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『どうする家康』“民に見放されたときこそ死ぬ” 彼らに百万回聴かせたい

ちょっとだけ歴史雑談お許しを。

今般の大河ドラマ、『どうする家康』は初めて大河ドラマで少しいいなと感じました。
と、言ってもまともに観ている時間などないので、例によって家族が観ているのを断片的に目撃するだけですが。
〔直後:やはり家康貶めの文化破壊を目的としたプロパガンダを援護するドラマと感じましたのでもう観ません。家族が観ている間は耳栓しておきます〕

その“断片”で見かけるセリフが時折、胸を刺します。

先日の松潤……ではなかった、家康の回想で今川義元のセリフに胸が熱くなり泣きそうになりました。

「我らは民に生かしてもらっておるのじゃ!
民に見放されたときこそ 我らは死ぬのじゃ!」

なおこれは孔子の教え【民、信なくんば立たず】をもとにした創作のようです。
他の話では義元との問答ではなく、竹千代の師匠である太原雪斎との問答であるらしい。

【民、信なくんば立たず】とは:コトバンクより解説引用
政治で最も大切なのは、国民の間に信頼の心を持たせることだ、という戒め。

[由来] 「論語―顔淵」に出て来る、孔子のことばから。弟子の子貢から、政治で大切なことは何かと聞かれた孔子は、食糧の確保と、治安と、信頼の心の三つだと答えます。さらに、一つだけに絞るならばどれかと問われた孔子が選んだ答えは、信頼の心。なぜなら、「民、信無ければ立たず(国民の間に信頼の心がなくなったら、国はやっていけない)」からだと述べたのでした。
コトバンクに補足しておくと、ドラマで述べられた信頼とは「国民同士の信頼」のことではなく為政者が民から得られる信任のこと。

今川義元が叫んだ以下の言葉そのものです。

「我らは民に生かしてもらっておるのじゃ!
民に見放されたときこそ 我らは死ぬのじゃ!」

このセリフを某国の為政者やメディア支配者に百万回聴かせたいものです……。

“民”の信任など一切得られていないのに、暴力で脅して民を支配している独裁政党に。
また、“民”たる一般視聴者の支持を得られていないのに、放送権を独占して偏った思想のプロパガンダを流し続けるメディアに。

世が世なら、お前たちはもう死んでいるのだと思い知って欲しい。
今は科学技術の力で支配を続けていられるだけ。

ま、独善ゾンビで人の心を持たない(事実上死んでいる)あのカルトたちには、どれほど真実を言い聞かせても「我らは民の信任を得ている」と言い張り現実を歪めるのでしょうがね。
そう言えば話題のグループも一般的には不正が明らかとなったのに勝利宣言していましたっけ。さすが死者、正反対のことしか言えない口となってしまっている。


――それはともかく。

セリフ自体には鬼気迫る真実があり、家康を育てた時代の人々の心を表しているようで私は胸を突かれたのでした。

不思議とリアルが漂うドラマ


今回の大河ドラマでは何故か時代の“リアル”を感じることが不思議です。

細かいところでは首を傾げる設定が山ほどあると思います。
現代的で軽々しい会話のやり取りや戦闘シーン、キモイ信長などは私も観ていられません。

しかし何と言えばいいのか。
まるで日本マニアの外国人が作った映画、『ラストサムライ』のような、本質を写し取る描き方がされていますね。

歴史ジャンルのマニアはどうしても既存の歴史創作から抜けられず、細かい設定にこだわり過ぎて本質が描けない。
でも外国人は細かいところが分からない故に本質だけ抜き取るのがうまく、普遍的なリアルを描いてしまう。そしてそのほうが逆に当時のリアルでもあったりする。

今回は既存の「徳川家康」というイメージを失った現代人が作ったために、まるで外国人が作るような本質抜粋の効果が生まれたのでしょうか。

実はNHKとしては、日本で尊敬されてきた徳川家康を貶める文革としてこのドラマを流していると思います。
『泣き虫弱虫』の家康ということにしたのは、分かりやすい彼らの貶め技法ですね。
何故かあちら側の人は弱い人間を嘲笑するのが好きですので、貶めたい歴史人物に「泣き虫弱虫」というレッテルを貼りたがるようです。

でも私は個人的には、「泣き虫弱虫」な家康のほうが好きです。
ヘタレなのに必死で頑張り、裏切られることが恐ろしいにも関わらず家臣を信じようと足掻く姿には好感しか持てない。
そしてセリフには反抗の意識が見えます。
あちら側の者たちが最も嫌う孔子の「信義」を持ち出すあたり、脚本家の勝負を感じます。
少々中華ドラマの心意気がありますね。検閲されると分かっているフィクションに命がけの党批判を差しはさむような。(NHKの番組制作会社は命がけではありませんが、打ち切られ生活できなくなる可能性はある)

思い出を刺激されるのは何故


それと、話の内容には関係ありませんが景色の描写に私は思い出を刺激されます。
今までの大河と違ってCGを使うなどファンタジー的な要素が多いのですが、それがかえってボンヤリとした古い時代を思い起こさせると言いましょうか。

特に一向一揆の辺りの描写で何故か自分が前世で生きた時代の景色を思い出しました。
殺戮シーンではなくて、人々が花びらをまきながら笑顔で踊っているシーンなどにです。

砂で煙る霞んだ景色。
黄色い陽のもと、人々が舞い踊っている。

日本の戦国時代なのに懐かしいとは、おかしなことですね。
もしかしたら日本の戦国時代までは古代中華から伝わった雰囲気が保たれていたのでしょうか?

……それにしてもこの懐かしさ、自分の記憶の中のいつの投影なのだろうかと考えていました。
勝利の後の、民とともに祝った宴のときか。
それとも、死の前後に見た祭りの光景か。
もしかしたら自分が山車に乗せられたときの光景だったりして。

なんとも言えない胸をかき乱される光景でしたが、嫌な感覚ではありません。

このように私が懐かしく感じるということは何か奇跡的な力でリアルの雰囲気を得たドラマなのでしょう。
左巻きな方々の不興を買っているらしく、メディア記事で叩かれている『どうする家康』ですが、方針を変えないで頑張って欲しいです。

「民、信なくんば立たず」について


冒頭に引用した孔子の言葉について私が思うことを書いてみます。

現実問題を言えば、食も治安もなければ民からの信任など得られません。
気持ちがあれば許してもらえる、愛してもらえると思うのは傲慢だと思う。
国民を食べさせないのに「俺を信じるべき」と言うのは独裁者の態度。
自分自身の命をささげても、民や家族を食べさせ命を守るよう努めるというのが「愛」ではないか、と私は思います。前世ではそう思っていました。

ただ孔子の言う「信」はもっと大きな意味なのでしょう。
最後の最後、究極の場面でも残すべき人としての心のことを指すように思います。

たとえば今の日本のように、文化革命で道徳を奪い・善悪を反転させ、「正義なんかわからない!」「正義なんかない!」と唱えて人の心を失った“鬼(または地獄の虫)”が闊歩する世の中にしてはいけないということです。

皆が心を失えばもう、人間の世は終わり。

だから食を失うより命を失うより、心を失うことのほうが怖いという話でしょう。
私もそれは真理と思います。
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