そして今月の8日~21日に起きる天体ショー(月食→日食)では、いよいよ水瓶座が象徴する公平の時代へシフトチェンジすることが示唆されている。
しかし世界を眺めると、間もなく公平の時代が訪れるとは想像もできない状況だ。
ヘイトクライムの声は日増しに高くなり、人種・国境の溝はいっそう深くなりつつあるように感じられる。
よく言われているように今は世界中で、抑えられていた差別意識が一気に噴出したようだ。
根本的な問い
この世相を眺めて私は、「何故、差別はなくならないのか」という根本的な問いを胸の内に蘇らせている。
幼い頃から何度、この問いを繰り返してきただろうか。
いや、正確には、「何故、差別するのか?」という問いなのだが。
そもそも私には差別するという感覚が分からない。
情報の学習による警戒心――たとえば「この団体に所属する人はこういう行いをするよう教育されているから警戒しよう」等――はあるが、人の肌など生まれつきの属性で反射的に憎しみを抱いたことがない。
だから本気で差別の意識を持ち、民族や性的マイノリティを罵倒したり暴力をふるっている人を目撃すると異界の者に出会ったように感じてしまう。
たとえば他人を拷問したり殺すことに快楽を覚える人に接した時と同じくらい、理解不能な価値観を持つ存在に感じる。
何故、差別主義者と呼ばれている人々は本心から差別できるのだろうか?
(その差別が快楽なのか、そんな生き方をしていて楽しいのか?)
答えてくれるものなら差別主義者たちに問いかけてみたい。
二種類の差別
「差別」と呼ばれるものには二種類ある。
一つ目は本人には理由不明な無意識の差別。
幼少期に親や所属する国家などから執拗に差別のための教育を受け、考える余裕も与えられずに差別意識を刷り込まれた結果、本人もコントロール不能な無意識から「敵」を憎むようになったもの。
もう一つは、情報を得た結果、意識的に抱くようになる警戒心。
卑近な例を挙げれば、ヒアリを知らなかった我々が「その虫は人を死に至らしめる危険な害虫」というニュースを見て蟻を警戒するようになる。遠目に見てヒアリなのか無害な蟻なのか分からないから、とりあえず蟻の集団を見たら警戒しておくほうが無難と思う。……この「蟻を見たらとりあえず警戒するのが無難」という意識がラベリング。
こういう警戒心は危険回避のためにある程度、必要。
二番目の警戒心を完全否定すべきではない。
ごく正常な警戒心までを「差別」と呼んで非難するのは間違っている。「なんでも始めから差別しないで受け入れろ」と言うのは無防備に死ねと言っているに等しく、酷だと思う。
反差別主義者の人たちのなかには、差別することを過剰に嫌悪するあまり何でも受け入れることが善・正義だと信じる人もいる。その結果、詐欺やカルト宗教に簡単に騙されて大変な目に遭っている人も見かける。
無防備は差別主義の反対なのではない。
冷静に淡々と警戒のラベリングをし、個々に危険かどうかを調べたあとでラベルを剥がすということをすれば問題ないと思う。
問題なのはラベルを剥がせなくなってしまう人がいることだ。
無意識まで警戒心が浸透し、やがて個々の精査なく、肌の色や集団など表面的なグループ分類だけで迫害するようになる。こうなれば結局は一つ目の「差別」と同じになる。
警戒はいいが、ラベルを剥がせるかどうか
私はどちらかと言うと二つ目の「警戒」ラベルを多く持つほうだと思う。
(これもおそらく前世の職業病)
危険回避のためにアンテナを張り情報を仕入れ、「あの集団に属する者は過去にこのような行いをしたから気を付けるべし」とラベリングする癖がある。
時々、自分の中のラベルを表に出すと過激な反差別主義者から「お前は差別主義者だ!」と批判され攻撃されるのだが、全てのラベルは意識的に貼った覚えがある。
何故、その警戒心を持つに至ったか理由を全て記憶している。
理由を覚えているので、いつでもラベルを剥がすことができる。
たとえば最近私がよく書いている一神教徒への「警戒心」だが、これは現実にキリスト教徒たちがやった残虐行為を理由とし、また現在進行形の一神教同士の醜い殺し合いを見ていて「こんな宗教を日本に広めるのは危険だ」と冷静に考えているだけである。
殺人や残虐行為を容認するどころか推奨している宗教団体について、「あの団体は世界最凶」と考えるのは当然のこと。破防法を適用すべきだと思っているし、日本では国家全力をあげて排除すべきだと思う。
ただしその宗教の信者となっている人を、一律で差別する者ではない。
確かに教義を利用して残虐行為をしようとしている魂は多いのでとりあえず警戒しておくべきだが、キリスト教徒の中にはマザーテレサのように驚くほど善良な人がいることは分かっているし、イスラム教徒にも平和主義者が多いことを知っている。
現実で会う人に対しては、その表に付いているラベルを越えて個々の人間性で判断するよう努める。
何故、こういう一見矛盾したことが出来るのかと言うと、人間の奥底には同じ魂があると分かっているからかもしれない。
ラベリングの記憶を持たず、相手の本質を見ようとしない人はやがてラベルを心の奥深くに浸透させ、正真正銘の「差別主義者」になるのだろう。
まとめ
物質社会は、物質であるのだからぶつかり合うことは避けられず、危険に溢れている。
だから危険回避のための警戒心を持たないわけにはいかない。
「差別をなくせ!」
と叫ぶ人たちが願う、完全平等の警戒心ゼロの世界というものが実現するのは不可能だ。
不可能なものを願う限りいつまでも公平な社会は実現しない。
もっと現実的に、警戒という意味でのラベリングが無くなるのは不可能だと認めて、違いがあることも認める。
その違いにふさわしく個々に妥当な報いを与える。
それが本当の意味での「公平」「平等」な社会と言えるのではないだろうか。