2016
Feb
28
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再び、悪が存在するかどうかについて
前記事を踏まえたうえで、“悪の個性”を持つ魂があるのかどうか考えてみたいと思います。
(他記事と矛盾するところや繰り返しになる部分があると思いますが、今時点の考えをメモしているだけなのでご容赦を)
前記事では、「魂には誕生時点ですでに個性がある」という話を書きました。
これは私の仮説でしたが、ニュートン氏の被験者たちが裏付けてくれています。
ところで、もし「魂には誕生時点ですでに個性がある」のだとしたら、こうも言えないでしょうか。
「悪さをする魂は、始めからその可能性を持って生まれてきている」と。
こう言わなければ、ニュートン氏の被験者たちの証言と矛盾するのですがね。
何故かここだけニュートン氏は、「生まれついて悪という魂は存在しない」と主張して譲りません。被験者たちの話にも「魂には本質からの悪はない」という表現があるにはあるのですが……。
もちろん私も、何度も書いている通りキリスト教徒たちが口にする伝説上の「悪魔」など存在しないと思います。
そもそも「悪」という定義は地上に限定されるものです。地上において他人に積極的な危害を及ぼす者を「悪人」と呼ぶだけのことで、相対的な定義ですから、本質的な悪は存在しないと言っても過言ではありません。「善」も同様です。
ただ、
「他者に危害を及ぼす」
人生を繰り返す魂というものはやはり存在していると私は感じます。
もしこの魂が「修正」や「改変」の手を逃れ、悪の世界に閉じ篭って発達していけば、それは客観的に見て「悪魔」と呼ばれる高度な存在に成長するのではないでしょうか? 「天使」と呼ばれるレベルⅤ以上の魂の対極として。
※ここで私が「高度」と言うのは、陽陰軸においてゼロ点からの距離が離れていることを差します。対極にあるだけで次元としては同等のため高度と言っています
つまり最初はゼロ点からスタートしたとしても、人生を重ねていくうえで逆方向に転がってしまう魂があるのではということです。
繰り返しますが、そう考えるのが陰陽の法則に照らして筋が通ります。
いっぽうだけ存在するとして他方を無と考えるのはバランスが悪いのです。
この件についてシルバー・バーチはどう語っているのか。
ご紹介いただいたページから引用してみます。
善を求め悪を憎むキリスト教徒に向けて語っている言葉なので、ちょっと分かりづらい気がします。
東洋(陰陽)思想をベースに読み解いたほうが、もう少し理解できるかな。
バーチは、「悪が存在しない」とは言っていませんね。
むしろ「善と悪の双方が揃わなくてはならない」と言っています。
バーチが言う通り善も悪も人間が考えた概念。地上における相対的な定義です。
本質としての善悪などはないということです。
ただ地上に近い位置(スピリット界も含む)においては悪の次元が存在していて、善悪の二極が世界を作り上げていることは確かです。
悪(陰)と善(陽)、どちらの世界で高次元を目指すかは、もしかしたら魂の誕生時に転がり始めたボールの方向で決まるのかもしれません。
途中で方向を変えることも可能でしょうが、個性によっては難しいこともありそうです。
もし悪さを重ねる個性として生まれついたなら不幸だなと思ってしまいますが、そう思うのもこちら側からの一方的な見方に過ぎず、向こう側はこちらを「不幸な奴らだ」と思っていることでしょう。
で、私が「悪が存在する」と主張して何が言いたいのかというと、「悪と戦え!」と言いたいわけではありません。
悪魔が存在すると言って脅迫したいわけでもありません(笑)。
まして、無理をして自分の中に悪を備えるため、悪いことをすべきだなどとは言いません。
ただ、「陰と陽ともに存在するのが真実だから受け止めるべきでは」、と思っているだけです。
陰も陽も存在すると受け止めるのが、中庸だと思います。
自分の中に悪を発見することだけが中庸のバランスではなく、対極の存在を受け止めるだけでいい気がします。
対極はやがて離れて行きます。
(あるいは、存在を認めたが故に消化されて意識されなくなるのか)
この二極が消滅するときが、世界の終わりです。
(他記事と矛盾するところや繰り返しになる部分があると思いますが、今時点の考えをメモしているだけなのでご容赦を)
前記事では、「魂には誕生時点ですでに個性がある」という話を書きました。
これは私の仮説でしたが、ニュートン氏の被験者たちが裏付けてくれています。
ところで、もし「魂には誕生時点ですでに個性がある」のだとしたら、こうも言えないでしょうか。
「悪さをする魂は、始めからその可能性を持って生まれてきている」と。
こう言わなければ、ニュートン氏の被験者たちの証言と矛盾するのですがね。
何故かここだけニュートン氏は、「生まれついて悪という魂は存在しない」と主張して譲りません。被験者たちの話にも「魂には本質からの悪はない」という表現があるにはあるのですが……。
もちろん私も、何度も書いている通りキリスト教徒たちが口にする伝説上の「悪魔」など存在しないと思います。
そもそも「悪」という定義は地上に限定されるものです。地上において他人に積極的な危害を及ぼす者を「悪人」と呼ぶだけのことで、相対的な定義ですから、本質的な悪は存在しないと言っても過言ではありません。「善」も同様です。
ただ、
「他者に危害を及ぼす」
人生を繰り返す魂というものはやはり存在していると私は感じます。
もしこの魂が「修正」や「改変」の手を逃れ、悪の世界に閉じ篭って発達していけば、それは客観的に見て「悪魔」と呼ばれる高度な存在に成長するのではないでしょうか? 「天使」と呼ばれるレベルⅤ以上の魂の対極として。
※ここで私が「高度」と言うのは、陽陰軸においてゼロ点からの距離が離れていることを差します。対極にあるだけで次元としては同等のため高度と言っています
つまり最初はゼロ点からスタートしたとしても、人生を重ねていくうえで逆方向に転がってしまう魂があるのではということです。
繰り返しますが、そう考えるのが陰陽の法則に照らして筋が通ります。
いっぽうだけ存在するとして他方を無と考えるのはバランスが悪いのです。
この件についてシルバー・バーチはどう語っているのか。
ご紹介いただいたページから引用してみます。
自分たちからみて悪と思えるものを何とか片付けるためにはそういうものを発明しなければならなかったのです。悪も進化の過程の一翼を担っております。改善と成長--絶え間なく向上せんとする過程の一つなのです。人間にとって悪に思え苦痛に思えるものも進化の計画に組み込まれた要素なのです。/改めるべき間違い、闘うべき不正が在存しなければ、人間の霊はどうやって成長するのでしょう
進化の階段を登れば登るほど、改めるべきものを意識するようになるものだからです。/向上の道に終点はありません。無限に続くのです。それぞれの段階がそれまでの低い段階への勝利の指標にすぎません。/人生は一本調子(モノトーン)ではありません。光と陰/善と悪の双方が揃(ソロ)わなくてはなりません。人生はそうした比較対照を通じてのみ理解できるものだからです。闘争を通して、奮闘を通して、逆境の克服を通してはじめて、神性を宿した人間の霊が芽を出し、潜在するさまざまな可能性が発揮されるのです。そういう摂理になっているのです。意味深ですね。
http://www.paperbirch.com/silverbirch5/silverbirch5-9.htmlより
善を求め悪を憎むキリスト教徒に向けて語っている言葉なので、ちょっと分かりづらい気がします。
東洋(陰陽)思想をベースに読み解いたほうが、もう少し理解できるかな。
バーチは、「悪が存在しない」とは言っていませんね。
むしろ「善と悪の双方が揃わなくてはならない」と言っています。
バーチが言う通り善も悪も人間が考えた概念。地上における相対的な定義です。
本質としての善悪などはないということです。
ただ地上に近い位置(スピリット界も含む)においては悪の次元が存在していて、善悪の二極が世界を作り上げていることは確かです。
悪(陰)と善(陽)、どちらの世界で高次元を目指すかは、もしかしたら魂の誕生時に転がり始めたボールの方向で決まるのかもしれません。
途中で方向を変えることも可能でしょうが、個性によっては難しいこともありそうです。
もし悪さを重ねる個性として生まれついたなら不幸だなと思ってしまいますが、そう思うのもこちら側からの一方的な見方に過ぎず、向こう側はこちらを「不幸な奴らだ」と思っていることでしょう。
で、私が「悪が存在する」と主張して何が言いたいのかというと、「悪と戦え!」と言いたいわけではありません。
悪魔が存在すると言って脅迫したいわけでもありません(笑)。
まして、無理をして自分の中に悪を備えるため、悪いことをすべきだなどとは言いません。
ただ、「陰と陽ともに存在するのが真実だから受け止めるべきでは」、と思っているだけです。
陰も陽も存在すると受け止めるのが、中庸だと思います。
自分の中に悪を発見することだけが中庸のバランスではなく、対極の存在を受け止めるだけでいい気がします。
対極はやがて離れて行きます。
(あるいは、存在を認めたが故に消化されて意識されなくなるのか)
この二極が消滅するときが、世界の終わりです。
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