2013
May
18
-
天照大神=卑弥呼?
今年は伊勢神宮の式年遷宮と、出雲大社の大遷宮が重なった年だそうで、日本の霊的なパワーが高まっているとのことです。
私は霊感はないのですが、昨年初めて伊勢神宮へお参りした際に尋常ではない清々しさを感じました。
スピリチュアル感性のない私でさえ感じられるのですから、日本の神は確かに存在するようです。
パワースポット巡りとして今年、伊勢や出雲へお参りするのは非常に良いでしょう。
ところで私と家族が伊勢神宮へお参りした時、(こんなことを書くのは大変におこがましいのですが)歓迎していただいた感覚を受けました。
内宮での神秘な体験については省きます。
あからさまだったのは天気です。ちょうど梅雨の時期に行ったので雨に降られることを覚悟していました。ところが去年は伊勢地方の梅雨が大幅に遅れ、私たちが全てのお参りを済ませて帰りの途についた時に雨が降って来て、「梅雨入り」となりました。
何度も書くように霊感がなく鈍い私なので、ものすごく分かりやすく歓迎していただいたような気がします。
もしそうだとすれば梅雨が遅れ、ご迷惑をおかけしました……。
(そんなわけないだろ! と一斉にお叱りを受けそうですが。しかし内宮にて歓迎された感覚があったのは確かです)
それで、以降
「もしかしたら伊勢の神は自分のルーツに関わる神様、たとえば先祖がお仕えした神様なのだろうか?」
などと気にするようになりました。
しかし私の家の先祖は代々仏教の坊主で、神道系とは関わりがなかったはずなのでそれもおかしいなと思いつつ。
そうして気にして読んでいたなかで発見したのが、
『天照大御神 = 卑弥呼』
という説です。
伊勢の神様が、卑弥呼!?
仰る意味が分からずバカバカしいと失笑しそうになりましたが、よく読んでみたら信憑性がありました。
『邪馬台国東遷説』によれば、『魏志倭人伝』に記された卑弥呼と天照大御神は次の点で一致しているとのこと。
以下、『歴史人』2013年6月号 P25より引用
ただこのなかで一点だけ、
>『古事記』にしばしば登場する「倭」の文字と『魏志倭人伝』で「卑弥呼は倭の女王」であることの関連性
について。
そもそも、「邪馬台国」や「卑弥呼」とは中国人がよくやる外国語の漢字表記です。
日本ではまだこの頃漢字は使われていなかったので、自ら「倭」などと表記していたとは思えず、単に音で外国人の使節に伝えたものと思います。
ですから
「倭」=ワ (「和」あるいは「輪」。周辺小国の民全体の繋がりを指す?)
「邪馬台国」= ヤマトコク (大和国。連合国の中心)
「卑弥呼」 = ヒメノミコト or ヒメミコ (姫倭命or姫巫女)
ではないかと私は思います。
『古事記』にこの字が出現するのは、魏人によって「倭」の漢字が充てられた後なのではないでしょうか。
(余談ですが私はあまりこの魏人が充てた「卑弥呼」「倭」「邪馬台」という漢字が好きではありません。漢民族特有の他民族に対する差別意識が感じられるからです。それを大和の人が取り入れたということは、その頃はまだあまり漢字についての知識が浸透していなかったことになるでしょう)
いずれにしろ大和朝廷が邪馬台国の後継、と言うか、邪馬台国そのものであることはもう否定しようのないことだと思います。
だとすれば、
「邪馬台国はどこにあったのか?」
議論は単に、
「魏の使節が来た時代に大和国の中心はどこにあったのか」
というだけの議論に過ぎなくなるでしょう。
『邪馬台国東遷説』によれば、もとは九州にあった大和国の中心は東に移り、奈良へ落ち着いたのだということです。
では、魏の使節はいつ来たか?
西暦換算すれば239年と、はっきり分かるわけなのですが、これを日本の年代に計算するのがややこしい。
日本の古代天皇の寿命というのは不自然に長く、伊勢神宮などの建立時代も不自然に大昔だから手がかりにならないと思われてきました。
ところが、
「古代には別の暦(一年を二年と数える)があったのではないか」
という考えで解決し、正確に計算できるようになったそうです。
この正確な年代計算で特定していくと、やはり『古事記』『日本書記』に登場する天照大御神の時代と、魏の使節が邪馬台国を訪れた時代が一致するようなのです。
ということは、天照大御神 = 卑弥呼 と考えることにほとんど抵抗しがたいように思われます。
ただこの卑弥呼という女王が現実に誰であったのか、に関しては証明が出来ず、議論の余地がありそうです。
今のところ有力なのは「桃太郎」の伝説とも関わりの深い女性権力者、
倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)
ではなかったかとする説です。
だとすると、魏の死者が訪れたのは既に東遷してから。
つまり記録にある「邪馬台国」は奈良にあった、ということになるでしょうか。
※倭迹迹日百襲媛命の墓とされる箸墓が奈良県にあるため
*
以上は雑誌で読んだ限りの話ですが、興味ある方は専門書などを漁ると面白いかもしれません。
「天照大御神 = 卑弥呼」
と考えてみると、私個人の身に起きた神秘現象も何だか全てが腑に落ちる気がします。
私は卑弥呼に憧れてこの地に生まれた、と自分で信じています。
何故なら、小学校の頃の社会科で、
「戦争を失くした奇跡の女王・卑弥呼」
の話を知った時は涙が止まらなかったからです。
大人になった今でも、卑弥呼に対する憧れは消えません。
その卑弥呼様と知らず、彼女が祭られている伊勢神宮へお参りしていたのか……。
つまり初めて、卑弥呼様とお会い出来たのか!
そう思うと感動です。
歓迎していただいたような気がしたのは、やはり気のせいではなかったのかもしれません。
この記事について
「天照大御神 = 卑弥呼」とする話は歴史学者の提唱する一説を参考にしたまでに過ぎません。
異論・反論は、私へ言われても困りますので、この説を提唱する学者の方へお願い致します。
私は霊感はないのですが、昨年初めて伊勢神宮へお参りした際に尋常ではない清々しさを感じました。
スピリチュアル感性のない私でさえ感じられるのですから、日本の神は確かに存在するようです。
パワースポット巡りとして今年、伊勢や出雲へお参りするのは非常に良いでしょう。
ところで私と家族が伊勢神宮へお参りした時、(こんなことを書くのは大変におこがましいのですが)歓迎していただいた感覚を受けました。
内宮での神秘な体験については省きます。
あからさまだったのは天気です。ちょうど梅雨の時期に行ったので雨に降られることを覚悟していました。ところが去年は伊勢地方の梅雨が大幅に遅れ、私たちが全てのお参りを済ませて帰りの途についた時に雨が降って来て、「梅雨入り」となりました。
何度も書くように霊感がなく鈍い私なので、ものすごく分かりやすく歓迎していただいたような気がします。
もしそうだとすれば梅雨が遅れ、ご迷惑をおかけしました……。
(そんなわけないだろ! と一斉にお叱りを受けそうですが。しかし内宮にて歓迎された感覚があったのは確かです)
それで、以降
「もしかしたら伊勢の神は自分のルーツに関わる神様、たとえば先祖がお仕えした神様なのだろうか?」
などと気にするようになりました。
しかし私の家の先祖は代々仏教の坊主で、神道系とは関わりがなかったはずなのでそれもおかしいなと思いつつ。
そうして気にして読んでいたなかで発見したのが、
『天照大御神 = 卑弥呼』
という説です。
伊勢の神様が、卑弥呼!?
仰る意味が分からずバカバカしいと失笑しそうになりましたが、よく読んでみたら信憑性がありました。
『邪馬台国東遷説』によれば、『魏志倭人伝』に記された卑弥呼と天照大御神は次の点で一致しているとのこと。
以下、『歴史人』2013年6月号 P25より引用
・女性であるこれだけ共通項が重なるのは偶然とは思えません。
・宗教的権威がある
・夫がいない
・弟がいる
・『古事記』に記述のある高木神と『魏志倭人伝』の「女王の言葉を伝えるために出入りしている男」が符合
・『古事記』にしばしば登場する「倭」の文字と『魏志倭人伝』で「卑弥呼は倭の女王」であることの関連性
・「大和朝廷の祖先の天照大御神」と「邪馬台国の卑弥呼」の「やまと」と「やまたい」の音が類似
・卑弥呼の宗女・台与にあたる人物を、日本の史書にも確認できる
・卑弥呼の死後の騒乱と思われる記述が古事記にある
ただこのなかで一点だけ、
>『古事記』にしばしば登場する「倭」の文字と『魏志倭人伝』で「卑弥呼は倭の女王」であることの関連性
について。
そもそも、「邪馬台国」や「卑弥呼」とは中国人がよくやる外国語の漢字表記です。
日本ではまだこの頃漢字は使われていなかったので、自ら「倭」などと表記していたとは思えず、単に音で外国人の使節に伝えたものと思います。
ですから
「倭」=ワ (「和」あるいは「輪」。周辺小国の民全体の繋がりを指す?)
「邪馬台国」= ヤマトコク (大和国。連合国の中心)
「卑弥呼」 = ヒメノミコト or ヒメミコ (姫倭命or姫巫女)
ではないかと私は思います。
『古事記』にこの字が出現するのは、魏人によって「倭」の漢字が充てられた後なのではないでしょうか。
(余談ですが私はあまりこの魏人が充てた「卑弥呼」「倭」「邪馬台」という漢字が好きではありません。漢民族特有の他民族に対する差別意識が感じられるからです。それを大和の人が取り入れたということは、その頃はまだあまり漢字についての知識が浸透していなかったことになるでしょう)
いずれにしろ大和朝廷が邪馬台国の後継、と言うか、邪馬台国そのものであることはもう否定しようのないことだと思います。
だとすれば、
「邪馬台国はどこにあったのか?」
議論は単に、
「魏の使節が来た時代に大和国の中心はどこにあったのか」
というだけの議論に過ぎなくなるでしょう。
『邪馬台国東遷説』によれば、もとは九州にあった大和国の中心は東に移り、奈良へ落ち着いたのだということです。
では、魏の使節はいつ来たか?
西暦換算すれば239年と、はっきり分かるわけなのですが、これを日本の年代に計算するのがややこしい。
日本の古代天皇の寿命というのは不自然に長く、伊勢神宮などの建立時代も不自然に大昔だから手がかりにならないと思われてきました。
ところが、
「古代には別の暦(一年を二年と数える)があったのではないか」
という考えで解決し、正確に計算できるようになったそうです。
この正確な年代計算で特定していくと、やはり『古事記』『日本書記』に登場する天照大御神の時代と、魏の使節が邪馬台国を訪れた時代が一致するようなのです。
ということは、天照大御神 = 卑弥呼 と考えることにほとんど抵抗しがたいように思われます。
ただこの卑弥呼という女王が現実に誰であったのか、に関しては証明が出来ず、議論の余地がありそうです。
今のところ有力なのは「桃太郎」の伝説とも関わりの深い女性権力者、
倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)
ではなかったかとする説です。
だとすると、魏の死者が訪れたのは既に東遷してから。
つまり記録にある「邪馬台国」は奈良にあった、ということになるでしょうか。
※倭迹迹日百襲媛命の墓とされる箸墓が奈良県にあるため
*
以上は雑誌で読んだ限りの話ですが、興味ある方は専門書などを漁ると面白いかもしれません。
「天照大御神 = 卑弥呼」
と考えてみると、私個人の身に起きた神秘現象も何だか全てが腑に落ちる気がします。
私は卑弥呼に憧れてこの地に生まれた、と自分で信じています。
何故なら、小学校の頃の社会科で、
「戦争を失くした奇跡の女王・卑弥呼」
の話を知った時は涙が止まらなかったからです。
大人になった今でも、卑弥呼に対する憧れは消えません。
その卑弥呼様と知らず、彼女が祭られている伊勢神宮へお参りしていたのか……。
つまり初めて、卑弥呼様とお会い出来たのか!
そう思うと感動です。
歓迎していただいたような気がしたのは、やはり気のせいではなかったのかもしれません。
この記事について
「天照大御神 = 卑弥呼」とする話は歴史学者の提唱する一説を参考にしたまでに過ぎません。
異論・反論は、私へ言われても困りますので、この説を提唱する学者の方へお願い致します。
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