囲碁・将棋の擬人化~盤上ゲームが苦手な理由

この話に唸る。
囲碁が将棋に比べて取っつきにくいイメージを持たれるのは擬人化しづらいからかと思って、擬人化して説明する方法を考えてた時期があるんだけど、「周囲を敵に完全に囲まれたら逃げ道がなくなってボコられて死ぬ」というルールは色々生々しすぎて、却って一部の人にしか受けないものになってしまった。
— 佐藤ケイ(´ヮ` )2月新刊 (@K9uNS7uFrBC31BA) 2017年7月21日
例えば捨て駒にした駒が最後の最後でこっちの玉を詰ます決定打になったりすると、「香車! 貴様、生きていたのか!」「あの時見捨てられた恨みを晴らすこの時を待っていた!」みたいなドラマが思い描けるので、将棋の擬人化は楽しい事が多い。
— 佐藤ケイ(´ヮ` )2月新刊 (@K9uNS7uFrBC31BA) 2017年7月21日
囲碁は囲碁で、死んだ者はもう生き返らないからこそ生まれるドラマ性というものがあるとは思うんだけども。さっきのウッテガエシにしても、敵になぶり殺しにされた仲間の仇を討つため、単身的のど真ん中に飛び込んで皆殺しにする、みたいな妄想は結構はかどる。ただどうしても殺伐とする感は否めない。
— 佐藤ケイ(´ヮ` )2月新刊 (@K9uNS7uFrBC31BA) 2017年7月21日
でもこの殺伐感があるからこそ、敵地のまっただ中に取り残された少数の仲間を何とか救い出そうと石を繋げていく展開なんかは非常に手に汗を握る物になると思うし、助け出せた時の喜びが大きいのも事実。
— 佐藤ケイ(´ヮ` )2月新刊 (@K9uNS7uFrBC31BA) 2017年7月21日
なるほどね……、駒(石)ごとの擬人化か。
極めているなあと感心。尊敬する。
頭の中で擬人化して妄想するほどであるのは、相当に極めてらっしゃる証だろう。
前にも書いたが私は囲碁・将棋・チェスと関わらずに生きてきた。
と言うと意外に思われるのだけど。
(「前世」という話は抜きにして。幼い頃からお勉強ができたために「盤上ゲーム得意そう」と思われる。また、占星術でも私のネイタルMCに「チェス」の象意が出ているので、「チェスなどやらない」と言うと意外に思う方が多いらしい)
このため実はほとんど盤上ゲームの知識はないのだが、少しだけ学んだ経験で言うと、私の場合は一駒(石)を数十人~数百人の隊として想像しているかな。
キャラクターとしての擬人化はしない。
従って歴史小説のようなドラマも妄想しない。
ひたすら一駒=何人の「命の数」として頭の中でカウントしている。
それはたぶん一人の人格を思い浮かべるよりも、生々しく嫌な想像だ。
だからこそなおさら盤上で駒を動かすことに恐ろしさと嫌悪を覚え、囲碁・将棋を避けてきた。
避けた理由としてもう一つ、相手がぶつけてくる感情が嫌で嫌でたまらなかったということもあるが。
「お前に勝って見下してやる」という相手のプライド、勝つことで優越欲求を満たしたいという欲望がたまらなく嫌で、気持ちが悪いと感じてしまう。
つまり私は「盤上ゲーム恐怖症」という病気で、勝負事を過度に恐れるコミュ障だ。
ただ、囲碁と将棋だったら僅かの差で囲碁のほうがマシ……、という気がする。
それは上の方のご指摘の通り、囲碁のほうが殺伐としていてリアリティがあるせいかもしれない。
たとえば痛みの経験がある人は、中途半端に痛みの表面を撫でるフィクションよりも、現実そのままを見たほうがまだ楽だったりする。
将棋のように死んだはずの駒が生き返る、生易しい展開はかえって辛い。
しかも将棋は生き返った味方が敵に寝返っていたりする。
私には腑に落ちず、感情的に混乱するので抵抗感が強い。
将棋は日本の戦国時代的な感じで、いかにもこの国の風土に合っている。
将棋向きの人、囲碁向きの人とタイプが分かれると思うが、世界の戦いはたぶん囲碁的だ。
世界は「慣れ合い」が通用しない。
だからグローバルな人材を育てるには囲碁のほうが教育として良いだろうな。
殺伐とした世界のリアルを子供に教えることが、正しいかどうかは別として。
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