2016
May
11
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転生による魂エネルギーの違い、人格の共通項とは?
前記事『前世との「共通項」の見方、転生の「流れ」とは 』へ補足。
これもニュートン氏の本よれば、魂は地上に生まれる時にエネルギーを何%持って来るかその都度決定するそうです。
この持って来たエネルギーの量によって、現世における能力が変わると思います。
たとえば私の場合で言うと、今の人生へ持って来ているエネルギーは少ないはずです。だからこれだけ低スペックなのだ、
……と全力で言い訳しておくとして(笑)。
私は個人的に、能力は肉体のスペックにも依存すると感じています。
そもそも、根本的な「能力とは何か」という定義が難しいですね。
魂が持つ能力にまで話を持って行くとすれば、その定義は非常に難解になります。
地上に限定するなら、単に肉体スペックその他で現出している能力を数値化すれば良いだけのことです。しかし魂レベルでは地上で目に見えている数値だけが能力なのではありません。クラウドに置いて来ているファイルの全てが経験値であり、能力に組み入れられる要素です。
従って、地上で能力を数値化してああだこうだと比べあうことには、何の意味もないということになります。
結局、「能力とは何か」――と言うと、経験値であると言えます。
むしろ経験値が全て。
何度も書くように、全ての魂は、魂の出生時において能力に差はありません。
現世の出生時点であたかも差があるかのように見えるのは、ただ過去生での経験値が高いか・低いかの違いだけです。
(魂によって学習スピードに多少の違いはあるようですが、それも長い目で見ればほんの僅かの違いでしかない)
もう一つ、分かりづらいのは「人格の共通項」の判断です。
これは曖昧なので人によって判断が異なると思います。特に表面的な個性しか見えない他人には分かりづらい。
私もそうですが、魂は生まれる地によって新たな経験を積んでその地の文化・言語感覚を刻んでいきます。
このため、たとえば私が現代日本語を駆使し、カタカナ語などを使っただけで
「お前は古代人のわけがない!」
とか
「イメージ全然違う」
などと言って否定してくる人がいます。これはお門違い。
まさか現代日本で、古代の言語を使って生きていくわけにいきませんから当然のことですね。
(もちろんフィクションの知識しかないのに「イメージ違う」などと言って来る人は話になりません。せめて現実を学んでから物を言って欲しい)
人格の共通項とはそのような表面的なことではありません。
もっと根本的なものです。
結局のところ、人格の共通項も最終的には自分しか分からないことなのかもしれない。
今、過去の自分の記録らしきものを発見して判断に悩んでいる人がいたら、このような基準で考えてみてください。※あくまでも記憶があり、その記憶と記録が一致していることが前提です
【記録上、一つでも「自分ならそうしない」と反発を覚える行為を見つけたらそれは自分の前世ではない】
と。
私の場合で言えば、どれほど共感する有名人や歴史人物でも、必ず少しは反発を覚える部分があります。
たとえば若干のシンパシーを感じている、吉田松陰。秋山真之。等々……も、「あの考え方は受け入れられない」「ここは自分とは正反対」という部分がたくさんあります。
また現世で、どれほど仲が良くて考え方が似通っているように見える人でも、反発する部分は必ずあります。どれほど尊敬している先生でも同様。
私が特別に潔癖なせいなのかもしれませんが、他人であれば絶対に一つや二つ、相容れない考え方というものがあるのです。
ところが、私が自分の前世ではないかと考えている人物に関しては、どれほど記録を漁ってもただの一つも反発や違和感を覚える記録が出て来ない。(偽の記録と考えられる記録以外では)
「うわー 穴があったら入りたい!」という恥ずかしさ、「これはダメだろ」と徹底批判(徹底反省)したくなる部分はあるのですが、その代わりとして「自分だったらそんなことをしない」と反発心を覚える部分がないわけです。
「どうして?」と疑問を抱くような、理解が及ばない行動もない。
(客観的な目で、嫌だな最低だなと感じるエピソードも全て「自分ならやりかねない」「言いかねない」と反省材料になっている)
これは潔癖な自分としては本当に異常なことだと思っています。
不思議なもので、これだけ地上には多数の人間が生まれているのに、人格は唯一無二です。
時代ごとの装いとして表面を覆ったイメージを剥いでいった根の部分に、どうしても変わらない個性があります。
もし記録で裏付けられる記憶を持ったうえで、完璧に違和感を覚えない人物を過去に見つけたとしたら、それはあなたの前世かもしれません。
または、自分自身を映し出す完璧な「運命の鏡」と言えます。
いずれにしてもその人物と巡り合ったことは幸運です。現在の人生が豊かになることを保証します。
これもニュートン氏の本よれば、魂は地上に生まれる時にエネルギーを何%持って来るかその都度決定するそうです。
この持って来たエネルギーの量によって、現世における能力が変わると思います。
たとえば私の場合で言うと、今の人生へ持って来ているエネルギーは少ないはずです。だからこれだけ低スペックなのだ、
……と全力で言い訳しておくとして(笑)。
私は個人的に、能力は肉体のスペックにも依存すると感じています。
そもそも、根本的な「能力とは何か」という定義が難しいですね。
魂が持つ能力にまで話を持って行くとすれば、その定義は非常に難解になります。
地上に限定するなら、単に肉体スペックその他で現出している能力を数値化すれば良いだけのことです。しかし魂レベルでは地上で目に見えている数値だけが能力なのではありません。クラウドに置いて来ているファイルの全てが経験値であり、能力に組み入れられる要素です。
従って、地上で能力を数値化してああだこうだと比べあうことには、何の意味もないということになります。
結局、「能力とは何か」――と言うと、経験値であると言えます。
むしろ経験値が全て。
何度も書くように、全ての魂は、魂の出生時において能力に差はありません。
現世の出生時点であたかも差があるかのように見えるのは、ただ過去生での経験値が高いか・低いかの違いだけです。
(魂によって学習スピードに多少の違いはあるようですが、それも長い目で見ればほんの僅かの違いでしかない)
もう一つ、分かりづらいのは「人格の共通項」の判断です。
これは曖昧なので人によって判断が異なると思います。特に表面的な個性しか見えない他人には分かりづらい。
私もそうですが、魂は生まれる地によって新たな経験を積んでその地の文化・言語感覚を刻んでいきます。
このため、たとえば私が現代日本語を駆使し、カタカナ語などを使っただけで
「お前は古代人のわけがない!」
とか
「イメージ全然違う」
などと言って否定してくる人がいます。これはお門違い。
まさか現代日本で、古代の言語を使って生きていくわけにいきませんから当然のことですね。
(もちろんフィクションの知識しかないのに「イメージ違う」などと言って来る人は話になりません。せめて現実を学んでから物を言って欲しい)
人格の共通項とはそのような表面的なことではありません。
もっと根本的なものです。
結局のところ、人格の共通項も最終的には自分しか分からないことなのかもしれない。
今、過去の自分の記録らしきものを発見して判断に悩んでいる人がいたら、このような基準で考えてみてください。※あくまでも記憶があり、その記憶と記録が一致していることが前提です
【記録上、一つでも「自分ならそうしない」と反発を覚える行為を見つけたらそれは自分の前世ではない】
と。
私の場合で言えば、どれほど共感する有名人や歴史人物でも、必ず少しは反発を覚える部分があります。
たとえば若干のシンパシーを感じている、吉田松陰。秋山真之。等々……も、「あの考え方は受け入れられない」「ここは自分とは正反対」という部分がたくさんあります。
また現世で、どれほど仲が良くて考え方が似通っているように見える人でも、反発する部分は必ずあります。どれほど尊敬している先生でも同様。
私が特別に潔癖なせいなのかもしれませんが、他人であれば絶対に一つや二つ、相容れない考え方というものがあるのです。
ところが、私が自分の前世ではないかと考えている人物に関しては、どれほど記録を漁ってもただの一つも反発や違和感を覚える記録が出て来ない。(偽の記録と考えられる記録以外では)
「うわー 穴があったら入りたい!」という恥ずかしさ、「これはダメだろ」と徹底批判(徹底反省)したくなる部分はあるのですが、その代わりとして「自分だったらそんなことをしない」と反発心を覚える部分がないわけです。
「どうして?」と疑問を抱くような、理解が及ばない行動もない。
(客観的な目で、嫌だな最低だなと感じるエピソードも全て「自分ならやりかねない」「言いかねない」と反省材料になっている)
これは潔癖な自分としては本当に異常なことだと思っています。
不思議なもので、これだけ地上には多数の人間が生まれているのに、人格は唯一無二です。
時代ごとの装いとして表面を覆ったイメージを剥いでいった根の部分に、どうしても変わらない個性があります。
もし記録で裏付けられる記憶を持ったうえで、完璧に違和感を覚えない人物を過去に見つけたとしたら、それはあなたの前世かもしれません。
または、自分自身を映し出す完璧な「運命の鏡」と言えます。
いずれにしてもその人物と巡り合ったことは幸運です。現在の人生が豊かになることを保証します。
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