2014
Nov
18
-
雑談。現実に生きるべきか、星読みに生きるべきか
そろそろ仕事に本腰を入れねばと思う昨今ですが、いっこうに「本腰」が入らないわたくしです。
ちなみに「本腰を入れる」とは、仕事上で新しい分野の学習をしなければならないという意味です。今のところ事務作業くらいならすぐに出来ますが、それだけで許されないのがこの世界であって。学習すべきことは本業であっても無限にあり、終わりは永久にないのです。
なので山積みのテキストを前に、いつまでも受験生のように苦悶する日々です。
今年の春頃に心が折れ(笑)、いったん仕事の世界と別れてこのように文筆活動と占星術に時間を割いている次第です。
正直、今の仕事は誰でも出来るのだから、自分にしか出来ない「ライフワーク」・すなわち文芸や占星術の道で生きるべきではと思い始めています。
世の中の人が求めてくださるのはむしろ、こちらのほうな気もし始めています。
しかし占星術もどうでしょうか。
近代の占星術の我欲に走った使われ方を見てしまうと、この道にも未来はない気がしてしまいます。
たとえば。『ホラリー占星術』という手法があり、この代表的な使われ方で
「訴訟に勝つかどうか?」
という問いがあります。
私などは、そんなことを聞かれたら「弁護士に訊け!」と一蹴してしまいかねない。
確かに100年以上前のヨーロッパでは、訴訟に勝つかどうかという問いが占いの題材になり得たのかもしれません。
しかしこれだけ法の目が張り巡らされ判例が出ている現代では、イチかバチかという訴訟のほうがむしろ少ないのです。勝率はほとんど弁護士が計算出来ます。その弁護士が出した計算結果を上回るほどの回答が、ホラリーに可能だとは思えないわけです。
つまり始めから占うべき題材ではないと思ってしまう。
思ってしまうところに、自分が占いオンリーに突き進めない重大な欠陥があると感じます。
先に、『占いと戦争』という記事でも書きましたが、私は
「人事を尽くさないところに天命は降りない」
と考えるほうです。
第二次大戦でドイツ軍と連合軍(とソ連軍)が占星術バトルを繰り広げました。
結果として連合軍側が勝利したのは、人事を尽くす思考が始めからあったためです。
連合軍はプロとしての戦略家が戦略を整えたうえで、占星術はプロパガンダとして予備的に使ったために有効だったのです。
(経過と進行のチャートでドイツ軍の敗北が決まっていたとすれば、始めから戦略技術のなさが神の目で予言されていたことになります)
兵站さえまともに整えられない国が、ただ占星術師を抱えたからといって勝てるはずがない。
児戯にも等しい戦略では敗北は明白。それなのに、敗北の責任を占星術師だけに押し付けるのはお門違いというものです。
戦争戦略は、プロたちでなければ整えられない狭いジャンルの専門技術です。日本では源義経のようなビギナーが勝利出来たので戦争は誰でも出来ると思われがちですが、ビギナーでも勝利出来るのは「戦闘(戦場でのバトル)」に限られ、トータルな「戦争」で大敗を避けるためには専門技術が必要になります。
門外漢の占星術師にはいかんともしがたいでしょう。
そこのところが、技術がない人たち(そういう人たちに限って神仏だけに頼る)には理解出来ないし、占星術師も門外漢なために説明出来ないというのが致命的です。
そうなると占星術師は最終的に無力かな、とも思えます。
技術者(実行者)なき場で占星術は無力なのです。
理想としては、現実技術と星読みの両方を兼ね備えること。
なのですが、先にも書いた通り両立は時間的に難しいものです。
両方とも中途半端となってしまいますね。
(あと問題として、星読みを求める人は現実を嫌います。占星術師が現実の話を始めた時点でそっぽを向く。その逆は、もっと激しく嫌悪され信頼を失う。このため両立不可能)
自分は現実と星読みのどちらへ行くべきか。いつまでも道に迷い、我ながら子供のようです。
「不惑」なんて時が訪れるのか疑問です。
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ちなみに「本腰を入れる」とは、仕事上で新しい分野の学習をしなければならないという意味です。今のところ事務作業くらいならすぐに出来ますが、それだけで許されないのがこの世界であって。学習すべきことは本業であっても無限にあり、終わりは永久にないのです。
なので山積みのテキストを前に、いつまでも受験生のように苦悶する日々です。
今年の春頃に心が折れ(笑)、いったん仕事の世界と別れてこのように文筆活動と占星術に時間を割いている次第です。
正直、今の仕事は誰でも出来るのだから、自分にしか出来ない「ライフワーク」・すなわち文芸や占星術の道で生きるべきではと思い始めています。
世の中の人が求めてくださるのはむしろ、こちらのほうな気もし始めています。
しかし占星術もどうでしょうか。
近代の占星術の我欲に走った使われ方を見てしまうと、この道にも未来はない気がしてしまいます。
たとえば。『ホラリー占星術』という手法があり、この代表的な使われ方で
「訴訟に勝つかどうか?」
という問いがあります。
私などは、そんなことを聞かれたら「弁護士に訊け!」と一蹴してしまいかねない。
確かに100年以上前のヨーロッパでは、訴訟に勝つかどうかという問いが占いの題材になり得たのかもしれません。
しかしこれだけ法の目が張り巡らされ判例が出ている現代では、イチかバチかという訴訟のほうがむしろ少ないのです。勝率はほとんど弁護士が計算出来ます。その弁護士が出した計算結果を上回るほどの回答が、ホラリーに可能だとは思えないわけです。
つまり始めから占うべき題材ではないと思ってしまう。
思ってしまうところに、自分が占いオンリーに突き進めない重大な欠陥があると感じます。
先に、『占いと戦争』という記事でも書きましたが、私は
「人事を尽くさないところに天命は降りない」
と考えるほうです。
第二次大戦でドイツ軍と連合軍(とソ連軍)が占星術バトルを繰り広げました。
結果として連合軍側が勝利したのは、人事を尽くす思考が始めからあったためです。
連合軍はプロとしての戦略家が戦略を整えたうえで、占星術はプロパガンダとして予備的に使ったために有効だったのです。
(経過と進行のチャートでドイツ軍の敗北が決まっていたとすれば、始めから戦略技術のなさが神の目で予言されていたことになります)
兵站さえまともに整えられない国が、ただ占星術師を抱えたからといって勝てるはずがない。
児戯にも等しい戦略では敗北は明白。それなのに、敗北の責任を占星術師だけに押し付けるのはお門違いというものです。
戦争戦略は、プロたちでなければ整えられない狭いジャンルの専門技術です。日本では源義経のようなビギナーが勝利出来たので戦争は誰でも出来ると思われがちですが、ビギナーでも勝利出来るのは「戦闘(戦場でのバトル)」に限られ、トータルな「戦争」で大敗を避けるためには専門技術が必要になります。
門外漢の占星術師にはいかんともしがたいでしょう。
そこのところが、技術がない人たち(そういう人たちに限って神仏だけに頼る)には理解出来ないし、占星術師も門外漢なために説明出来ないというのが致命的です。
そうなると占星術師は最終的に無力かな、とも思えます。
技術者(実行者)なき場で占星術は無力なのです。
理想としては、現実技術と星読みの両方を兼ね備えること。
なのですが、先にも書いた通り両立は時間的に難しいものです。
両方とも中途半端となってしまいますね。
(あと問題として、星読みを求める人は現実を嫌います。占星術師が現実の話を始めた時点でそっぽを向く。その逆は、もっと激しく嫌悪され信頼を失う。このため両立不可能)
自分は現実と星読みのどちらへ行くべきか。いつまでも道に迷い、我ながら子供のようです。
「不惑」なんて時が訪れるのか疑問です。
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