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各記事に散らばっている諸葛亮(孔明)の性格特徴、人物像をまとめておきます。
2019/1/5 正史『諸葛亮伝』の翻訳をしているため、伝記(簡略版)は撤去しました。

 おススメ:正史『三国志』わかりやすい日本語で翻訳中。解説付き

〔目次〕
基本的なこと。まず、何の仕事をした人なのか
歴史家による人物評
エピソードに表れた人格
見た目には、そんなに凄い感じじゃない
・(別記事)諸葛亮のホロスコープ分析はこちら
参考文献
後書き。何故、この記事を書いたか



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基本的なこと。まず、「何の仕事をした人なのか」

諸葛亮(しょかつ・りょう)/孔明(こうめい)とは、一言で言えば古代に生きた戦略家であり政治家です。
約1800年前、現在の中国がある地域に生きていました。


名前についてはこちら。古代中国の名前、「姓」「名」「字」について。「諸葛亮孔明」は間違い


西暦200年頃の古代中国は魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)の三国に分かれて戦争をしていました。
そのうちの蜀という国で、諸葛亮は防衛部門のトップを勤めました。劉備が蜀の皇帝となってからは首相を勤めています。


フィクションの『三国志/三国演義』での彼は、奇想天外な作戦を立てて敵を翻弄する天才作戦家として描かれているようです。
(筆者は『演義』系フィクションを読んだことがないので正確なことは分かりません、すみません)
『演義』という書物は彼の死後1000年後に編まれたものですが、実は生きている当時から「天才軍師」として騒がれ敵国に恐れられていたことはあまり知られていないようです。『三国演義』のベースとなる民間伝承は、彼の死後だけではなく生きている間から語られていたものと思います。


参考:宇山先生、孔明を天才と祭り上げたのは司馬懿ではありません


ただ本人は下で書く通りいたって地味な人物でした。
なお、役職と最終地位名を正しく言うと、「軍師(ぐんし)」および「丞相(じょうしょう)」となります。
「丞相」とは大臣のトップ、首相のことです。


「軍師」という役職のほうは、現代日本人には理解するのが少し難しいと思います。と言うのも、日本の歴史創作で使われる「軍師」または「参謀」という用語が、中国における現実の「軍師」と全く違うからです。


まず、日本で使われる「軍師」や「参謀」の用語イメージを頭から消し去ってください。


古代中国で「軍師」とは、戦場で殿様の耳に作戦を囁く者のことではありません。特に軍師職トップが戦場へ同行することは滅多にありませんでした。


厳密に言えば軍師の定義は時代によって違うのですが、三国時代当時の仕事内容から言えば、「軍師=国防省の職員」等をイメージするのが正確です。つまり国家戦略や、戦争全体の作戦を考える軍事専門家です。(ここで言う軍事とは平時の政策も含まれる)


諸葛亮の役職「軍師将軍」というのは、その専門家たちをまとめる長官(トップ)ということになります。職場は戦場ではなく、内勤のデスクワーク。官公庁の庁舎に閉じ籠もっている官僚さんをイメージすると正しくなります。


追記: 諸葛亮個人の立場としては、防衛府の長官・国家政策立案の他に、劉備直属の補佐役でもありました。だから現代俗語の「ナンバーツー」と呼ぶのが相応しく、独特なため正式な中国の地位で表現するのは難しいかもしれません。通常、中国王朝でこのように一人へ権限が集中することはあり得ないので稀有なことのようです。


だからよく、「諸葛亮は一度も作戦らしい作戦を立てたことがない」などと得意げに語っている三国志マニアがいますが、その人はフィクションの知識しかないお子様なのだと思って間違いないでしょう。


「戦争」という言葉が戦場だけを指しているのだと思うのは誤りです。
戦争とは戦時中における国家の営み全てを指す用語です。従って戦場に同行していなければ「作戦を立てていない」のではありません。現実には、蜀の国家戦略全てに諸葛亮が関わっていたと言えます。


詳細:軍師とは何か


生い立ちと、大まかな生涯


 →正史・諸葛亮伝 翻訳中のためカットしました。



歴史家による人物評

陳寿など近い時代の歴史家評によれば諸葛亮の性格は次の言葉でまとめられるようです。

・忠義、公平、厳粛、無私
・法の運用において私情をはさまず、「忠義をつくして人民の利益をはかった者には、意見の対立した者でも厚く賞し」、「法度にそむき職責に怠慢な者は、親族であってもかならず処罰」するなど徹底的に公正だった
・臨機応変が不得手
・独特の発想をした(新奇の工夫が得意だった)

陳寿評の原文訳はこちらにあるので、参考にしてください。


エピソードに表れた人格

歴史家の評は素晴らしい。しかし人間の個性は、何気ないエピソードに強く表れるもの。
この項目では各種逸話に表れた諸葛亮の性格を分析してみます。


・若い頃のエピソード:

学習法として、重箱の隅を突くような暗誦を嫌い、テキストは一度読んだきりで読み返すことはなかった。学友たちが細かい学習にこだわり議論しているのを眺め、「君たちはそれだけ懸命に勉強しているのだから、少なくとも県知事にはなれると思うよ」と言った。

…これは本人が後に「県知事」を遥かに超える出世をしているため、「自分はお前らより優れている」との嫌味で言ったものと解釈されています。
私が思うに、ただ本心から「君たちは県知事になれる」と思ったのでそう言っただけでしょう。「必死で細部まで勉強している人たちは偉いな。自分には真似できない」という素直な感想です。
そうであっても、この態度はいけませんね。子供っぽい。
内心、出世にこだわり必死で勉強する人々(ガリ勉)を気の毒だと思う気持ちがあったのは否めないと思います。



・わりと細かかった晩年:
『襄陽記』にいう。楊顒は字を子昭といい、楊儀の一族であった。蜀に入って、巴郡太守となり、丞相諸葛亮の主簿となった。諸葛亮があるときみずから金銭や穀物の出納簿を調べていると、楊顒はずかずかと入ってきて次のように諫言した、「行政には役割というものがあり、上下たがいに侵犯しあってはならないのです。どうか明公(※この場合は諸葛亮の事)のために、一家の仕組みをたとえに説明させて下さい。いまある人が奴隷に耕作を行なわせ、婢に炊事をまかなわせ、鶏に時を告げさせる役を、犬に盗人にむかって吠える役を、牛に重い荷物を背負わす役を、馬に遠方へ行く用をつとめさせますならば、各人の仕事には空白がなく、必要なことはすべて充足し、悠然と枕を高くして寝、飲み食いしていればすむのです。ところがある日突然、自分自身でそれらの仕事を何もかもやってのけ、二度と人まかせにしないで、自分の体力を労し、この煩雑な努めを行なおうとするならば、肉体は疲労し精神も困憊して、けっきょく何ひとつ仕上げられないでしょう。
(中略)
いま明公には政治を行うにあたり、手ずから出納簿をお調べになって、一日じゅう汗を流しておいでになられます。あまりにも労働過重ではないでしょうか。」諸葛亮は彼に陳謝した。のちに東曹属となって官吏の選考を司った。楊顒が死ぬと、諸葛亮は三日間涙を流し続けたのだった。

――『楊顒の逸話に見る諸葛亮の素直さとワーカホリック体質』より再引用、感謝!(原文はちくま文庫『正史蜀書』。上記事が面白かったため引用リンクさせていただきました)
「孔明は細かい」と有名になった原因のエピソード。
私の感覚として完全なる史実だと思います。
命がけの軍事で怠慢を許せないのは当然のことですが、武器管理の現場に総司令官が乗り込んで行くのは……まずかったのではないでしょうか。現場担当者はたまったものではなかっただろうと想像します。

・でも、自分が悪いと思ったら素直に謝る: 
上にある通り、部下に叱られた事件の後、亮は「その通りだね。申し訳ない」と謝ったそうです。上記事から再び引用。
3について
そして素直に謝っちゃう諸葛亮。立場としては「うるせえな。ていうか、てめえらが役に立たねえから、こうして俺が調べてるんだろうが」と逆ギレする事も可能ですが、そこを「え、あ、ゴメン。てか、サーセン」と謝る所がまた凄い。まあ、様々な文献を読んでいていも、傲慢さを伺わせる記述はまず目にしませんので、もしかしたら想像以上に素直な人だったのかも知れないと思ってみたり。
笑……素直は素直なのかもしれない。

通常、権力者は下位の者に意見されたら怒るのかもしれません。
ネットの反応を見ると、「お偉いさんなのに謝ってんじゃねーよ」と諸葛亮を非難する声があるのですが、当時も周りから「おかしい」と思われたでしょう。
このエピソードからは、諸葛亮が自分に意見したというだけのことで他人を断罪するタイプではなかったことが分かります。人や立場ではなく、意見の内容を客観的に判断したと言えます。
しかしおそらく自分がそうであるために、他人も全てを客観的・合理的に判断できると考えていたはずです。
上下も立場も気にせず誰に対しても平等に接し、「合理」優先で意見したために、生じた軋轢は多々あったと思われます。

・友人でも処罰する: 
法的安定性を何より重視しました。→法的安定性とは
泣いて馬謖を斬る」の故事はとても有名のようですが、その行いから「怖い」「冷血ロボット」のイメージがあります。
「冷血ロボット」の評価は正しいのかもしれません。
ただし実際は、法文に対して杓子定規というわけではなく、諸葛亮本人が「処罰は罪に応じて適宜に」と述べている通りケースバイケース(法理論に基づき・過去の判例相当に照らし)で判断していたものと思われます。
なお現代の歴史家が、「諸葛亮は保身のためにライバルを次々と粛清していた」と言っていますが、捏造の誹謗中傷です。そのような記録は一切ありません。

・自分が悪いと思ったら自ら降格もする:
上に同じ。
友人であろうと、自分自身であろうと、対応は同等。
立場ではなく「実際に犯された罪・責任」という中身で「適宜」の処罰を考えました。
(現にロボットと呼ばれる筆者が言うのも何ですが)まるでAIです。

・でも実際は、泣いてばかりいる:
やたらと「泣いた」エピソードが多い。多過ぎる。
情にもろいのか、ロボットなのかはっきりして欲しい。
(本人的にはこの「泣いた」エピソードの多さ、恥ずかしいでしょう……)
おそらく情に弱いくせに行いがロボットなので、なおさら辛かったのだと思います。

上の方、
>しかし、この御仁はよく泣くなあ。
>この時代の人間はちょっと何かあれば泣くのがデフォルトなのか・・・?
いや、違うと思います……。笑

こんなカルタにまでなっている。痛い。
「意外とよく泣く名軍師」
→人生は格言だ!~横山光輝「三国志」武将かるた


・反乱を起こした少数民族と対等に戦い、対等な話し合いをした:
蜀の南方で少数民族の反乱が起きたときに、諸葛亮は自分で軍を率いて反乱を治めました。
そもそも少数民族の反乱に国家の首相が自分で出向く、ということはあり得ない非常識です。ただ、少数民族だろうと蜀だろうと同じ「集団の代表者」ですから、代表同士で話をしなければならないというのが諸葛亮の考えでした。
軍力は対等ではありませんので当然ながら蜀が圧勝し、敵方のリーダー孟獲は捕らえられます。しかし、諸葛亮は彼を捕虜とともに解放しています。
その後、孟獲は幾度も蜀軍に挑むがそのたびに捕らえられ、同じく解放されたことから諸葛亮に心服したとされています。

このエピソードは「七度捕らえ七度放す(七縦七擒)」という諺になっています。
七回というのは少し大げさだと思いますが、捕らえた孟獲と捕虜を解放したのは間違いなく史実です。
孟獲が話し合いに応じたのは、反乱を起こした自分たちを人として扱って解放したことと、何より「首相が自分で話し合いに来た」ということが大きかったのではと思います。

なおこの話は馬謖が進言したことになっていますが、諸葛亮の長年の考えも同様のものであり、信念として一貫しています。
 参考。当ブログ内パスワード記事: 本音。そもそも、「七縦七擒」を馬謖が進言したことになっている史書が不可解なのだが…
(馬謖の唯一の手柄であるかのように語られているこのエピソード、中国では反対に非常識とされるため、史書では馬謖に責任を負わせたものではないかという推測)

「心を攻めろ」
とは懐柔策を意味するのではなく、相手を人間として対等に扱う、という意味です。
 関連する話。韋皋という「孔明の生まれ変わり」

■見た目には、そんなに凄い感じじゃない


これは載せるかどうか迷いましたが、「孔明ってどんな人?」という質問に最も正確に答えるエピソードだと思うので追加しておきます。

三国時代が過ぎて晋の時代。
東晋の武将、桓温という人が蜀に入ったとき、諸葛亮が生きていたときに下級役人を勤めていたという百歳を超える老人の噂を耳にしました。
桓温は興味を覚え、この老人を招いて尋ねています。
「諸葛丞相は、今で言えば誰と比べられるか?」
すると老人は首を傾げてしばらく考え込んだ後、こう答えました。
「諸葛丞相が存命中の時はそれほど特別で偉そうな方には見えませんでした。(質問者の左右に立つ家臣たちを見て、)あなたの横にいる方々のほうがよほど立派で偉い方のように見えます。しかし諸葛丞相がお亡くなりになられてからは、あの方のような人はこの先、もう二度と表れないのではと思うのです」

このエピソードは、『説郛』に収める殷芸『小説』の中に収められているそうです。ウィキペディア(アーカイブ)
西暦347年の出来事とありますが、諸葛亮は234年に死んでいますので、死後113年も過ぎています。老人が二十歳で役人を勤めていたとすれば133歳です。たまにとんでもなく長寿の人はいるからあり得なくはないものの、事実かどうか微妙な年齢です。もしかしたら年代やシチュエーションはフィクションなのかもしれません。

しかし内容はフィクションではないと思います。
実際に若い頃、諸葛亮の近くで勤めていたことのある誰かが現実に語った話でしょう。私が長年、記録と向き合って来たなかで、最も真実を感じて感動を覚えたエピソードです。

諸葛亮はおそらく、
>それほど特別で偉そうな方には見えませんでした。
と思えたでしょう。
どちらかというと気弱で地味なタイプです。だから見た目には偉そうでも凄そうでもなく、どこにでもいる下級役人のように見えたのではないでしょうか。
(上の占星術で見れば内面は変人なので、少し付き合えば「変わっている」と感じるかもしれませんが)

つまり現代で言うところの、「全くオーラのない」人です。笑
だからおそらく「スゴイ人」を期待して諸葛亮に会う人は、ひどく落胆したのではないかと思います。気の毒に。

しかし
>諸葛丞相がお亡くなりになられてからは、あの方のような人はこの先、もう二度と表れないのではと思うのです
というところ、諸葛亮は嬉しいでしょう。

「凄い人だ」と褒めるのでもなく崇めるのでもなく。
対等に、ただ一個の人間として存在を認める。
これほど高度な人間の誠実が表れた評価は、他の歴史人物の記録でも見たことがないと思います。

心が温かくなるエピソードでした。
諸葛亮の魂はこの無名の老人の評価によって、救われたと思います。


【参考文献】

・吉川英治著『諸葛菜』/吉川英治著『諸葛菜』について引用と感想
・陳寿『蜀志~諸葛亮伝』及び裴松之註(特に、陳寿評
・他、知恵袋より史実に基づく真っ当な回答を引用
 性格に関する回答、まとめ記事
 諸葛亮は無能VS有能の争いはいつまで続くのか 1
 諸葛孔明というキャラクター、好きか嫌いか?
 (要パス記事)諸葛亮は、気に入らない人物は左遷したり粛清したりする人物だったのでしょうか?

・筆者考察。
 諸葛孔明は石田三成に似ている? 他に似ている戦略家を考えてみた
 「諸葛孔明って現代でいうどれくらい頭がいいですか?」知恵袋、勝手に回答

・トップサイトの評価
(個人的にメモしておきたいと思ったので引用させていただきます)
諸葛亮はこれまで見てきたように、蜀を建ててその勢力を拡大し、魏とも戦えるだけの実力を備えることには成功しました。

これは諸葛亮の政治家としての能力のたまもので、住民たちは諸葛亮の統治を歓迎し、その死から五百年がたっても諸葛亮の事績を讃え続けていた、という記録が残っています。

しかしその遠征事業は様々な条件の不利によって成功せず、客観的に見るならば、彼は地方軍閥の長になったに過ぎず、いたずらに国の分裂を長引かせただけだと見ることもできるでしょう。

にも関わらず諸葛亮には大きな人気があり、過去から現代に至るまで、多くの人が諸葛亮について語っています。

それがどうしてなのかと考えた時に、ひとつの話を思い出しました。

英雄とは何か、というテーマの文章の中に「人が自己保存を第一に考えるのをやめ、何らかの思想に自らを捧げた時、人は英雄としての意識変革をとげる」という記述があります。

諸葛亮が劉備から受け継いだ漢の復興という志を抱き、その実現のために全てを捧げたからこそ、後世の人々は、そこに英雄の心があることを見出し、どれだけ時代が過ぎても、その存在を気にかけずにはいられないのかもしれません。

優秀な政治家も軍人も歴史上には数多くいますが、諸葛亮をその中で際立たせている要因は、大望のために私心を捨て、自らの命をも惜しまずに尽くした献身の中にこそあるように思えます。

諸葛亮に志を託した劉備の存在と合わせて、両者の物語はこれからも語り継がれていくことでしょう。

https://app.k-server.info/history/shokatsuryou/10/


■後書き。何故、この記事を書いたか

私としては最近この人物の話ばかりしていて、恥ずかしい。でも頑張って書いているのは、読者様サービスのためと、政治的な黒い思惑による人物評の歪みを知ったからです。
(独裁政治を賛美するために、諸葛亮を妄想的な悪口で貶めたうえ、「諸葛亮も我らが曹操様を目指していた。諸葛亮も独裁者だった」という話を捏造している者たちがいること)
政治が、純粋なる人々の精神文化を汚すことを許してはなりません。そう思って亮の真実を書くことを自分に強いている次第です。

★拡散にご協力願います:三国志ジャンルの捏造記事について +蜀ファンへメッセージ
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吉野 圭-Yoshino Kei
Posted by吉野 圭-Yoshino Kei


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