2014
May
15
-
永遠に、“我ここに立つ”
前記事で、「我站在湖辺」という歌がなんとなく理解出来たのは、(小説サイトから来た方には言うまでもなく)自分の小説タイトルと似た文だったからです。
正直申し上げて、私は中国語を解する人間ではありません。
小説のタイトル、『我站在傍辺』は中国語教室の先生に日本語タイトル「私は傍に立つ」を見せて、訳していただいたものです。
そのタイトルを確認のため中国人の大学教授に見せたところ、
「興味をかきたてる、めずらしいタイトルだね。文学的でとてもいい」
というお言葉をいただきました。
"私は傍に立つ"が、「何の?」という部分を隠しているので、神秘的な印象を受けるとのことです。
偶然にも、『印象西湖』を見ていてその表現が目に飛び込んで来たため、正直どきっとさせられました。
きっと『印象西湖』でのあの表現も、文学的な神秘性を狙ったものなのでしょう。
(ということが、たまたま上の自分の経験から理解出来ました)
"私は湖に立つ”、ここでは「何故?」という部分が隠されているため、神秘を演出しているのではないかと思います。
『印象西湖』が文学的に何を表現したかったと言うと、やはり「永遠」ではなかろうかと思います。
「私は永遠にここに立つ」。
千年だろうと、二千年だろうと。
その悲劇的なストーリー、メランコリックさに打たれ、私は先日つい共鳴してしまったものです。
無意識ではありますが、私も『我站在傍辺』というタイトルで「永遠」を表現してしまったのかもしれません。
執筆から既に15年が過ぎました。
その“記憶”が現実に在った時から数えれば、どうやら二千年近く(仮)も過ぎているようです。
(仮:あくまでも自分の記憶に基づく感覚での経過年数)
前世などというものが現実にあるのかどうか、分かりませんでした。
「気のせいだ」と何度も自分に言い聞かせて来ました。
しかし宿曜占星術などを見れば、その内容が前世の記憶と完璧に一致している。
自分の内部だけのものであれば「気のせい」で済ますことが出来たのですが、外部から来たものは否定しようがありません。
やはり、何らかの形で前世――魂の経験というものはあるのだろうし、自分は記憶のままの経験をしたのだろうと考えるしかないのでしょう。
過去あった出来事は消え去ることはないのです。それこそ永遠に。
完全に忘れたかな、離れたかな、と思っても、こうして不意なきっかけで蘇ることがあります。
最近も相変わらず、古い時代の戦争のことなど学ぼうとしている自分がいます。
今さら古代の戦争話を勉強してどうするんだ、全く意味がない、と笑いながらです。
どこかで関わりたいという想いが未だにあるのかもしれません。
私の心の一部は、相変わらずあの場所に「永遠に」立ち続けているのだろうと思います。
一瞬は永遠に刻まれます。
物質は、時間の経過とともに風化して失われてしまいます。
人の心も時間とともに変化します。
ところが一瞬一瞬の出来事は決して消えず風化もしません。その出来事が存在した一瞬の時空に「時の流れ」は無縁だからです。
物質や人の心がいつまでも変わらずに存在し続けることを「永遠」だと解釈していて、「永遠などない!」と怒り心頭で否定する人がいますが、本来の「永遠」とは時間と関わりないものですからそのように風化する物は始めから意味しません。
私が「永遠」と言う時、それは今でもその当時の痛みを引き摺っているとか、過去にすがっているということではないためご安心を。
「永遠に物が存在しなければ不幸」と思ったことも一度もありません。
痛みもすがる気持ちもなく、ただ今は「永遠に刻まれたあの一瞬」を懐かしく眺めたいだけなのです。
正直申し上げて、私は中国語を解する人間ではありません。
小説のタイトル、『我站在傍辺』は中国語教室の先生に日本語タイトル「私は傍に立つ」を見せて、訳していただいたものです。
そのタイトルを確認のため中国人の大学教授に見せたところ、
「興味をかきたてる、めずらしいタイトルだね。文学的でとてもいい」
というお言葉をいただきました。
"私は傍に立つ"が、「何の?」という部分を隠しているので、神秘的な印象を受けるとのことです。
偶然にも、『印象西湖』を見ていてその表現が目に飛び込んで来たため、正直どきっとさせられました。
きっと『印象西湖』でのあの表現も、文学的な神秘性を狙ったものなのでしょう。
(ということが、たまたま上の自分の経験から理解出来ました)
"私は湖に立つ”、ここでは「何故?」という部分が隠されているため、神秘を演出しているのではないかと思います。
『印象西湖』が文学的に何を表現したかったと言うと、やはり「永遠」ではなかろうかと思います。
「私は永遠にここに立つ」。
千年だろうと、二千年だろうと。
その悲劇的なストーリー、メランコリックさに打たれ、私は先日つい共鳴してしまったものです。
無意識ではありますが、私も『我站在傍辺』というタイトルで「永遠」を表現してしまったのかもしれません。
執筆から既に15年が過ぎました。
その“記憶”が現実に在った時から数えれば、どうやら二千年近く(仮)も過ぎているようです。
(仮:あくまでも自分の記憶に基づく感覚での経過年数)
前世などというものが現実にあるのかどうか、分かりませんでした。
「気のせいだ」と何度も自分に言い聞かせて来ました。
しかし宿曜占星術などを見れば、その内容が前世の記憶と完璧に一致している。
自分の内部だけのものであれば「気のせい」で済ますことが出来たのですが、外部から来たものは否定しようがありません。
やはり、何らかの形で前世――魂の経験というものはあるのだろうし、自分は記憶のままの経験をしたのだろうと考えるしかないのでしょう。
過去あった出来事は消え去ることはないのです。それこそ永遠に。
完全に忘れたかな、離れたかな、と思っても、こうして不意なきっかけで蘇ることがあります。
最近も相変わらず、古い時代の戦争のことなど学ぼうとしている自分がいます。
今さら古代の戦争話を勉強してどうするんだ、全く意味がない、と笑いながらです。
どこかで関わりたいという想いが未だにあるのかもしれません。
私の心の一部は、相変わらずあの場所に「永遠に」立ち続けているのだろうと思います。
付記
「永遠」とはその場にあった一瞬のことを意味します。一瞬は永遠に刻まれます。
物質は、時間の経過とともに風化して失われてしまいます。
人の心も時間とともに変化します。
ところが一瞬一瞬の出来事は決して消えず風化もしません。その出来事が存在した一瞬の時空に「時の流れ」は無縁だからです。
物質や人の心がいつまでも変わらずに存在し続けることを「永遠」だと解釈していて、「永遠などない!」と怒り心頭で否定する人がいますが、本来の「永遠」とは時間と関わりないものですからそのように風化する物は始めから意味しません。
私が「永遠」と言う時、それは今でもその当時の痛みを引き摺っているとか、過去にすがっているということではないためご安心を。
「永遠に物が存在しなければ不幸」と思ったことも一度もありません。
痛みもすがる気持ちもなく、ただ今は「永遠に刻まれたあの一瞬」を懐かしく眺めたいだけなのです。
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