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世間という地獄

読書中メモです。
僕は、結局、世間というものを剥がせなかった。本当の地獄というのは、孤独の中ではなく、世間の中にこそある。

『火花』又吉直樹 (文藝春秋 単行本P115)

駄目だ、引っかかって何か書きたくなってしまう。
この薄い本を読むのに異常に時間をかけている。
感じ入ってしまい、いっこうに先に進めなくて時間がかかるのは本当の文学。つまり、「ただ在りのままの文」という意味での文学だが。

上の文、響くねえ。
又吉は今現在、本物の「地獄」を味わっているのではないだろうか?
これが世間だということをまざまざと見せつけられて、虚しい想いだろう。
人を見ぬくことに長けている私の上司が、最近の又吉を眺めて「奴は急に変わった。ドヤ顔になってる」と言うのだが、「ドヤ」の意味が本来のものとは違うかもしれないね。
成功して世間に復讐した点では「ドヤ」。その代わりに激しい警戒心と、絶望的な諦めが見える気が私にはする。

又吉は太宰に憧れつつ、永久に太宰にはなれない。
そしてこの小説を読む限り彼は痛いほどにそのことを自覚している。ほとんど悲鳴に近い文に思える。

思うに、天才は芥川賞を取れないのでは。
この小説に出てくる神谷さんみたいに、本物こそ永久に栄冠を獲得することはない。
(ただし太宰は文学賞が欲しくて欲しくて仕方なかったのだが取れなかっただけで、取ろうとしない神谷のスタンスとは違うが。太宰は賞が欲しかったのに、その取り方さえ知らない在りのままの天才だった)

太宰は栄冠を与えられなかったからこそ日本一、売れた作家となっている。
他人に自慢するために太宰を読む人は一切いない! 
むしろ、太宰を読むことは恥ずかしいことと思われていて、とても他人に太宰を読んでいることを告白できない。
それなのに、隠れてでも太宰を読みたいと思う人が後を絶たない。
こういう、「隠れてでも読みたい」「禁書となっても読みたい」というほどの中毒する読者を持てることこそ、作家冥利につきるのではないだろうか。

あるいは賞も取らず無名でありながら、いつまでもいつまでも愉しみに待ってくれている読者を得ている作家のほうが、とんでもない幸福と言えるのではないだろうか。


芸人だからという理由で、初めて書いた小説(小説になりきれていない処女作)に芥川賞を押し付けられる。
そんな扱いをされて気の毒にな、と心から思う。
この状態を彼は幸福だと思うようにしているのだろうか?

こういう世間を眺めるたびに、成功って何だろうなと虚しく思う。
「世間は地獄」とは真実。
「有名無力 無名有力」という言葉をまた思い出す。


成功し、有名人にならなければ影響力を持つことはできない。世間でお役に立てない。
だけど有名になる過程では、必ず嘘をつかなければならない。(よほど優秀なプロデューサーがついてくれて、自分が知らぬ間に有名な場へ引き上げてくれるのでない限り)

こんな汚い世間で自ら「成功」を求めることは、吐いてしまいそうなほどの汚泥の中に飛び込み、自分自身も汚泥となることに等しい。
汚泥となることを自分に許せず消えていく「本物の天才」たちはやはり、尊いと私も思う。

尊いとは思うけど無名であることを誇りにするのもまた違う気がするな。
嘘をついて世間に迎合し商業的に勝利すること・嘘をつけず完全無名のまま終わり影響力を持てなかったのにそれを誇ること。
どちらも不幸で、成功しているとは言い難い。
では「成功」とは「幸福」とはいったい、どこにあるのか?


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