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「自分探しの旅」追記

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 「自分探しの旅」なんて言葉が使われるようになったのはいつ頃からだろう。

 始めは自然に聞いていたのだが、あまりに「自分探しの旅」と宣言したうえで旅に出掛ける人が増え、またその弊害――延々と自分を探し続けるだけで人生終わらせる人々――が目立つようになったので冷めた目で見るようになってしまった。

 思うに、それはかつて「見聞の旅」と呼ばれていたもの。
 若者が自己研さんのために世間を見聞きする目的で行っていた。

 見聞の旅から帰った若者の誰かが、「旅先で自分を見つけてきたよ」などと言ってそれがカッコ良く聞こえてしまったので、他の誰かが真似し始めたのだろう。


 本来、旅は純粋に旅を楽しむためにするものだ。

 「放浪の旅」というものは旅そのものに対する欲求を叶えるためにする。

 心からの「放浪」欲求を持つ人というのは、「自分探し」などという理由がなくても抑えきれずに出てしまうものだと思うんですがね。
 (たぶん、私はこの欲求が強いタイプです。抑えているけれども)

 「自分探し」などという理由をつけなければ旅に出ない人は、きっと本心から旅に出たいと思っているわけではないのでしょう。
 
 
*
 

 誤解のないよう補足しておくと、私は「自分を知ろうとする行為」に反対している者ではありません。

「自分がどういう人間なのか」ということを若いうちに考えるのは有意義であると思っています。
 と言うよりもそんなことすら考えずに生きて来た人間は大人失格でしょう。

 若いうちは誰しも自分と他者との違いに悩むもの。
 とことん悩めばいいし、苦しめばいい。

 適職は何なのか心理テスト等で探ることも構わないと思う。

「敵を知り、己を知れば百戦あやうからず」は真なり。

 若い人はどうか自分を知る努力をしてください。


 いっぽう「自分探しの旅」(=モラトリアムでの)という言葉の問題点は、どうやら自分というものの枠を定めない、定めたがらないことにあるようです。
 つまり、延々とモラトリアムにしがみつきたいだけ。
 心理テストなんかで固定化していく行為とは真逆ですね。

 彼ら曰く、
「自分らしさの檻に閉じ篭められたくない」
 そうで。
 一生、自分というものを探し続け、得た自分は"ぶち壊し"続けている。
 そうして延々と旅を続けてらっしゃる。

 確かに、枠に囚われない態度は大事ではある。
 自分の限界を決めた時点でそこから先には行けなくなることも事実。
 しかしそれは「自分の可能性を定めた時点で」でしょう。「自分」を知った時点ではない。

 あくまでも土台として既に有る自分を受け入れたうえで、さらなる可能性にジャンプする。
 それが成人としての生き方ではないのかなと思いますが。

 たとえば仕事を決めるのでも、家庭を持つのでも、
 あるいは「放浪の旅」をしていくのだという決心でも良い。
 生き方を選んでこその人生だと思う。

 三十歳を越えてのモラトリアムは、「枠に囚われない」と言い訳してもやはり少々カッコ悪く感じられるのは否めません。


〔最も関連性の高い記事〕
「分をわきまえる」という言葉の本当の意味。自分さえ見失った現代人の不幸
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