の実現ではありませでしたが、理想国家が決して空想ではないことの証明です。
もしプラトンがその当時の日本に訪れていたら感涙していたに違いありません。


読み始め時点の雑感にも書いた通り2015年現在もはや民主主義の失敗は明白で、プラトンは古代の夢想家から現実の予言者に昇格しています。
今こそもう少し誠実にプラトンの言葉に耳を傾け、そのうえで東西の知恵を集めた最善政治を模索しなければならないのでは。

実は私も若い頃に「生理的に受け付けない」と言ってプラトン著作を放り出した口なのですが、これから読み直すことにします。
関連記事

吉野 圭-Yoshino Kei
Posted by吉野 圭-Yoshino Kei


気に入っていただけたらシェアお願いします。要パスワード記事は引用しないでください(パスワードを貼るのも禁止です)
記事にして欲しいご質問あればこちらからどうぞ:★コンタクト

管理用 anriy3@gmail.com

 カウントは2014年頃から、お休み期間もあり