2017
Feb
06
-
葬儀があることの有難さ
久々にたくさんの世間話を書いたな。しばらく落ち込んでいたけど回復しつつある。
先日ついに大好きな人が世を去ってしまった。
配偶者の親なのだが、私にとって実の親以上に大切な人だった。
もしかしたら一番大切な人だったかもしれない。現実には配偶者が「一番大切」なはずなので、一番とは断言しないけどね。
大切な人のうち、一人が世を去ってしまったので、この世に生きている意味が半分なくなってしまったと感じている。
あの人が去った今、前世の主人だったのではと考えたりもする。そう言えば言動が似ている。魂の輝きが似ている。
……などと想像していたら、もっと会話しなかったことを激しく悔いた。
あれもこれもして差し上げられなかったこと、最後には暴漢から救えずに苦痛を与えてしまったことを悔いて悔いて、涙が止まらなくなった。
それで少しの間、まずいと思うくらい落ち込んでいたのだが、有り難かったのは日本式の葬儀だ。
葬儀社が来て、丁寧かつ迅速に事を進めてくれる。
遺族もやることが多いため考える間もなくバタバタと時が過ぎていく。
そして、何よりも救われたのは典型的な葬儀。
始め
「うちは無宗教の葬儀でいい」
「坊主に金を払いたくないから、戒名なんか要らない」
などと家族会議が進んでいたのだが、訪れる親戚のためにとオーソドックスな仏式の葬儀を選んだ。
線香が焚かれ、鈴が打たれ、読経があげられ、親族で順に焼香をする。
ありきたり。あまりにもオーソドックス。二歳の時に祖父の葬儀に出てから何度この光景を見てきただろう。
だけど、その「ありきたり」に救われた。
真の意味で成仏することが確実なあの人の優れた魂に戒名など要らないし、儀式化された読経なども故人の役に立たないことを知ってはいるが、幼い頃から何度も経験してきた儀式に地上の我々は救われた。おかげで気持ちの区切りがついた。
よく言われる、「葬儀は遺族のためにある」とは事実なのだと思った。
今風な無宗教の葬儀など選ばなくて良かったし、淀みなく儀式を行うことが出来るプロの僧侶に任せて良かったと思う。
もちろん日本の葬儀にも多々問題はある。
たとえば、亡くなった時には既に葬儀社を選ぶ余裕は与えられていないこと。
夜中であろうと病院からは「いつ遺体を引き取ってくださいますか」と迫られるので、早急に葬儀社へ連絡する必要がある。
と言うことは病院が用意した葬儀社を受け入れるか、予め決めておいた葬儀社に連絡するしか選択肢がない。
それで、その会社に連絡し搬送したが最後、もうその会社へ葬儀を頼むしかなくなる。(実際は他の葬儀社へ頼んでも良いのだが遺族に他を調べている余裕はない。とにかく遺体の傷みがあるため時間との戦いである)
この段階においては見積もりを比較検討している時間などないのだ。
私たちは親が入っていた大企業の互助会的なシステムへ連絡し、紹介された葬儀社を使った。多少割安となるはずの契約だったが、結局オプションが積み重ねられ相場の200万円ほどになった。
(僧侶に問題があるのではない。無宗教を選んでもこのくらいになる。要は葬儀社の問題であり、戒名が高いなどと話をすり替えるのは論点が違うと思う)
私たちの場合、支払をする人に対するちょっとした復讐になるから口出しせず黙っていたけどね。
これは特殊なケースだから参考にしないでください。
現実には精神的な救いを与えてくれた葬儀効果は絶大だったので、200万円で妥当だとは思った。精神科へ通わずに済んだことを思えば安いとも思う。
だが全ての家庭に妥当とは言わない。
これを払える家庭なら良しとして、払えない家庭なら無理をする必要はない。
国大の学費すら払えなかった極貧の家庭に育った私は、200万円がいかに犯罪的で殺人的な料金であるか知っている。
生きている子供に年間50万円すら支出することが出来ない家庭にとって、200万円を請求されることは「死者とともに一家心中しろ」と言っているに等しい。
死者のために生きている者が借金をして自殺するなど本末転倒。それこそ故人を最も悲しませる行為。
だからこれだけは知っておいて欲しい、故人が成仏するかどうかは葬儀の価格には一切関係ないということを。
厳密に言えば、「成仏」出来るレベルの魂なんてほとんど地上にいない。
たいてい修行のために再び地上へ戻って来るから安心して欲しい(笑)。
釈迦レベルの「成仏」までは望まなくとも、故人の冥福を望む人は多いと思う。そのために立派な葬儀を出さなければならないと思い込んでいる人は多い。
だが安心して欲しい、故人の冥福については、0.000…1%も容赦なく完全に故人自身の生前の行いにかかっている。
だから葬儀で遺族があがいても無駄だと思ったほうがいい。
さすがに法律上、その辺に遺体を放置するわけにはいかないから最低限の支払いは必要だが。
愛があり、生きている者が慰められるなら、直送でも構わないのではないかな。
最近は行政サービスの市民葬よりも意外と格安葬儀社の直送のほうが安く済む場合があるらしい。前もってご検討を。
Google検索⇒市民葬+自分の住む市区町村名
読経が欲しい場合は宅配僧侶でも構わないと私は思う。
⇒amazonお坊さん便
修行されて資格あるプロの僧侶さんなので読経のスキルは大丈夫でしょう。たぶん。
(「読み間違え」に関しては布施料が高い僧侶でも有り得ることかと)
こういうフレキシブルな対応を許すことも寛容な仏教の教義上正しいことだと思うが、仏教界の皆様いかが?
僧侶さんたちの生活上の問題をよく知らずに言っているので、何か間違っていたらすみません。
僧侶さんたちは自力で生活費を稼がねばならないために「金儲け主義」「ビジネス坊主」と言われ何かとお辛い立場でしょうが、どうか子供の学費すら払えない貧困家庭のことも考慮されたし。
家庭ごとの収入によりお布施を増減できたら良いのだけどね。葬儀代の何%かで請求するのはどうでしょう。
(相続関連の業務を行う法律家は遺産の額で請求額を決めるけど、お寺さんは難しい?)
こういったことを法律で定めるのは今の憲法上難しい。
改憲するならまずこの信教に関する条文に手をつけるべきだと思うが……(例、伝統的な信仰に関しては国が保護し葬儀代も国が負う等)。国民文化に深く根付いた風習について国家が完全にアンタッチャブルな態度を貫くのは、やはり不自然だったのではないかな。
【補足】
ここで書いた「葬儀を担うお寺さんたち」は『新時代へ願うこと』で「消えうせてほしい」と書いた危険な組織的宗教と少し違う。
土着の文化と結び付いた風習は排除すべきものではないと思う。
それに本来の仏教は哲学に近い思想体系だから、そもそも「宗教」と呼ぶこと自体、私には違和感があるのだが。
(ただし仏教教義を模して作られた、仏教もどきのカルト宗教は排除すべきもの。形は何であれ組織で人を縛り、命令するカルト集団は全て消えうせてほしい)
先日ついに大好きな人が世を去ってしまった。
配偶者の親なのだが、私にとって実の親以上に大切な人だった。
もしかしたら一番大切な人だったかもしれない。現実には配偶者が「一番大切」なはずなので、一番とは断言しないけどね。
大切な人のうち、一人が世を去ってしまったので、この世に生きている意味が半分なくなってしまったと感じている。
あの人が去った今、前世の主人だったのではと考えたりもする。そう言えば言動が似ている。魂の輝きが似ている。
……などと想像していたら、もっと会話しなかったことを激しく悔いた。
あれもこれもして差し上げられなかったこと、最後には暴漢から救えずに苦痛を与えてしまったことを悔いて悔いて、涙が止まらなくなった。
それで少しの間、まずいと思うくらい落ち込んでいたのだが、有り難かったのは日本式の葬儀だ。
葬儀社が来て、丁寧かつ迅速に事を進めてくれる。
遺族もやることが多いため考える間もなくバタバタと時が過ぎていく。
そして、何よりも救われたのは典型的な葬儀。
始め
「うちは無宗教の葬儀でいい」
「坊主に金を払いたくないから、戒名なんか要らない」
などと家族会議が進んでいたのだが、訪れる親戚のためにとオーソドックスな仏式の葬儀を選んだ。
線香が焚かれ、鈴が打たれ、読経があげられ、親族で順に焼香をする。
ありきたり。あまりにもオーソドックス。二歳の時に祖父の葬儀に出てから何度この光景を見てきただろう。
だけど、その「ありきたり」に救われた。
真の意味で成仏することが確実なあの人の優れた魂に戒名など要らないし、儀式化された読経なども故人の役に立たないことを知ってはいるが、幼い頃から何度も経験してきた儀式に地上の我々は救われた。おかげで気持ちの区切りがついた。
よく言われる、「葬儀は遺族のためにある」とは事実なのだと思った。
今風な無宗教の葬儀など選ばなくて良かったし、淀みなく儀式を行うことが出来るプロの僧侶に任せて良かったと思う。
もちろん日本の葬儀にも多々問題はある。
たとえば、亡くなった時には既に葬儀社を選ぶ余裕は与えられていないこと。
夜中であろうと病院からは「いつ遺体を引き取ってくださいますか」と迫られるので、早急に葬儀社へ連絡する必要がある。
と言うことは病院が用意した葬儀社を受け入れるか、予め決めておいた葬儀社に連絡するしか選択肢がない。
それで、その会社に連絡し搬送したが最後、もうその会社へ葬儀を頼むしかなくなる。(実際は他の葬儀社へ頼んでも良いのだが遺族に他を調べている余裕はない。とにかく遺体の傷みがあるため時間との戦いである)
この段階においては見積もりを比較検討している時間などないのだ。
私たちは親が入っていた大企業の互助会的なシステムへ連絡し、紹介された葬儀社を使った。多少割安となるはずの契約だったが、結局オプションが積み重ねられ相場の200万円ほどになった。
(僧侶に問題があるのではない。無宗教を選んでもこのくらいになる。要は葬儀社の問題であり、戒名が高いなどと話をすり替えるのは論点が違うと思う)
私たちの場合、支払をする人に対するちょっとした復讐になるから口出しせず黙っていたけどね。
これは特殊なケースだから参考にしないでください。
現実には精神的な救いを与えてくれた葬儀効果は絶大だったので、200万円で妥当だとは思った。精神科へ通わずに済んだことを思えば安いとも思う。
だが全ての家庭に妥当とは言わない。
これを払える家庭なら良しとして、払えない家庭なら無理をする必要はない。
国大の学費すら払えなかった極貧の家庭に育った私は、200万円がいかに犯罪的で殺人的な料金であるか知っている。
生きている子供に年間50万円すら支出することが出来ない家庭にとって、200万円を請求されることは「死者とともに一家心中しろ」と言っているに等しい。
死者のために生きている者が借金をして自殺するなど本末転倒。それこそ故人を最も悲しませる行為。
だからこれだけは知っておいて欲しい、故人が成仏するかどうかは葬儀の価格には一切関係ないということを。
厳密に言えば、「成仏」出来るレベルの魂なんてほとんど地上にいない。
たいてい修行のために再び地上へ戻って来るから安心して欲しい(笑)。
釈迦レベルの「成仏」までは望まなくとも、故人の冥福を望む人は多いと思う。そのために立派な葬儀を出さなければならないと思い込んでいる人は多い。
だが安心して欲しい、故人の冥福については、0.000…1%も容赦なく完全に故人自身の生前の行いにかかっている。
だから葬儀で遺族があがいても無駄だと思ったほうがいい。
さすがに法律上、その辺に遺体を放置するわけにはいかないから最低限の支払いは必要だが。
愛があり、生きている者が慰められるなら、直送でも構わないのではないかな。
最近は行政サービスの市民葬よりも意外と格安葬儀社の直送のほうが安く済む場合があるらしい。前もってご検討を。
Google検索⇒市民葬+自分の住む市区町村名
読経が欲しい場合は宅配僧侶でも構わないと私は思う。
⇒amazonお坊さん便
修行されて資格あるプロの僧侶さんなので読経のスキルは大丈夫でしょう。たぶん。
(「読み間違え」に関しては布施料が高い僧侶でも有り得ることかと)
こういうフレキシブルな対応を許すことも寛容な仏教の教義上正しいことだと思うが、仏教界の皆様いかが?
僧侶さんたちの生活上の問題をよく知らずに言っているので、何か間違っていたらすみません。
僧侶さんたちは自力で生活費を稼がねばならないために「金儲け主義」「ビジネス坊主」と言われ何かとお辛い立場でしょうが、どうか子供の学費すら払えない貧困家庭のことも考慮されたし。
家庭ごとの収入によりお布施を増減できたら良いのだけどね。葬儀代の何%かで請求するのはどうでしょう。
(相続関連の業務を行う法律家は遺産の額で請求額を決めるけど、お寺さんは難しい?)
こういったことを法律で定めるのは今の憲法上難しい。
改憲するならまずこの信教に関する条文に手をつけるべきだと思うが……(例、伝統的な信仰に関しては国が保護し葬儀代も国が負う等)。国民文化に深く根付いた風習について国家が完全にアンタッチャブルな態度を貫くのは、やはり不自然だったのではないかな。
【補足】
ここで書いた「葬儀を担うお寺さんたち」は『新時代へ願うこと』で「消えうせてほしい」と書いた危険な組織的宗教と少し違う。
土着の文化と結び付いた風習は排除すべきものではないと思う。
それに本来の仏教は哲学に近い思想体系だから、そもそも「宗教」と呼ぶこと自体、私には違和感があるのだが。
(ただし仏教教義を模して作られた、仏教もどきのカルト宗教は排除すべきもの。形は何であれ組織で人を縛り、命令するカルト集団は全て消えうせてほしい)
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