我傍的な話(裏話・実話を絡めた歴史空想話)

    今世で学ぶべきだったこと、タイムリミット間近で気付く

    昨年冬至のテーマ「アイデンティティを取り戻す」へ無意識に従っていたのか、ここ半月ほどは“基本”を学び直していました。

    東洋古典思想も学び直しが必要、その前に三国時代をもっと詳しく客観的に振り返らねば――これはやや義務感――と焦るものの。

    やはり人類が壊れかけている今、喫緊(きっきん)で読み解かねばならないと感じるのはこの不気味な現代の背景で蠢(うごめ)く思想=プログラムです。

    それでどうやら現代に直結すると分かってきたプログラムの一つ、古代西洋哲学に焦点を合わせひもといていました。

    とりあえず大衆向けの易しい解説本で学び直しています。
    たとえば文化センターの教養講義のようなものです。

    現代の学者は9割が左のポジションに染まっていて、大衆向けの解説本は特にプロパガンダ教材として歪められていますので警戒しなければなりません。
    しかし先日私が別館で引用した書籍には偏りがないように感じられました。
    それどころか近代思想家の巨大な誤りをこの短い文で的確に指摘されていて、目から鱗が落ちる想いがしました。
    もしかしたら現代思想を反駁・反転させるヒントにもなるかもしれません。

    以下がその書籍からの引用記事。
    なんだか過去の記事と似たような話ですが、これまでと比べ飛び抜けて重要なヒントと思います。私の個人的な体験を読み解くためにも重要でした。

    【読書館】『よみがえる古代思想』プラトンの目指した政治術とは

    なお上のブログは、もはや自分用メモとしてしか使っていない読書館です。
    近年は紹介するに値する小説を全く読んでいないので完全放置状態。それどころか過去に読んできた小説にもうんざりしており、幾つか記事を引き上げたのでほとんど中身のないブログとなってしまいました。ただでさえ読書館には書ける話が少なかったというのに。
    だからこのたび久々に引用メモしたくなる文を見つけたことを嬉しく思います。


    それにしても教師は必要なものだと改めて思いました。

    妙なイデオロギーに染まった現代学者たちの話に本気で耳を傾ける価値はありません。
    むしろ鵜呑みにしては危険な講義ばかり。
    ただとりあえず総論的な目次、道案内は必要だったと思います。

    若い頃から私は何でも独学で学んできました。
    それは「自分のほうが学者よりも上」などという自惚れや、他人に学びたくないというプライド故ではありません。貧困家庭に生まれたという不可抗力によります。つまり単純にお金がなかっただけ。
    最近は統一教会の元信者の子ばかり補償しろと言われていますが、何故あの人たちだけ贔屓するのでしょう? とんでもない不公平。我々、貧困家庭育ちの国民全員を補償していただきたいものです。(冗談です、念のため。不公平な救済をやめろという意味)

    まあ独学でもたいていのことは学べたために不便を感じたことがなかったというのは本当です。
    しかし教師がなく道案内さえしてもらえないと、何を学ぶべきかという肝心なことに気付けない場合があるようです。

    たとえば私は若い頃に古代西洋哲学へ仄かな興味を抱いていたのですが、実際その世界に深入りすることはありませんでした。
    始め誰のアドバイスもなく直接に原典(と言っても翻訳ですが)を読んでしまい、その内容が私の考えとは合わず嫌悪感を抱いたために、「この道は違う」と思い込んでしまったからです。
    もしその時に上の道案内を読んでいたら先へ進んでいたかもしれないと思うと惜しいことをしました。
    もちろん大学へ行く金はなかったので学者になる道は初めから絶たれていましたが、趣味の読書としてでも学び続けていたかもしれないのにと思うと残念です。

    古代哲学がこれほど現代の問題に直結しているとは思いませんでした。
    今から原典を全て学び直すのは時間的にかなり厳しい。

    学び現代プログラムのバグを読み解こうとしても、果たして残りの寿命で間に合うか?
    そもそもあまりにも声の小さ過ぎる私が叫んだところで、いったい何の意味があるのか……。

    最近はChatGPTなどのAIが人間の著作を盗み、勝手なことを喋り始めました。
    どうやら検索システムさえ奪い(検索システムだって言論統制されていたのに)一般人の言論が完全に排除されようとしているようです。
    世界の知識も思想も歴史も、彼らの思うがまま歪められる。一般人は僅かも声を上げる場所がなくなる。

    もうほとんど絶望的な状況です。

    実を言えば今日もそのようなことを考え無力感で落ち込んでいました。
    もはや無駄なら全て棄て、残り時間を穏やかに過ごしたいとの考えがよぎってしまう。

    それでも私は、語ることを辞めるわけにはいかないのだろうなあと思います。
    きっと生まれてきた理由(使命)が語ることにあるため。

    ああ。若干、前世晩年と重なります……。
    あの当時は周囲の争いがやまないので引退することばかり考えていました。
    申し訳ないことですが自分がいなくなれば平和になり皆が幸せになるのではという幻想を抱いていた。今は客観的に誤りだったと分かります。
    結局たった一人の純粋な若者のおかげで踏みとどまり後悔を防いだのでした。

    続けることだけで全うできる使命があります。

    「あと一歩だけ前へ進もう」(スガシカオ)ならぬ、
    「あと少しだけここへ留まろう」と自分に言い聞かせる日々。

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