諏訪緑先生の『時の地平線』の中で、主人公が
「この時代に生まれてくるな。迷惑だ」
と言われるシーンがあります。
誰かのセリフとして書かれていたのだったか、天の声として挿入されていたのだったか私の記憶は定かではないのですが、非常に印象的なセリフでした。
「この時代に生まれてくるな、迷惑」
と言うのは、主人公がその時代に生まれたためにひどい戦争が起きて、人々はその個人が起こした災害に“巻き込まれてしまっただけ”なのだという設定が前提にあります。
あくまでフィクションとして描かれているので作者が現実の歴史がそうだったと主張しているわけではないでしょう。
ただ現実に引き寄せて考えますと、上のような思想を私はあまり好みません。
(好みの問題です。作品批判ではありませんので、念のため)
誰か有名な人物がたった一人で「社会計画」のシナリオを打ち立て、一人ないしは数人で社会を動かしていき、他の無名な人々は全て「巻き込まれるだけ」。
それほど無名な集団は無力なのでしょうか。
一般人は小さな駒として動かされるだけ、「巻き込まれ」たり「救済される」だけの、著名人たちの所有物なのでしょうか。
今から100年ほど前にこのような考え方は世界中で大流行したと思います。
しかし結果はどうだったか?
確かに少人数が打ち立てた「社会計画」は世界中に渡り支持されました。その計画のもといくつもの国が建国された。
でも「社会計画」をそのまま実現させた国は皆無だったはず。今現在、原計画に忠実な形で残っている国も一国もないはずです。
この壮大な実験によって得られた結論は、一人だけの考えで社会を思い通りに動かすことなど不可能だということでした。
私が常々思うのは、人間社会において「巻き込まれるだけ」の無力な人は存在しないのではということ。
見た目には戦争という嵐に巻き込まれているように見えても、それは実はその個人の壮大な人生ストーリーの一幕に組み込まれていた運命だったのではないか、と思います。
「そこで死んだのはその人の運命。始めから決まっていたんだから諦めろ」
と、災害や犯罪に遭った人の遺族に対してよく言われます。
そうまで言ってしまうのは巻き込まれた人々に対してあまりに酷いし、真実でもないと私は思う。
ただ集団の運命を、誰かたった一人に押し付けるのだとしたらそれは違うと思うわけです。
戦争だと分かりやすいので例に挙げますが、
「戦争を起こした責任をA級戦犯だけに押し付けてハイ終わり」、
これはいけない。
戦争は特に集団が導いて、集団が起こすものです。誰が言い出したにしろ集団のエネルギーが一つの方向に動いた時に時代は初めて動く。たった一人の力で起きた戦争など歴史上、一度としてありませんしこの先もないでしょう。
運命とは、責任のことです。
過去に自分でやったことの果実を自分で引き受けることに他なりません。
時代は個人の運命(果実)と集団の運命(果実)が合流して動いて行くものです。
誰もが自分の運命で集団の運命を動かします。そして集団の運命とともに生きます。
誰にもその時代に生まれたことには必ず理由があり、運命を受け取り・新たな人生ストーリーを創り出していく責任があるはずです。
何故今こんな話を書いたかというと、災害という集団の運命にも何かしら個人の運命が関わっているのではないかと感じたからでした。
人生のアウトラインは生まれる前に自分で決定するのだと私は思います。
けれどそれはアウトラインに過ぎない。
決まりきった運命などありませんし、神から押し付けられた宿命なども普通はあり得ません。
時代の責任を誰か一人に押し付けるのではなく、自分で決定していると自覚出来たら。
避けようと決めたのなら、今後は避けられるはずと信じます。
※2019/3/23追記
「避けようと決めたのなら、今後は避けられるはず」――これは戦争という人災について述べたものであり、「解消すべきカルマ」の責を負うことを避けるのが可能だと述べているわけではありません。
カルマはエネルギーです。エネルギーは生じた限りは反対のエネルギーがなければ消滅しません。だから、引き寄せの法則などで「カルマなんて無い、運命なんて全く無い。願えば義務を避けることができる、大金持ちになって欲望を貪ることもできる」と教えるのは誤り。存在しないエネルギーを発生させるのは不可能ですし、存在するエネルギーを何の原因もなく消滅させることも不可能です。
ここで「運命は変えられる」「戦争は避けることができる」と言うのは、後から分割払いが選択できるというほどの意味です。
カルマそのものは変わらないのですが、どのように返していくかという「返済計画」だけは変更可能なのです。