~について(基本的な考え方)

    求、「破・資本論」

    中田敦彦がカール・マルクスと『資本論』について、子供にも分かりやすく教えた本日の『しくじり先生』は稀に見る名番組でした。
    奥さんは「日本国は(教育の機会で)完全平等」などというトンチンカンなことを仰っていたが、旦那のほうはさすがだね。まあ、あの講義の脚本を誰が構成したのかは分からないけど簡潔で素晴らしかった。

    でも番組中、高校生はともかくいい大人である出演者たちが「ソ連は何故崩壊したか? わからない」と言ったり大飢饉の話などを「えー、まさかそんなことあったの? 知らなかったあ」と驚いているのを眺め暗澹たる気持ちになりました。
    演出はあると思うのでどこまで本気で知らなかったのか分からないが(特にISSAはヤンキー役がステレオタイプ過ぎて怪しい)、確かに周りの30代~50代にはあんな反応をする人が多い。
    私もこの間、コンビニで『超訳・資本論』を見かけた60歳の上司に「『資本論』って何?」と聞かれてちょっと戸惑った……。
    つまり番組に多少の演出はあったにしても、あれが日本人の「平均的な」人々であることは事実と思います。
    そこまで知識がないと、上の番組でシミュレーションされた通り詐欺師の言葉を信じて目をキラキラさせ、「なんて素晴らしい思想なんだ!」と中毒してしまいかねません。

    そう言う私も『資本論』は読んでいないです。
    魂が穢れる気がしてついに読めなかった。
    (同じ理由でヒトラー『我が闘争』も読んでいない)
    【詳細】 私は「読めない本」が意外と多いという話
    ただ『共産党宣言』を少し読み、これは世界が中毒するはずだと理解したことはあります。
    理想で輝いている。だからこそ心の底から本当に恐ろしい。

    私は、現代中国の悲惨やソ連崩壊を目の当たりにした世代であるため共産主義を嫌悪しているのですが、もし百年早く生まれていたらまずかったかなぁと想像しています。きっとあの書物に中毒して取り込まれていたのではないでしょうか?

    腹立たしいのは、共産主義にちょっと古代中国思想(墨子)の匂いがするところですね。
    つまり古代思想の匂いを焚き込めて、残り香を漂わせている気がするのです。だからこそ中毒する人が出て当然。
    毛沢東はそのことをよく理解して利用し、国民に誤解させて浸透させてしまいました。
    マルクスが東洋思想を知っていたのかどうか疑問ながら、古代思想の残り香は中国の人々にとって大変な悲劇だったと思います。

    これによって現代でも、古代中国思想に触れた人は反射的に共産主義を連想してしまう(古代思想と共産主義がイコールだと誤解してしまう)、という不幸な結果をもたらしています。
    毛沢東の若い頃の理想が何であったにせよ、結果として世界にこれだけの誤解を植え付けたことについては本当に許せないなと思ってしまいます。


    それにしても昔から思っていましたが、
    「実行したら100%国民が不幸になり、100%独裁者を生み、100%虐殺国家になる」
    という共産主義というシステムが誕生したことが私には不思議に思います。

    実行したら間違いなく同じ結果をもたらすという完璧なシステムが存在することは、悪い意味で奇跡ではありませんか?
    100%と言えることなどほとんどない、不確定なこの地上において。

    これの真逆のシステムが生まれたら素敵なのに、と常々夢想します。
    つまり100%同じ結果をもたらした共産主義のように確実に、100%国民が幸せになるシステムがあればいいのに、と。

    どうして悪魔のシステムだけは完璧に間違いなく実行され、その逆は叶わないのでしょうか。
    不思議ですね。

    人類は悪いことだけ実行できて、良いことは実行できないのか。
    つまり人はどうしても悪に傾いてしまうということ。
    上の番組で語られた通り、人間は本当に不完全な生き物で、弱くてもろいんだなあと思います。




    上の番組は、
    「続・資本論を誰か書いて欲しい」
    という結論で占められていました。
    (つまり、マルクスは理想国家を建設するところで本を書き終えてしまったので、その具体的な国家運営の方法を書く天才が表れて欲しいということ)

    私は、「反・資本論」あるいは「破・資本論」が必要と思います。【誤解を受けそうな表現を正確なものに修正】

    しかし、そういう理想を抱くこともまた危険なのでしょう。

    私の好きな言葉の一つに
    絶望は虚妄だ。希望がそうであるように
    があります。
    魯迅の言葉として有名となりましたが、実際は魯迅が引用した詩人ペティフィ・シャンドルの言葉です。

    彼の言葉は、中庸に近い気がするのです。
    もちろん中庸そのものではないけど、極端に走って思考麻痺しがちな人たちに冷や水を浴びせる気付け薬のような言葉です。

    上の言葉通り。
    絶望に中毒してはならないが、希望だけに中毒してもならない。
    完璧なる両極があると妄想するのは無意味で危険。
    もし理想に近づきたいなら、一歩ずつ、不断の歩みをするしかないのだと思います。


    二十世紀の人たちは幼稚で極端に走りがちでした。
    二十一世紀の我々はさらに幼稚になり、一点しか見ることのできないバカが増えているようです。(たとえば憲法で言えば、九条のことしか考えられない・それしか読んだことがなく憲法が何たるかの基礎知識もないといったような人たち)

    極端に走るのはそれが思考の力を必要とせず、ラクだからでしょう。
    思考する能力がないから、一点しか見ることができない。
    140字の短文やブログの一文だけ見て、思考せず反射的に誹謗中傷する癖が人間の劣化に拍車をかけている。

    現代の人たちは「中庸は何も思想がないことと同義。バカによるバカの思想である」と言うのですが、全人類の全てが左か右に完全に属していなければならないと主張するのは不可解です。紅白の帽子をかぶらなければ何も語れず、何も行動できず、何も理解できないのか。
    たぶん中庸がどれだけ高度な思考力が必要なものか分かっていないのだと思いますね。バカほど他人をバカにする。つまり、思考しない人たちにはバランスを取ろうとする速い動きが見えないので「中間」=「停止」と見えてしまう。本来、極端に留まるのが停止であるのに。

    もし多くの人を幸福にするシステムがあるとすれば、この中庸に戻るものになるでしょう。
    と言うことは共産主義ほど単純ではなく、かなり高度な技術を要し、実行が困難なシステムとなるはずです。

    具体的に模範となりそうなのは、それこそ古代の管仲とか、徳川家康の施策ですかね。
    派手さはないが、一つ一つの政策に心を配り全体としてバランスを取っていこうとするような。


    私が思うに、人の世界に平等などありません。
    人それぞれ魂の歴史というものがあるから、一生のみの地上に生まれた時点のスタートで平らにならしていこうとするのは不自然だし、むしろ不公平を生みます。
    しかしせめて、生まれた後の努力に対しては正当な評価が与えられる世の中になるべきと思います。
    生まれつきの身分や両親の財力によって、どんなに努力しても評価されずに人生を潰される。こんな現代日本のような不平等があっては共産主義と同じになり、誰もがヤル気を失って努力しない世の中になります。国家衰退、国家滅亡は必至です。

    我々が望むべき理想国家とは極端な平等のある国ではなく、ただごく当然に、罪ある者が裁かれ・罪なき者が救われ・努力に対する正当な評価が与えられるという世の中ではないでしょうか。

    【追記】その後…「破・資本論」ではありませんが、共産主義の構造を本質から読んでみました。(別館) kyosan.png
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