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政治に関わる話は閲覧者様に迷惑をかけるので今後また避けるが、最後に一つだけ。「道義」という言葉について書きます。


先日、稲田防衛相の
「教育勅語の核である、例えば道徳、それから日本が道義国家を目指すべきであるという、その核について、私は(考えを)変えておりません」
発言に憤りを覚えていた。
「道義とは真逆のファッショ集団関係者が何故、道義という言葉を使えるのか?」と疑問を覚えて少し調べていたのだけど、政治家たちの辞書で「道義」という言葉は
「道義国家」とは立派な精神のように聞こえるが、これは、日本におけるファシズム理論のイデオローグであった大川周明が使った象徴的なキーワードに他ならない。
https://www.facebook.com/mito.kakizawa(民進党柿沢議員FB)より
というニュアンスになっているらしい。
つまり日本国の国会において使われる辞書では、
「道義」とは権力者側の視点から人民という奴隷に押し付けるべきルール
を意味し、「道義国家」とは権力者が強いたルールに奴隷たちが粛々と従っている状態を表すのか。
「道」、「義」といった漢字が持つ本来の意味は全く失われている。失われているどころか完全に正反対の意味に使われている。

今は「道義」という言葉まで汚され意味をすり替えられているのか……。

それなのに前々記事で私は、うっかり「日本は道義に目覚めよ」などと書いてしまって本当に申し訳なかったと思う。
「ファシズム※に目覚めよ」という意味に受け取られたか? まさか私にそんな気持ちは全くなくて、むしろその逆のことを書いていた(軍国主義を装ったファシズム集団と闘え)のだが、おそらく誤解されたろうな。

「正義」という言葉は近代にさんざん捻じ曲げられ、虐殺の旗印に使われ汚されてきた。
だから私は「正義」という言葉を使うのをずっと避けてきたのだが、「道義」まで汚され奪われてしまっているとは。
もちろん「道義」という言葉も突き詰めるなら曖昧で難しい。ただ古臭い言葉であるぶん、「正義」よりはまだ劣化が少ないと思っていた。

残念だ。
現代ではほとんど本来の意味で使える言葉がなくなっている。

独裁のための洗脳はまず言葉の意味を変えることから始まる――

悪質な人たちは自分たちの都合の良いように言葉を奪い、意味をすり替えてしまう。
言葉を奪うことは抵抗する概念を奪うということだ。
まさに小説『1984年』のニュースピーク(支配のための新語)だ。




悔しいから、僅かな抵抗として「道」「義」の昔ながらの意味を考えてみる。

まずは簡単な意味の理解から。

●「道」とは、目指すべき最も高度な状態や根本法則のこと。また、それを目指している過程そのものも指す。
●「義」とは、人として「こうあるべき」という原則。本能的な戒め。

難しいかな。これでも精一杯簡単に書いている。
私なりに簡略化した表現だから、『老子』『論語』における正確な表現を知りたい人はそれら古典を読んでください。

特に「道」は難しい。
「道」という言葉が示す範囲はとても広い。日常レベルの修行から究極の宇宙の理(ことわり)まで表す。老子の説く「道」は後者に近く、最新の素粒子物理学にも通じるところがある。
「道とは何か~」と考えるなら、そのテーマだけで本が何十冊も書けるはず。老子・荘子など古代の聖人たちでさえ延々と「道とは何か?」と考え続けたのだから、素人ごときがブログで論じるべきことではないと思う。
ここではあくまでも「義」の頭に付く「道」だから、人間社会における「目指すべき行い」の意味として解する。

主となるのは、「義」のほう。

「義」という字の構成は「美しい + 我」。
この「美」とは見た目の「美」ではないし、安倍晋三さんが用いる「品格」という意味の美でもない。単に、理想的な形(状態)のこと。
「我」も一人称ではなく「素朴で粗削りな形」のことだが、整えられるべき人間自身を象徴するので、一人称としての「我」と考えても間違っていない。

以前、女性から
「義と言われてもよく分からない。ピンと来ない。どういう意味?」
と聞かれたのだが、確かにオジサンしか使っていない言葉だから(笑)、女性の世界では通じない言葉かもしれない。
現代で言うところの、お行儀の良い「道徳」とはちょっと違う。
(ある一神教が唱える「善」、加害者へ免罪符を渡し被害者の復讐を絶対禁止としてさらに苦しめる、加害者天国の「善」とも違う。そんな見た目だけが美しいものではない。女性の目から見ればたぶんもっと醜く本能的。漢―おとこ―臭い。)
教師の言うことを聞く「規律正しさ」とも全く違う。
一般社会での「礼儀正しさ」でもなく、たとえ世間のルールを無視しても人間としての本質ルールを決して犯さないことを言う。
具体的に例を挙げると、「義の心を抱く人」のイメージとしては安倍晋三さんではなく逆のタイプ。
自分の頭で考え発言し実行するタイプで、金持ちや権力者ではなく弱者の味方である。弱者への横暴な振る舞いには憤る。見た目には粗野な人が多いイメージだが、軟弱な感じの人の中にも義心を持つ人はいる(典型はヘルマン・ヘッセとか。ヘッセは純血のドイツ人でありながらヒトラーの蛮行に憤りを覚え、命懸けで反旗を翻した)。
顔つきではなく、「内面が骨太」な人をイメージすればいい。

現代では「正義」という表現が義を曖昧にしてしまったのだが、「義憤」と言えば少しは分かるのでは?

最近のニュースで言えば、
 女子大生を34カ所も刺したストーカー男が、女性の生命力で奇跡的に助かったからといって殺人罪ではなく殺人未遂罪で裁かれ、たった14年の刑期を終えて出て来ることになった。被害者女性は言語に絶する恐怖と苦しみを味わったあげく、重度の障碍を負わされ人生を踏みにじられ、そのうえ再び殺される恐怖の中に閉じ込められて一生を生きていかねばならない。刑罰はむしろ被害者のほうへ下されたようなものである。……
という話を聴いて「なんだこの圧倒的な加害者有利社会! 国家ぐるみで犯罪者を援護し被害者の苦しみを愉しみやがって! 裁判官ども、てめーらは全員ストーカーと同罪の変態だ! 絶対許せねぇ!!!」と激しい憤りを覚える。
これこそが「義憤」

「義憤」は人間であれば誰もが共通して抱く感情。
一例として上の判決が下された時のネットコメント欄を参照。

「義」の感情は本能であるから、法律とは食い違う場合がある。
そもそも大昔は義と法律がほぼ同じだったので義は戒めのことを意味したが、本能を後から追いかける法律はどうしても遅れ、食い違ってしまう。システムが複雑化した現代では多くの法律がエラーを生じ「義」に反している。
本能的な「義」は現代の社会システムと離れて、人の心の中に置き去りにされているようである。

(なお、西洋で言うところの「自然法(神の法律)」もこの「義」を含むと考えて良い。西洋の自然法は「神様が作った」と言われているが、義は人間という種が生まれる前から存在している本能なのだから、「自然に存在する法」と考えるのはあながち間違ってはいない)

昔はこの「義」に相当する感情は教育で後天的に備わるものだと考えられてきた。だが、現代の心理学・脳科学でどうやら先天的本能であるらしいと分かってきた。
0歳児でも「義」を理解しているという研究発表がある。
 ⇒赤ちゃんにも正義感? ヒーロー選ぶ実験結果 京大
 正義感は人間の本能? 攻撃された弱者を見ても何もしない「傍観者」より、弱者を助ける「正義の味方」を選ぶ性質が、生後半年の乳児の段階で備わっていることを、京都大などの研究グループが明らかにした。31日、英科学誌ネイチャー・ヒューマンビヘイビアに発表した。

ゴリラや猿、犬猫などにも「弱者を守る」という道義的行動が観察される。
故に人間という種が生まれる以前から存在する生物の本能であると言える。

この「義」を持って生まれないことは可哀想だが「サイコパス」と呼ばれる障碍だ。
(サイコパスとは良心を感じることが難しい先天的脳障害。診断された方が気の毒なので書いておく、サイコパスの全てが反社会的行動をするわけではない)

またサイコパスとは別種の人格障碍も様々あり、「利己主義から平気で嘘をつく」というタイプの障碍もある。

さらに、身体的暴力や恐怖を与える洗脳教育などで後天的に「義」を失わせ、障碍者として育てることはどうやら可能らしい。
一神教カルト宗教の「異教徒を殺せ」という教育はその典型例。この歪んだ教義から最凶のファシズム(広義)が生まれている。

また現代の放任主義・欲望を肥大させる教育も、「義」が育たないように仕組まれたシステムか。
いつの時代でも、殺人や暴力に快楽を覚えるという悪癖を持って生まれる人々は一定数存在する。サイコパスとはまた別種で、悪癖への欲望とともに「義」も僅かながら持って生まれる人々。
昔は彼らの欲望は抑圧され、僅かな「義」のほうをなるべく大きく育てるような教育がされてきた。だが現代では欲望を抑える教育がないので、「義」は一切育たず暴力への欲望のほうが遥かに肥大し、暴力愛好家たちの行いに歯止めがきかなくなっている。

彼ら暴力愛好家たちは、強者の暴力を許すファシズム教義に喜んで飛びつき支持する。ファシズムは弱者を好きなだけ犯して殺すことが許される制度だからだ。(もちろん暴力愛好家たちは、自分たちは権力者側になるのだという妄想を抱いているので支持している。自分たちが弱者として虐げられる想像は夢ですらできないだろう)
裁判官も暴力愛好家の仲間なので、彼らを徹底して援護する。
暴力愛好家、殺人愛好家にとってこれほど幸福なユートピアはない。
トランプが大統領となった時にアメリカの差別団体に属する人たちが、「これでやっと自分らしく生きられる。差別の暴力に好きなだけ浸ることが許される素晴らしい社会となった」と喜んでいた。この発言こそ彼らの正体を表す本音だ。
暴力愛好家たちは表向きもっともらしい理屈を掲げるが、本当の目的は
「暴力したい。犯したい。殺したい」
なのである。国家のため・人民のためなどと微塵も考えていないので、際限なく欲望を貪りやがて必ず国家を滅ぼす。(肥大した欲望は自分自身をも食い殺す)

現代ではこちら側の、暴力愛好家たちのほうが少しずつ増えているように思う。

日本でも今この人たちが集まり、
「軍国ファシズムのユートピアをもう一度実現させよう!」
という旗を掲げて権力を背後から操りつつあるようだ。

騙されないで欲しい。国家のため、人民のため、という理屈は全て嘘だ。彼らは九条の改憲すら目的としていないらしい。
(ターゲットとしているのは、あなたの人権を守り、あなたを監禁して拷問することを禁じる条文。頼むから、九条以外も読め。大人のくせに九条しか読んだことがないとは何という無知、怠慢)
当然ながら彼らが「国民を守るために戦う」などということもあり得ない。国が危なくなったら彼らは真っ先に逃げ出すだろう。
ただ人権を制限した国家で、自分たちが支配者になって好きなように振る舞うことしか考えていない。


最後にもう一度大声で言っておく。
今、国会で使われている「道義」とは意味が真逆にすり替えられた偽の言葉だ
「道義」とは弱者のために使われる言葉であり、彼ら権力者の利益のために使っていい言葉ではない

親を敬い、先人を敬うべきなのは当たり前の道徳。しかしそれは親と先人が立派な行いをしているという前提でのことだ。
孔子は権力者に対する道徳をあえて強く説かなかったが、それは権力者側が君子(立派な人)であることが大前提だったからで、孟子はむしろ権力者側のほうの道徳を説いている。

親や先人への忠誠心は下の者が自発的に持つものだ。
尊敬すべき君子なら自然に忠誠心を持たれるだろう。
権力者側から下の者たちへ忠誠を押し付けることは、ただの「暴力」と呼ぶ。

権力者は一方的に国民へ暴力をふるい、国民はその暴力を黙々と受けて従うのが「道義」であると教えるのは「道義」などではなく許されざる犯罪だ。

「道義」によって断罪されるべきなのは、今の世を牛耳ろうとしているこの暴力愛好家たちである



※この記事において「ファシズム」または「ファッショ」とは、強者優遇の独裁主義を表す広義の意味であり、イタリアにおける限定的・狭義の政党思想のみを指すものではありません
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吉野 圭-Yoshino Kei
Posted by吉野 圭-Yoshino Kei


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