2023
Jun
16
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「私は人を見限ることが滅多にない」について

前記事でリンクした歴史館のMBTIの記事、追記のお知らせです。
言葉足らずだった箇所に説明を加えています。
別館記事からの転載
追記箇所:INTPは人を見限ることが滅多にない、について
私のプライベートに関する話だけ抜粋し転載しておきます:
私も友人と口をきかなくなってしまうことは時々あるのですが、その前に怒っていることを告げます。それで相手が逆切れして謝らなかったり、アクロバットな嘘をついて自己正当化した場合にそうなりますね。↓注釈
わざと無視して嫌がらせをしているわけではなく、話せなくなると言ったほうが正確です。ストレスを感じるので距離を置きたくなるわけです。
「モラハラ」と言われるのは誤解。ハラスメントが目的では全くありません。くどくどと日常の細かいことを説教して悦楽を覚えたことはない、それどころか指摘するのは嫌でたまらずストレスを感じます。だからなるべくストレスを減らすために、本質的なことのみ指摘する傾向があります。
しかしそれまで何も言わなかった人が急に本質的なことで怒るから、相手はなおさら怖いのでしょうか。
私の場合はそこへ至るまでに相当の我慢をして悩んだあげく、周囲または相手のためを考えて告げます。だからその時は限界間近なんですね。
(たぶん表現が下手なのです。十年耐えたこともあります…)
その代わり、誠実に謝られたらすぐに怒りは収まります。
状況の正当性だけを考えますので、反省していることと、やむを得なかった理由をきちんと説明してもらえたら納得するのです。
「すぐ機嫌を直す」で有名。場合によっては5分で仲直りします。これは感情優先の人間ではないからなのでしょう。
人を根本から見限ることは滅多にありません。〔※1〕
犯罪が続いている場合だけ、その犯罪をしつこく指摘するわけです。相手が反省せず有害行動を続けるからです。
※1:人を根本から見限ることが滅多にない、について
INTPの特徴として「人を根本から見限ることは滅多にない」ということがあると思います。
わずかなミスだけで人を見限ることがないのは、たぶん思考優位だから。感情の好悪は後回しです。このため解決不能な問題がない限り人を見捨てることはありません。民族や階級、性別や年齢等での差別レッテルを最初から持たないのもINTPの特徴でしょう。
(ただしあくまでも“滅多にない”です。思考優位だからこそ、判断を積み重ねて“有害”と考えた相手…たとえば有害行動をして反省のない人物・集団に対しては冷たくなる。逆に言えば、そうなる相手はよほどの悪さをしているか価値観が激しく違うと判断されたことになりますね)
上で引用した通り、諸葛亮の記録でも「罪を犯しても反省している者は許した」と書かれています。
また兵糧輸送せず進軍を妨害し処罰された李厳も、諸葛亮が死んだときに
「諸葛丞相が生きていたらいずれ自分を許して復帰させてくれただろうに。これで望みはなくなった」
と嘆いたといいます。この記録は、諸葛亮が罪を悔いている人を許し復帰させることがよくあったという事実を裏付けるでしょう。
馬謖を斬った話ばかりが過大に宣伝されているので諸葛亮には怖い法家のイメージがありますが、実はわりと甘いほうではなかったか… と思います。
古代中国の政治家としては激アマなほうだったと言えるでしょう。それはそれでよろしくなかった。諸葛亮は厳しさではなく、甘過ぎたことを責められるべきかと。
水瓶座ならこの解釈で正しい
“INTPの特徴として「人を根本から見限ることは滅多にない」ということがあると思います”
と書きましたが、他のINTPさんに確認を取ったわけではありません。しかし私自身の例と、直感思考タイプの性格特性からたぶんそうであるだろうと推測しています。
ここは本当は「水瓶座は~」と言いたいところですね。
水瓶座ならば確実に※上に書いた通りです。
多くのMBTIマニアが「INTPの解釈は水瓶座っぽい」と考えているらしいので、遠からずと言えるのではないでしょうか。
(INTJにも水瓶座の要素はありますが。発明家イメージのINTPのほうがより水瓶座の要素が強いかもしれない)
※初来訪の方へ。ここの「水瓶座ならば」は太陽星座のことではありません。あくまでも水瓶座の解釈のこと。出生図で水瓶座の要素が強い割合で性格に現れます。占星術館参照
無意識の差別は持ち合わせない
私が感情で人を判断することがほとんどないのは事実。
だから初めから無意識の差別レッテルを持ち合わせないわけです。
その代わり自分自身の“思考”で分析した結果、問題ありと考えた人・集団に対してはブロックするなり、その問題を指摘し続けるなりの対処をします。
(これが最近の某集団に対する態度です。あの犯罪集団を放置すれば人類終わりと思うからです)
差別レッテルとは違って、事実の犯罪を観察したうえでの対応ですね。
よく言われる「区別」というもの。差別の言い訳としての「区別」と違うのは、事実犯罪に基づく判断であり、有害行動が続いている故の対応だということです。
もし有害行動が改められるなら対応を変えます。反省している人であれば許容します(警戒は残しつつ)。
そのように杓子定規ではないところがたぶんINTP。
しかし私についても孔明についても、過激に神経質な懐疑主義者と決めつけられていて、小さなミスを理由として人をむやみに切りまくるイメージが造られていることは不当です。
孔明については例の集団が“馬謖の件”だけ過大に宣伝して、怖い独裁者のイメージを宣伝しているからですね。
私という一般個人に対しても、左翼の運動によって浸透した「インテリは悪」レッテルが巡り巡って貼り付けられているように思います。
このため私は子供の頃から個性を否定されてきましたし、今も浅くしか付き合いのない女性たちから「モラハラですぐ人を切るサイコパス」などと差別の石を投げつけられているわけです。
言うまでもなく。現在の私に対しては孔明と関わっているからダイレクトに“孔明”への悪口が投げつけられます。
結果、悪口の内容があまり変わらないのはご愛敬。笑
いっぽう曹操のほうが恣意的な基準で「人を見限り」膨大な数の拷問処刑をしていますが、何故かそんな殺人大好き曹操様は「寛大で人を許容する素晴らしいリーダー! マンセー!」と称賛されています。
じゃあ、民間人の大虐殺とか365日粛清したほうが寛容と称賛されるってことですよね?
苦しめて殺した人間の数が多ければ多いほど「寛容」だとは。「寛容」の定義が「人食」にすり変わっている(人を食べれば食べるほど評価されて上弦になれるとか)。鬼の世界ですかここは。
“人を見限ることは滅多にない”の例外
なお
「人を見限ることは滅多にない」
と言いながら、実際に私はこの人生で人との縁を切る(多くは、向こうから切られる)ことが何度かありました。具体例
価値観や行いが根本的に“ヤバい”人に対し、私は現実の問題が起きそうになったとき忠告します。
するとそのようなタイプの方は忠告の内容は一切無視して「意見された」という事実に激怒しますね。そして、捨て台詞の醜い罵倒を吐いて去ってしまう。
そんなときは
「根本的に価値観が違うから」
と自分に言い聞かせて縁が切れたことに感謝するしかないです。
おそらくそのまま付き合っていれば自分だけではなく家族まで巻き込んで害を被ったでしょう。
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当たり前… ですね。
大人なら常識。何を今さら! と驚かれそう。
そもそも最初からそういう危険人物と付き合うのがどうなんだ? と思われるでしょうが、来る者拒まずで一般に嫌悪される人でも差別せず付き合ってしまうのは私の欠点で。
よく「人を見る目がない」と言われますが、先にレッテルで判断することがなくひとまず許容から入るせいでしょう。※
これが差別心を持たない、本能的なこだわりが少ない性格のデメリットだと思います。
だから実際に私は甘いのだと言えます。
良い面でもあるとは思うのですが、行き過ぎた平等精神は反省すべきです。
※人生の伴侶や親友については「誰でもいい」ということはありませんので念のため。一緒に生きる人については吟味します、当たり前。“許容から入る”とは仕事仲間、知人友人に対してです。
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