2016
Dec
18
-
ソクラテス(プラトン)の遺言と、法的安定性の話
〔2022/3/26記事復帰にともない解説追記〕
『ソクラテスの弁明』レビューを改稿しました。
かなり昔に書いたものですが読みやすく文章を整えました。(つもり)
https://book.kslabo.work/2019/04/blog-post_23.html
諸葛亮にも少し触れているので、ここへ来られている方は少し興味があるかな? と想像しています。
去年、日本国憲法第9条の改憲騒ぎで
「法的安定性」
という言葉がテレビや新聞でも使われ、一般の方の目に留まる機会が増えましたね。
私は意外だったのですが、この言葉は法律を学んだことがない人にとっては馴染みがなかったようで、改憲賛成論者たちの中には
「あれはメディアが作った造語だ。平和主義のバカどもは造語に騙されている」
と思い込む人が多かったようです。
でも「法的安定性」はメディアの造語などではなく、昔からある言葉です。
この通りの言葉はないにしても、古代から概念としては存在します。
ソクラテスが死をもって守りたかったのも高度な意味での法的安定性でしょう。
【基礎法学】「法治」とは何か。法の適用とリーガルマインド ※一般向け、現代の雑談です
諸葛亮をソクラテスと並べて書くのはあまりにも格が違い過ぎて気が引けますが(もちろんソクラテスが遥か上です)、実際に並記していたテキストが存在したので私は驚きましたね。
それにしても、現代の法学を知る私の目から客観的に見て、諸葛亮は明らかに西洋的な思想を持つ人間だったと思います。彼に西洋の知識があったわけではありませんので、それは「生来に」「本質的に」ということです。
おさらいをしておくと、西洋は「法治主義」とされます。※
東洋は一般に「人治主義」と言われています。
※2022/3/26解説追記 「法治」「人治」は漢語であることからも分かる通り、古代中華の用語です。しかし現代日本で使われている「法治」の定義は近代欧州法学のものであり、中華の「法治」とは少し意味が異なります。
近代欧州法学の「法治」は国と民との契約、どちらかと言えば国を縛るもの。古代中華の「法治」は秦の始皇帝時代に見られるように民を管理する目的のもの。ただしどちらも為政者・民ともに法を守らねばならないと考える点では同じ。独裁国家である秦ですら現代中国とは違って国は法を厳守しました。古代中華においても朝令暮改や法の恣意的解釈・濫用は戒められた、このことは近代法学と同様です。
いっぽうの「人治」は人の徳に委ねる政治のこと。法については緩やかな考えを持ちます。この場合は理想的な為政者がいれば最高なのですが、そうではない場合は悲惨です。「人治」ばかりに偏り過ぎると、ともすれば恣意的な政治となりやすく、独裁者が皇帝の座についた場合は専横を許す危険もあります。 …長くなるので詳細はまた別記事にて
ちなみに諸葛亮は、西洋的な意味での「法治主義者」だったと思います、不思議なことですが。漢語に限定して考えるなら、「法治」「人治」どちらも取り入れる主義だったと言えます。法は守って当然、しかし国家元首も人格的に高い「徳王」であることが理想です。徳王のもとでなければそもそも、正しい法が生まれないと言えるからです。
法治が良いか、人治が良いか。
一概に決めつけることは出来ませんが、私が法治(西洋定義)のほうに共鳴するのは言うまでもないでしょう。まあ現代人としては普通でしょうか。
法律をその場の気分で守らなかったり勝手な解釈で運用してしまうと、国民がどうすれば良いのか分からずに混乱し、社会が乱れます。
また権力者による法の濫用(いいかげんな使い方)が増え、何の罪もなく逮捕されたり虐殺されたりしても権力者を訴えることができなくなります。
……早く言えば現代のC国みたいな恐怖の社会になってしまうということです。
そうならないために、「法的安定性」=法律が守られて社会秩序が安定することが大事だというわけです。
去年、法学者たちが主張していたのはこういう話です。
政策的に「日本は戦争すべきではない」とか「平和憲法を守れ」という話ではありません。それは完全に別次元の話。政策の話をするのは政府の仕事であって、法学者の仕事ではない。
法律家は法律家の本能で、また仕事として、法的安定性のために語っているだけのことです。
だから憲法学者に対して「頭がお花畑」と発言するのは、「自分は色々なことを区別できない頭ごちゃごちゃの人間である」と大声で発表するのと同じです。
(法律が現代の情勢に合わないと言うなら法律を変えねばならない。法律を変える議論をするのは主権者の仕事。法律家は既にある法律を守ること、法に照らして正しく運用されているかを云々することしか許されていないわけです)
【経緯】この記事は安保関連法案に関する議論が吹き荒れた頃に書いたものです。
当時、安倍首相は憲法解釈を歪めて法案を通そうとし、対立する野党が憲法学者を率いて「法の解釈を歪めるな!法的安定性を守れ!」と騒いでいました。
政治的に言えば、我が国の安全保障を高めようと努めた与党側の姿勢は正しかったでしょう。(姿勢だけ。細かく言えばあれはアメリカのパシリとなる契約であり、当時のオバマ政権=売電による世界戦争計画に巻き込まれる可能性があったため私は反対でしたが)
いっぽうの野党は、共産陣営としてのC国や北朝鮮を守るため日本と米国の仲を裂きたい・日本の軍事力を低下させたいとの下心だけで「反対!反対!」と叫んでいたものです。共産主義者に本心から法を死守する気持ちなどあるわけがなく(左翼のダブルスタンダード・ダブルシンクを見ていれば分かるでしょう)、屁理屈として「法的安定性」の議論を利用しただけ。
ですので、私は野党の主張や反対デモを冷たい目で眺めていましたが、「法的安定性を守るべきだ」という話だけには一理あると考え賛同していました。
何故なら、それこそ日本が共産党などの独裁主義に政権を奪われたとき、憲法歪曲の過去はかならず利用されて国民蹂躙のために使われるからです。
安倍首相がやった法律歪曲は、完全に敵を利する過ちでした。故意か無意識か分かりませんが、全体主義者の罠にはまったと言えます。
「法律はいくら枉げて解釈しても良いこと」と叫んだ日本国民は、自分が国家の恣意によって弾圧されようとしたとき、国へ「法律を守れ!」とは言えなくなった。抵抗の手段を失ったのです。悲惨。
だからあのとき安倍首相がやるべきことは、「政治的に正しい判断」に合わせて間違った法律文のほうを修正すること(改憲)でしたね。人権制限が強過ぎる条文はもちろん省いて。
『ソクラテスの弁明』レビューを改稿しました。
かなり昔に書いたものですが読みやすく文章を整えました。(つもり)
https://book.kslabo.work/2019/04/blog-post_23.html
諸葛亮にも少し触れているので、ここへ来られている方は少し興味があるかな? と想像しています。
去年、日本国憲法第9条の改憲騒ぎで
「法的安定性」
という言葉がテレビや新聞でも使われ、一般の方の目に留まる機会が増えましたね。
私は意外だったのですが、この言葉は法律を学んだことがない人にとっては馴染みがなかったようで、改憲賛成論者たちの中には
「あれはメディアが作った造語だ。平和主義のバカどもは造語に騙されている」
と思い込む人が多かったようです。
でも「法的安定性」はメディアの造語などではなく、昔からある言葉です。
この通りの言葉はないにしても、古代から概念としては存在します。
ソクラテスが死をもって守りたかったのも高度な意味での法的安定性でしょう。
【基礎法学】「法治」とは何か。法の適用とリーガルマインド ※一般向け、現代の雑談です
諸葛亮をソクラテスと並べて書くのはあまりにも格が違い過ぎて気が引けますが(もちろんソクラテスが遥か上です)、実際に並記していたテキストが存在したので私は驚きましたね。
それにしても、現代の法学を知る私の目から客観的に見て、諸葛亮は明らかに西洋的な思想を持つ人間だったと思います。彼に西洋の知識があったわけではありませんので、それは「生来に」「本質的に」ということです。
おさらいをしておくと、西洋は「法治主義」とされます。※
東洋は一般に「人治主義」と言われています。
※2022/3/26解説追記 「法治」「人治」は漢語であることからも分かる通り、古代中華の用語です。しかし現代日本で使われている「法治」の定義は近代欧州法学のものであり、中華の「法治」とは少し意味が異なります。
近代欧州法学の「法治」は国と民との契約、どちらかと言えば国を縛るもの。古代中華の「法治」は秦の始皇帝時代に見られるように民を管理する目的のもの。ただしどちらも為政者・民ともに法を守らねばならないと考える点では同じ。独裁国家である秦ですら現代中国とは違って国は法を厳守しました。古代中華においても朝令暮改や法の恣意的解釈・濫用は戒められた、このことは近代法学と同様です。
いっぽうの「人治」は人の徳に委ねる政治のこと。法については緩やかな考えを持ちます。この場合は理想的な為政者がいれば最高なのですが、そうではない場合は悲惨です。「人治」ばかりに偏り過ぎると、ともすれば恣意的な政治となりやすく、独裁者が皇帝の座についた場合は専横を許す危険もあります。 …長くなるので詳細はまた別記事にて
ちなみに諸葛亮は、西洋的な意味での「法治主義者」だったと思います、不思議なことですが。漢語に限定して考えるなら、「法治」「人治」どちらも取り入れる主義だったと言えます。法は守って当然、しかし国家元首も人格的に高い「徳王」であることが理想です。徳王のもとでなければそもそも、正しい法が生まれないと言えるからです。
法治が良いか、人治が良いか。
一概に決めつけることは出来ませんが、私が法治(西洋定義)のほうに共鳴するのは言うまでもないでしょう。まあ現代人としては普通でしょうか。
法律をその場の気分で守らなかったり勝手な解釈で運用してしまうと、国民がどうすれば良いのか分からずに混乱し、社会が乱れます。
また権力者による法の濫用(いいかげんな使い方)が増え、何の罪もなく逮捕されたり虐殺されたりしても権力者を訴えることができなくなります。
……早く言えば現代のC国みたいな恐怖の社会になってしまうということです。
そうならないために、「法的安定性」=法律が守られて社会秩序が安定することが大事だというわけです。
去年、法学者たちが主張していたのはこういう話です。
政策的に「日本は戦争すべきではない」とか「平和憲法を守れ」という話ではありません。それは完全に別次元の話。政策の話をするのは政府の仕事であって、法学者の仕事ではない。
法律家は法律家の本能で、また仕事として、法的安定性のために語っているだけのことです。
だから憲法学者に対して「頭がお花畑」と発言するのは、「自分は色々なことを区別できない頭ごちゃごちゃの人間である」と大声で発表するのと同じです。
(法律が現代の情勢に合わないと言うなら法律を変えねばならない。法律を変える議論をするのは主権者の仕事。法律家は既にある法律を守ること、法に照らして正しく運用されているかを云々することしか許されていないわけです)
【経緯】この記事は安保関連法案に関する議論が吹き荒れた頃に書いたものです。
当時、安倍首相は憲法解釈を歪めて法案を通そうとし、対立する野党が憲法学者を率いて「法の解釈を歪めるな!法的安定性を守れ!」と騒いでいました。
政治的に言えば、我が国の安全保障を高めようと努めた与党側の姿勢は正しかったでしょう。(姿勢だけ。細かく言えばあれはアメリカのパシリとなる契約であり、当時のオバマ政権=売電による世界戦争計画に巻き込まれる可能性があったため私は反対でしたが)
いっぽうの野党は、共産陣営としてのC国や北朝鮮を守るため日本と米国の仲を裂きたい・日本の軍事力を低下させたいとの下心だけで「反対!反対!」と叫んでいたものです。共産主義者に本心から法を死守する気持ちなどあるわけがなく(左翼のダブルスタンダード・ダブルシンクを見ていれば分かるでしょう)、屁理屈として「法的安定性」の議論を利用しただけ。
ですので、私は野党の主張や反対デモを冷たい目で眺めていましたが、「法的安定性を守るべきだ」という話だけには一理あると考え賛同していました。
何故なら、それこそ日本が共産党などの独裁主義に政権を奪われたとき、憲法歪曲の過去はかならず利用されて国民蹂躙のために使われるからです。
安倍首相がやった法律歪曲は、完全に敵を利する過ちでした。故意か無意識か分かりませんが、全体主義者の罠にはまったと言えます。
「法律はいくら枉げて解釈しても良いこと」と叫んだ日本国民は、自分が国家の恣意によって弾圧されようとしたとき、国へ「法律を守れ!」とは言えなくなった。抵抗の手段を失ったのです。悲惨。
だからあのとき安倍首相がやるべきことは、「政治的に正しい判断」に合わせて間違った法律文のほうを修正すること(改憲)でしたね。人権制限が強過ぎる条文はもちろん省いて。