プライベート

    祖母との絆

     植村花菜、『トイレの神様』が心に染みて自分の祖母のことを思い出した。

     花菜さんのお祖母様とは違ってうちの祖母は、孫の面倒などろくに見ない人だった。
     いや、正確には“見られない”人だった。
     豪家のお嬢として生まれ育ち、結婚してからも大勢の使用人に囲まれていた彼女は、生涯まともな家事をしたことがなかった。
     時代が変わり、使用人などいなくなってしまってもついに家事をする習慣を身に付けることは出来なかった。
     祖母が私たち孫のために作ってくれた料理は、
    ・サッポロ一番の塩ラーメン
    ・鮭の塩焼き
     最後までこの二点だけ。
     本当にこれしか出来なかったのだ。
     考えてみればそれでも精一杯の料理だったと思う。
     祖母の作る「サッポロ一番の塩ラーメン」と「鮭の塩焼き」は美味しかった。子供心に愛情を感じていたのかもしれない。だから私は今でも、「サッポロ一番の塩ラーメン」と「鮭の塩焼き」が大好きだ。


     そんな祖母だが、私の小さいころは私を苛めたおしていたらしい。
     とは、兄の話。
    「この子はうちの子じゃない。不吉な子だ」と言って嫌い、邪険に扱っていたのだとか。
     確かに私にも祖母から「悪魔の子」と呼ばれて定規で叩かれた記憶がある。(……これはまあ後で知ったことなのだが、始め私が左利きだったため矯正しようとして定規で叩いていたらしい。祖母の世代では常識だったことだそう)
     ともかくその話を抜かしても、私が祖母に嫌われて邪険にされていたことは兄の言う通り本当だった。
     だから兄は家を出て行った後、
    「お前がお婆ちゃんに苛められて、酷いことになっているのではないかと思って心配でたまらなかった」
     のだと言う。
     今で言えばやんわり虐待されていたということになるのだろうか?


     しかし、私も負けていなかった。
     少し成長して反抗期にさしかかると祖母とは対等な気持ちで激しくバトルした。
     その衝撃は凄まじかったと思う。
    「悪い子だ、悪い子だ」
     と祖母は私を叱っていたが、やがて私とほとんど同じレベルで喧嘩をするようになった。
     今から考えればあの喧嘩が良かったのかもしれない。
     私たちの間に壁はなくなった。
    「悪魔の子」だの「不吉」だのという呼び名で私はいつの間にか呼ばれなくなっていた。
     どこにでもいる、遠慮のない“お婆ちゃんと孫”へと変わっていた。


     料理のレパートリーは少なかったが、祖母はいつも傍に居てくれた。
     一生懸命にサッポロ一番の塩ラーメンを作ってくれた。塩鮭を焼いてくれた。
     グリコのプッチンプリンを気に入って、足が痛いのに駄菓子屋まで買いに行って、孫のぶんまで買ってきてくれた。


     祖母が入院したのは私が中学の時。
     遊びに出掛けた私たちが遅いからと心配して探しに出た際、転んで骨を折ったのだ。
     八十歳に近かった祖母の骨が治ることはついになかった。
     寝たきりとなり、遠くの介護施設に移ることになった。
    「家に帰りたい。K(私)と坊や(弟)に会いたい」
     と祖母が夜中に騒いで看護婦さんたちに迷惑をかけているという話を聞いて、私は泣いた。


     その後、祖母は呆けたと親族は言う。
     誰が見舞いに行っても名前が分からない。
     まともに会話をすることも出来ない。
     ところが、私が見舞いに行くと普通に会話が出来た。
     だから私には最後まで祖母が呆けたということが信じられなかった。
     何度か私と母とを混同して話をしていたことはあったが、それにしてもいつもはっきりとした口調だったし、笑顔も以前の祖母のままだった。「どうしてこの子とは普通に会話出来るのか」。周りの人たちは不思議だと首を傾げていた。


     ある日、祖母が危篤だという知らせを受けて母が慌てて出掛けて行った。
     親族一同が病院に集まると祖母は回復して元気な姿を見せた。
     もう心配ないということで翌日、孫の私たちが呼ばれた。
     けれど、私が病室に入った瞬間だった。
     祖母は声を出さずに私の顔を見て、笑顔で「うんうん」と頷いた。私が祖母の誕生日にあげたプレゼントを強く握り締めて。
     それが最期だった。
     祖母は私たちの目の前で処置室へ運ばれて行った。
     私たちの顔を見た直後、容態が悪化した祖母の心臓は止まり天へ旅立ったのだ。
    「お前たちが来るのを待っていたんだな」と親族は言った。そうとしか考えられなかった。


     あれほど嫌われていたはずの孫なのに、待っていてくれた。
     最期に握り締めていたのは私のあげたプレゼントだった。
     もしかしたら私は、愛されていたのかもしれない。
     いや「もしかしたら」ではなく、愛されていた。きっと誰よりも可愛がってもらえたのだった。
     始め最も仲が悪かった祖母との絆は、いつの間にか親族の中で一番強くなっていた。


    「おばあちゃんとは、けっこううまくいっていたんだよ」
     私が祖母に虐待されていたのではないか、などと心配していた兄には未だにこの真実を伝えられずにいる。
     今度、機会があったらきちんと話しておきたい。

    (その前に自分が事故か何かでうっかり死んだら困るので、ここに書き残してみた)






    ■家族の事情とトラウマと


     ここまでの話について、事情説明。

     何故、幼い私が祖母に嫌われていたかというと、父が嫌われ憎まれていたから。

     私は父親の家で育ったのではなく、母親の家で育てられた。

     当時の父はあまり感心される生活を送っていなかった。
     交通事故に遭い、事業に失敗し、アルコールに溺れて荒んだ日々を送っていた。
     酒を飲んで暴れて、街のショーウィンドウを片端から割ったこともある。
     母を叩いたこともあった。

    (『緑雨』で描いた光景はその当時の父と母がモデルです。※念のため、現実では母は私の実母。フィクションを鵜呑みにされ継母と誤解されると困る)


     母の家は厳格な旧家だったため、彼ら曰く“下衆”な父の行動を許すはずがなかった。
     父は「家の恥」とされ、そんな父と結婚した母も「恥」とされて罵られた。
     私たちも恥の子として忌み嫌われた。

     父は私たちのために離婚を決め、私が八歳の時に出て行った。
     父の後を追って腹違いの兄も出て行った。

     家族はバラバラとなった。
     私は伯父に引き取られるという話だったが、母が「自分で育てる」と意地を張ったためそれだけは免れた。
     おかげで母と弟と三人、貧しいながらも本当の家族で生きることが出来た。

     ……そんな私たちを心配して田舎から出て来たのが、祖母だった。
     貧乏など経験したことのない祖母には過酷な生活だったと思う。
     七十歳を越えた年齢で住み慣れた土地を遠く離れる辛さもどれほどだったろう。
     だが祖母は家族の反対を押し切って私たちと「兎小屋」のような借家で暮らしてくれた。

     成長した今から眺めてみれば、祖母の勇気と愛は凄まじかったと分かる。
     「苛めていた」なんてとんでもない、愛情がなければあんなことは出来ない。

     今の私は祖母や家族の愛情を理解し、親族のことも許している。

    【2010-12-30筆】
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