2016
Feb
27
-
魂の個性は誕生時点で決まっているのか
前記事に書いた話(人には生まれつき得意分野がある)は、スピ的な裏話を言えば私がいつも書いている通り、
「過去生で経験を積み重ねてきた分野は得意となる」
というだけの話になります。
※脳や身体などDNAの差は、魂が自分に合った肉体を選ぶことによる差です。魂の能力によって乗りこなせる乗り物が違います
魂の誕生時には能力の差などないはずです。
つまり長い目で見れば完全平等、魂の能力はフラットだと言えます。
私の記憶でもそうですが、ニュートン氏の本で被験者たちの全員が同じことを語って裏付けてくれています。
「全ての人生の選択は、魂が自分で行うものである」
と。
だから今の自分があるのは全て自分の責任。全てが自分の選んできた道。
したがって他人との能力の差を恨んだり、他人に嫉妬したりするのはおかしいということになります。
しかしここで疑問になるのは、魂のスタート時点ではどうだったんだろう? ということですね。
それらの人生を選択する一番始めのきっかけ、すなわち「魂の意思」はどこにあったのか。
経験を積んだ魂ならカルマの法則に従って来世を選ぶことになります。
転がるボールは、その転がる軌道上にある人生しか選ぶことができないのです。
そのため軌道は自動的に決まり、選択肢となる人生も二つか三つ程度に絞られるようです。
(ちなみにこの転がる軌道を変える力は、生まれている間にしか行使することができません。いわゆる「因果応報」とは、望まぬ軌道に流れたボールを修正するためのバランスとして加えられる力のことで、懲罰のことではありません)
では、転がる前のボールは?
スタート地点では何を基準に転がる方向を決めたのか?
この疑問に対する答えは一つのような気がします。
すなわち、「誕生時にすでに魂には個性がある」ということ。
能力の差ではなく、あくまでも個性の違いという意味ですが。
私がこの仮説に至ったのは占星術のホロスコープについて考えている時でした。
一般的に「性格」とされている太陽の星座は今世の生き方を示すに過ぎず、これは地上に限定された人格と言えます。ニュートン氏の被験者ふうに言えば、「魂 × 肉体」のうち肉体が太陽でしょう。
いっぽう本質的な個性(アイデンティティ)を表わすのは、アセンダント星座です。この本質は幾重にも覆われた外的性格の下に隠されていて、最もプライベートな時にしか表れません。たまに本人も気付かない「癖」として現れるため、「第一印象」と読み間違えることがあります。
ニュートン氏の被験者たちも語るように、魂の個性はスピリット世界で対面して初めて理解されるほど、見抜くのが難しいようです。地上では魂の本質と違う肉体(太陽)を選び、その肉体をうまく乗りこなしている人も数多く存在します。
さて、このアセンダント星座=魂の性格は、長い転生の間に変化するのでしょうか?
私はずっと「長期のうちに変化するのでは」と思っていたのですが、占星術の理屈から考えるとどうもそうではない。
「アセンダント星座は魂の製造番号を表わす」と言われるように、少なくとも星座は変化することはないのではないか? (同じ星座の中で度数は行き来することがあっても星座は変わらない)
関連記事: 魂は3の中和で消える。個のホロスコープのゴール
この仮説を裏付ける話をニュートン氏の本で発見し、腑に落ちると同時に複雑な想いとなりました。
魂が「根元」と思われる卵のようなエネルギーから分離する、つまり魂が誕生する瞬間に立ち会う専門家の話:
ニュートン氏はこの理由について次のように語っています。
もちろん自由意思によって選択し、経験を積んでいく過程で魂は大きく成長し、「個性」の上に重なる新しい性質があると思います。
しかし最終的に何者になるかという方向性は、最初の時点で決まっているのかもしれません。
この方向性を大きく分類したのが、占星術で「製造番号を表わす」と呼ばれるところのアセンダント星座でしょうか。
(たったの12分類では、二つとして同じ魂はないはずの魂の個性を表わすには少な過ぎますがね。もしかしたら、その分類は最終的に到達する専門分野を表わしているのかもしれない)
つまり、少しがっかりすることですが、
「我々は何度転生してもアセンダントにおいては他の星座には行けない」
ということになります。
惑星によって他の星座を経験することはあっても、他者になることは不可能だし、それは望むべき最終目標ではないわけです。
【引用】死後の世界を知ると人生は深く癒される
より
仏教を齧ったことのある東洋系のインテリ※は、輪廻転生を懲罰であるかのように教えられるため、個性を保ったままでの転生に恐怖を覚え忌み嫌います。
特に現代人は何でもショートカットを望みますので、現代の東洋インテリは
「我々は死んだら即、根元と同化して個性は無となるのだ」
などと釈迦レベルのことを恥ずかしげもなく主張する人が多いように感じます。
しかし残念ながら個性を保った転生は、現実にあるようです。
我々はまだまだ釈迦レベルにはとうてい及ばない。
そう考えて謙虚な心で現世という修行に励む必要があります。
(推測ですが、釈迦ですら根元と同化までは行っていないと思います。ニュートン氏の被験者たちが語るように、最高でもレベルⅤと呼ばれるマスター見習いの魂しか地上に降りて来ないのです。と言うことは釈迦もおそらくまだ根元に同化する段階に行っておらず、スピリット界でマスターとして役目を果たしていることでしょう)
究極的に言えば、我々は一つ。衆生は同じ。これは最終の真実です。
「死即悟り」という考えにすがりつく人たちは少し気が短か過ぎ、いきなり最終地点に到達できなければ我慢ならないと思い過ぎなのです。
個を失う地点に到達するには気が遠くなるほど長いから、おこがましい考えは棄てて、個の責任において一生ずつ大切に生きていくべきなのだと思います。
※「仏教を齧ったことのある東洋系インテリ」とは、かつての自分も含まれています。私も17歳の時に自分で前世記憶を思い出すまでは、仏教系の本を読んだだけで真理が分かったようなつもりになり、「死即無」の考えにしがみついていました。
「過去生で経験を積み重ねてきた分野は得意となる」
というだけの話になります。
※脳や身体などDNAの差は、魂が自分に合った肉体を選ぶことによる差です。魂の能力によって乗りこなせる乗り物が違います
魂の誕生時には能力の差などないはずです。
つまり長い目で見れば完全平等、魂の能力はフラットだと言えます。
私の記憶でもそうですが、ニュートン氏の本で被験者たちの全員が同じことを語って裏付けてくれています。
「全ての人生の選択は、魂が自分で行うものである」
と。
だから今の自分があるのは全て自分の責任。全てが自分の選んできた道。
したがって他人との能力の差を恨んだり、他人に嫉妬したりするのはおかしいということになります。
しかしここで疑問になるのは、魂のスタート時点ではどうだったんだろう? ということですね。
それらの人生を選択する一番始めのきっかけ、すなわち「魂の意思」はどこにあったのか。
経験を積んだ魂ならカルマの法則に従って来世を選ぶことになります。
転がるボールは、その転がる軌道上にある人生しか選ぶことができないのです。
そのため軌道は自動的に決まり、選択肢となる人生も二つか三つ程度に絞られるようです。
(ちなみにこの転がる軌道を変える力は、生まれている間にしか行使することができません。いわゆる「因果応報」とは、望まぬ軌道に流れたボールを修正するためのバランスとして加えられる力のことで、懲罰のことではありません)
では、転がる前のボールは?
スタート地点では何を基準に転がる方向を決めたのか?
この疑問に対する答えは一つのような気がします。
すなわち、「誕生時にすでに魂には個性がある」ということ。
能力の差ではなく、あくまでも個性の違いという意味ですが。
私がこの仮説に至ったのは占星術のホロスコープについて考えている時でした。
一般的に「性格」とされている太陽の星座は今世の生き方を示すに過ぎず、これは地上に限定された人格と言えます。ニュートン氏の被験者ふうに言えば、「魂 × 肉体」のうち肉体が太陽でしょう。
いっぽう本質的な個性(アイデンティティ)を表わすのは、アセンダント星座です。この本質は幾重にも覆われた外的性格の下に隠されていて、最もプライベートな時にしか表れません。たまに本人も気付かない「癖」として現れるため、「第一印象」と読み間違えることがあります。
ニュートン氏の被験者たちも語るように、魂の個性はスピリット世界で対面して初めて理解されるほど、見抜くのが難しいようです。地上では魂の本質と違う肉体(太陽)を選び、その肉体をうまく乗りこなしている人も数多く存在します。
さて、このアセンダント星座=魂の性格は、長い転生の間に変化するのでしょうか?
私はずっと「長期のうちに変化するのでは」と思っていたのですが、占星術の理屈から考えるとどうもそうではない。
「アセンダント星座は魂の製造番号を表わす」と言われるように、少なくとも星座は変化することはないのではないか? (同じ星座の中で度数は行き来することがあっても星座は変わらない)
関連記事: 魂は3の中和で消える。個のホロスコープのゴール
この仮説を裏付ける話をニュートン氏の本で発見し、腑に落ちると同時に複雑な想いとなりました。
魂が「根元」と思われる卵のようなエネルギーから分離する、つまり魂が誕生する瞬間に立ち会う専門家の話:
新しい魂を抱くと彼らのアイデンティティが何となく分かります。栄養を与えるためにエネルギーを結びつければ、彼らの個性がさらにはっきりと見えてきます。これらすべてが始まりに不可欠な要素なのです。驚きです。受け入れるのにちょっと抵抗がありますが、魂は根元(源泉)から分離したその瞬間にすでに「個性」があると証言されています。そしてその個性は魂が根元に戻る時まで変わらないと言います。
どんな魂もそれぞれユニークで、一つとして同じ魂はありません!
ニュートン氏はこの理由について次のように語っています。
一つひとつの魂に個性がある基本的理由の一つは、「源泉」が魂を作るためにエネルギー小片を「放出」すると、残りの集合体はごくわずかですが変化して、以前とはまったく同一ではなくなるからです。つまり「源泉」はけっして双子を生まない聖なる母のようなものなのです。と言うことは、我々の魂が転がる方向は、生まれた時点である程度決まっているということです。
もちろん自由意思によって選択し、経験を積んでいく過程で魂は大きく成長し、「個性」の上に重なる新しい性質があると思います。
しかし最終的に何者になるかという方向性は、最初の時点で決まっているのかもしれません。
この方向性を大きく分類したのが、占星術で「製造番号を表わす」と呼ばれるところのアセンダント星座でしょうか。
(たったの12分類では、二つとして同じ魂はないはずの魂の個性を表わすには少な過ぎますがね。もしかしたら、その分類は最終的に到達する専門分野を表わしているのかもしれない)
つまり、少しがっかりすることですが、
「我々は何度転生してもアセンダントにおいては他の星座には行けない」
ということになります。
惑星によって他の星座を経験することはあっても、他者になることは不可能だし、それは望むべき最終目標ではないわけです。
【引用】死後の世界を知ると人生は深く癒される

仏教を齧ったことのある東洋系のインテリ※は、輪廻転生を懲罰であるかのように教えられるため、個性を保ったままでの転生に恐怖を覚え忌み嫌います。
特に現代人は何でもショートカットを望みますので、現代の東洋インテリは
「我々は死んだら即、根元と同化して個性は無となるのだ」
などと釈迦レベルのことを恥ずかしげもなく主張する人が多いように感じます。
しかし残念ながら個性を保った転生は、現実にあるようです。
我々はまだまだ釈迦レベルにはとうてい及ばない。
そう考えて謙虚な心で現世という修行に励む必要があります。
(推測ですが、釈迦ですら根元と同化までは行っていないと思います。ニュートン氏の被験者たちが語るように、最高でもレベルⅤと呼ばれるマスター見習いの魂しか地上に降りて来ないのです。と言うことは釈迦もおそらくまだ根元に同化する段階に行っておらず、スピリット界でマスターとして役目を果たしていることでしょう)
究極的に言えば、我々は一つ。衆生は同じ。これは最終の真実です。
「死即悟り」という考えにすがりつく人たちは少し気が短か過ぎ、いきなり最終地点に到達できなければ我慢ならないと思い過ぎなのです。
個を失う地点に到達するには気が遠くなるほど長いから、おこがましい考えは棄てて、個の責任において一生ずつ大切に生きていくべきなのだと思います。
※「仏教を齧ったことのある東洋系インテリ」とは、かつての自分も含まれています。私も17歳の時に自分で前世記憶を思い出すまでは、仏教系の本を読んだだけで真理が分かったようなつもりになり、「死即無」の考えにしがみついていました。
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