我傍的な話(裏話・実話を絡めた歴史空想話)

    有隣(我傍UPしながら回想すること)

    『我傍に立つ』をKindleにUPするために読み直していたのですが、離れた目で見ると最後のほうはやはり何かにとり憑かれているというか、前世そのままの気持ちに完全に戻って書いていましたね。

    重苦しく地の底を這うような苦悩とともに、国民への愛と圧倒的な仲間たちの愛が蘇り、再び激しく泣いてしまいました。

    (自分で自分の書いたものを読み返して「泣く」ということは、日本では物凄く軽蔑されており非難されてしまうのですが、私の場合は単に思い出を記録しているだけのことです。つまり、当時の写真を見て、思い出の場面そのものを再生して泣いていることと同じです。決して自分の技巧に酔って泣いているわけではないので誤解なきよう)


    考えてみれば、私は執筆以降にあれを読み直したことなどほとんどなかったのです。2006年に少しだけ修正するため読み返したくらい。

    心のエネルギーを消耗してしまうため、なるべくあの頃のイメージに戻りたくなくて、ずっと読み返すことを避けてきました。
    しかし今回、読み返して思いました。
    たまに振り返らないと自分がダメになっていまいますね。

    現代生活の孤独と荒んだ社会に擦り切れて、自分は再び何もかも忘れてしまっていたのだと気付かされました。

    皆様もきっと思うことでしょうが、あんな時代を通ってきたのに私が現代でこのような体たらくで、無為に生きていることは理屈が通らないと思えるくらい信じ難いことです。
    我ながら、「何やってんだろ」と自分を責めたくなります。

    しかしこの現代、目指すべき志がないのもまた事実です。
    「腐った平和」とはよく言ったもので、前世であれほど心から望んだ平和を今この地で経験してみると、人々は甘えて本質を見失ってしまい、くだらない欲望に耽溺してどんどん知性と精神レベルを低下させている。
    こんな人たちのために何も一所懸命にやる気が起きない。

    私が前世で憎んだ「知識至上主義者」、若い皇帝にまとわりついた取り巻きたちと同じ種類の人々は、今この世界で圧倒的な多勢となってしまったように思います。

    自分が今この地で孤独なのは、ほとんどの人が私の最も嫌いな人種だからです。

    「義」が何であるのか理解せず、屁理屈をこねて自分の我がままだけ貪り、他人を蹴落とすことに夢中で他人の陰口ばかりたたいている。
    上を見ては嫉妬して足を引っ張り、下を見ては嘲笑して自慰している。

    腐った精神、汚れきったゴミ溜めに喜んで棲む人々。

    この人たちを眺めていると気力が失われ、何をやっても無意味と思えてくる。


    ……しかしそんな愚痴を言ってはならないのでしょう。
    同じ孤独に喘いでいる人たちはきっと今の時代に存在している、と信じます。

    遠くに存在するあなた方のために、自分もたまにあの頃のことを思い出さねば、と思います。

    「遠くに存在するが志を同じくする人々」、これを「有隣」と呼びます。
     ※有隣……「徳は孤ならず必ず隣(となり)あり」

    最も遥か遠くにいる友は、死んだ人々です。
    今は伴に生きていなくても、同じ志で一緒の時を過ごした人々は必ず遠くから見守っています。

    私もこのことをすぐ忘れてしまいます。

    私は彼らの存在を思い出すためにも、これから度々、自分の過去の写真である文章を読み返していかなければと思います。
    関連記事

    2015年~カウント: