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安楽死を考える (スピ的な考察)

少し前の話だが、橋田壽賀子さんの『安楽死で死なせてください』という本が話題となっているらしい。

 ⇒橋田壽賀子と安楽死#1「そろそろ、おさらばさせて下さい」という権利があってもいい/『安楽死で死なせて下さい』を書いた理由

私が安楽死を望むわけ
©鈴木七絵/文藝春秋

 人さまに迷惑をかける前に死にたい。それが私の望みです。
 家族がいれば、子どもや孫の成長を見届けたかったり、できるだけ生きていて欲しいと望まれることでしょう。けれども私は、夫に先立たれ、子どもはなく、親しい友人もいない。天涯孤独の身の上です。
 仕事は嫌というほどやったし、世界中の行きたい場所へ行きました。もうじゅうぶん生きて、やり残したこともなく、思いを残す相手もいません。
 いまはまだ自分で生活できていますが、足腰が立たなくなったらどうしましょう。行きたいところへ行けず、食べたいものを食べられなくなったら。いつの間にか認知症になって、何もわからなくなってしまったら。
 食事から下の世話まで人さまの手を借りるなら、そうなる前に死なせてもらいたい。これは、尊厳とプライドの問題です。死ぬときに、痛いのや苦しいのも嫌です。だからいつどうやって死ぬか、自分の意思で決めさせてもらいたい。それには安楽死しかありません。
 ヨーロッパのいくつかの国やアメリカのいくつかの州では、安楽死が合法です。だから日本でも認めてもらって、わざわざ外国へ行かなくてすむようになれば助かります。


うーん……。どうだろうか。難しい。
現代特有の難問だと思う。

私が思うに、不自然な機械的技術で延命されている人はこの世で最も苦しい拷問を受けているようなもの。
できればそのような拷問は何人に対してもやめて欲しい。
(私は愛する人が苦しむ様子を見るのは絶対に嫌だと思うし、自分自身がそのような目に遭うのも嫌だ)

機械の助けなくして肉体が生きられなくなった場合の「延命拒否」または、「延命中断」の権利は当然にあると思う。
それは人間の目からは確かに「自殺」に見えるのかもしれないが、実はとうに魂が計画した寿命が訪れているとも言える。
だから寿命の放棄に当たらない。
残酷なことを言うと思われるかもしれないが、むしろ無理に生かすこと以上の残酷はこの世にない。誰にでも自然な寿命を受け入れる権利があるのではないか?

反対意見もあるだろう。
このような難問を考えなければならないのは、延命などという無理な行為が可能になった現代だから。
ほんの百年前なら考える余地もなかった話だ。
地上で寿命を決めざるを得ないとは、難儀な時代だな。
これから『銀河鉄道999』なみに機械の体が現実のものとなれば、もっと複雑な議論が噴出するだろう。

「寿命」がどの時点だったのかの判断も難しい。
たとえば、現代医学による薬がなければ死んでいたはずの若者について、「薬を飲まない状態が自然で、そのまま死ぬのが寿命だ」と言うべきかどうか?
私はそこまで言うのは酷だと思うし、実際に間違っていると思う。
現代という時に生まれることは計画されていたはず。ということは、「現代医療で命が救われた」という経験もまた予め定められた運命であった可能性がある。

生まれつき機械の力を借りて生かされなければならない体に生まれた人が、「本来生きるべきではなかった運命」であったのかと言うとそれも違う。
ずっと寝たきりで、話すことも叶わず生きた苦しい人生であっても、その人生には意味がある。
むしろ大きな成長を促す重要な人生であると言える。
その人にとっては現代に生まれたことこそが重要な定めであり、計画の一つだ。

だから一概に、
「現代医療の助けを借りてはいけない」
「薬は飲むな、延命はするな」
とも言えないのは確か。

ただ……、役目を終えたとご自覚されている年配の方に対し、「苦しいだろうけど機械の力を借りてずっと生きてくれ」とは言えない。私は。
本人が寿命を過ぎたと自覚しているなら、実際そうであることが多いのではないか。


おそらく問題なのは、橋田さんの使っている
「安楽死」
という言葉かもしれない。

「安楽死」という言葉からは自殺が連想される。
もし、国家で安楽死を合法化してしまえば、「自殺が認められた」と勘違いする人も出て来るだろう。
十代の自殺が増えることは言うまでもない。
単に面倒くさいことから逃げたいだけの我がままな大人子供たちの自殺も、爆発的に増えそう。

現に私の知る大人で、まるでレジャーに行くかのようにとても楽し気に自殺を選ぼうとした人がいる。
曰く、
「苦しいことは嫌。人生から自由になりたいから死ぬ。人間には自殺する権利がある」と。
たいていの奇抜な考えを受け入れる私でも、さすがにこれは呆れた。大人とは思えない。なんて安易で我がままなのだろう。

現状ですらこのように「ライトな感覚」で死を選ぶ人がいる。
そのため自殺者数は、殺人や事故で死亡する人を遥かに上回っている。
こんな現状でもし国が「安楽死」を合法化したら、自殺者が爆発的に増えるのではないだろうか。
特に日本人は自殺を選んだ人に対して優しいから、その傾向が強いのではないかな。
宗教上、自殺をタブー視し、自殺した者の遺体を踏みつけにするような文化を持つ欧州とはまた事情が異なると思う。


そう言う私も十代の頃は「人間には自分で死ぬ権利がある」と信じていた。
何故なら、「死ねば無」だと心から信じていたので。

実は私自身は、生まれつき「生きること」への関心がほとんどない。今も生への執着はあまりない。
そのため前世を知るまでは、
「早く死にたい。六十年後に死ぬくらいなら、今すぐ死にたい」
と思っていた。
自殺が罪だとか不利だなどと思ったことは一瞬たりともなかった。
物質としての肉体しかないと信じていたので、百年後に死ぬことも1秒後に生きることも全く同じ・生きることに意味なんかないと思えたわけだ。

そうではないという、衝撃的なことを知ったのは前世を知った十七歳の夜だ。
肉体はただお借りしているだけの乗り物であって、人生には定められた(自分で定めた)計画がある。
人生計画は自分だけのものではない。他の魂たちと延々つながっている鎖の一つである。そんな人生計画を放棄することは他のたくさんの魂たちに多大な迷惑をかけることを意味する。
そう知った瞬間から、「とても自殺などできない」と知った。

利己主義の人はそれでも自殺しようとするだろう。「他の魂へ迷惑をかけることなど知ったことではない」と言って。
しかし自分自身も苦しむことになる。
魂は、天寿が来るまでは文字通りの「お迎え」が来ない。予め定められた時が来ない限り、地上に留まらなければならない。
それは義務というよりシステム
苦しいからといって命を絶ったとしても、その苦しみが死後も続いてしまう。タイムリミットが来るまで。
死んだ後に長く苦しむのは、なおさら地獄ではないか? 

スピリチュアル的な体験を自分でした人はこのような事実を知る。
だから宗教に拘わらず、口を揃えて同じことを言う。
「悪いことは言わない。自殺だけは、やめておけ。あなたのためにならないから」と。
どこかの残酷な宗教が主張しているように、自殺が罪、ということはないのだけど迷惑なことは確かである。
その迷惑がマイナスのカルマとなり、苦しい人生を再び負うことになってしまう。

私はこんな損得話で自殺をやめさせようとする気はさらさらなくて、ただシステムだから伝えているというだけのこと。
このようなシステムを知らない人たちに、「安楽死合法化」という言葉で国家が自殺を後押ししてしまうのはお奨めできない。

せめて、
「延命措置を拒否する権利」
とともに
一度希望した延命措置であっても後から変更して拒否する権利
を合法化することが限度ではないだろうかと思う。

(今の日本国では後者が認められていない。一度希望した延命措置を医師や家族が中断することは殺人になってしまう。これは残酷なこと。どれだけ苦しいかは体験した後でなければ分からないというのに)

※ガイドライン上は少しずつ延命中止が認められつつありますが、まだ完全ではありません
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