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「孔明ってどんな人だったの?」とご質問される方へ。

回答として、ここに史書から抜粋した諸葛亮(孔明)の性格特徴、人物像をまとめておきます。


〔目次〕
基本的なこと。まず、何の仕事をした人なのか
伝記(簡略版) 大まかな生涯
歴史家による人物評
エピソードに表れた人格
見た目には、そんなに凄い感じじゃない
参考文献
後書き。何故、この記事を書いたか



基本的なこと。まず、「何の仕事をした人なのか」

諸葛亮(しょかつ・りょう)/孔明(こうめい)とは、一言で言えば古代に生きた戦略家であり政治家です。
約1800年前、現在の中国がある地域に生きていました。


名前についてはこちら。古代中国の名前、「姓」「名」「字」について。「諸葛亮孔明」は間違い


西暦200年頃の古代中国は魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)の三国に分かれて戦争をしていました。
そのうちの蜀という国で、諸葛亮は防衛部門のトップを勤めました。劉備が蜀の皇帝となってからは首相を勤めています。


フィクションの『三国志/三国演義』での彼は、奇想天外な作戦を立てて敵を翻弄する天才作戦家として描かれているようです。
(筆者は『演義』系フィクションを読んだことがないので正確なことは分かりません、すみません)
『演義』という書物は彼の死後1000年後に編まれたものですが、実は生きている当時から「天才軍師」として騒がれ敵国に恐れられていたことはあまり知られていないようです。『三国演義』のベースとなる民間伝承は、彼の死後だけではなく生きている間から語られていたものと思います。参照:宇山先生、諸葛孔明を「天才」と祭り上げたのは司馬懿ではありません


ただ本人は下で書く通りいたって地味な人物でした。

 役職について、もう少し詳しく解説。→軍師とは何か



生い立ちと、大まかな生涯

sanko.gif明代に描かれた三顧の礼の様子、だそうです。パブリックドメイン

諸葛亮は西暦181年8月19日出生(光和4年7月23日生)。現在の山東省臨沂市(徐州琅邪郡陽都県)出身です。


諸葛家は代々役人を勤めた名家。祖先は諸葛豊。
父は珪、兄は七歳上の瑾、弟は均。亮と均は同じ両親の子ですが、瑾は異母兄だと私は考えています。
(「諸葛」は母方の姓と考えられます。そのため瑾について「祖先は諸葛豊」との記述がないのです。ウィキペディア等によく書かれる母親の姓はフィクション小説のものだと思われます。→異母兄と考える理由


名家の子として幼少期は何不自由なく育ちますが、幼い頃に父が死亡。
均とともに伯父の玄に引き取られ、12歳頃には伯父とともに彼の任地である南昌(長江を越えた南方)へ移住しました。
しかし養父である玄も間もなく死亡。(玄は豫章太守に就くが、朱皓との戦に敗れるか民衆の反乱に遭って死亡した。詳細不明)


伯父の死後、襄陽の親族と距離を置き、隆中という里で自給自足の思索生活を始めます。
亮が二十代半ばの頃、近隣の樊城に有名な武将である劉備が滞在していました。私の推測では親族からうるさく奨められ、劉備に目通りするため樊城へ行きますが、ここで劉備と言葉を交わし意気投合します。その後、三顧の礼を受けて出仕することになりました。


参考 →三顧礼の真相。本当にあった? なかった? 論理的に考えてみる


出仕後は劉備の補佐役・軍師として、劉備陣営の全般的な作戦立案を担当します。
フィクション小説のように出仕直後からいきなり活躍したわけではありません。ただし年を経るごとに、次第に重要な役回りを持つようになっていったと考えられます。


(なお諸葛亮が「天才」と呼ばれるようになったのは、荊州三郡の立て直しをして大変に評価が上がった頃からでしょう)


大きな戦闘や入蜀~国家樹立までの年表、詳細は省きます。年表だけはウィキペディアにも間違ったことは書かれていませんので参照してください。


以下の記事ではフィクション小説で誤解が浸透している話のみ、史実をご説明しています。


→赤壁戦の話はどこまで現実なのか? 他、三国志フィクションで誤解が浸透している話、本当のところ


劉備が王となり、後に蜀漢皇帝の座に就いたとき、亮は劉備から丞相の地位を賜っています。
西暦223年に劉備が亡くなった後は、後継の劉禅に従い、丞相として国家実務の全権・全責任を負いました。
その後、自ら兵を率いて南方を平定。
漢王朝復興のため数度にわたり北伐を行いますが、果たすことなく。
西暦234年9月末、満53歳で陣中にて死亡。過労死と言われています。


死後、敵将であった司馬懿が陣を見回り、「けだし天下の奇才なり」と称したことが今に伝わります。
国内では死後に亮の財産を調べたところ、自分で申告していた通りの僅かな財産しか持っていなかったことが分かり、人々は衝撃を受けたそうです(独裁に近い権力を持ちながら私腹を肥やさなかった人は、めずらしいため)。ということは、「天下の奇才」と言うよりは「天下の正直者※」との評価のほうが正しい気がします。 


吉川英治『諸葛菜』 :「実に、愚ともいえるほど正直な道をまっすぐに歩いた人であった。」




歴史家による人物評


陳寿など近い時代の歴史家評によれば諸葛亮の性格は次の言葉でまとめられるようです。

・忠義、公平、厳粛、無私
・法の運用において私情をはさまず、「忠義をつくして人民の利益をはかった者には、意見の対立した者でも厚く賞し」、「法度にそむき職責に怠慢な者は、親族であってもかならず処罰」するなど徹底的に公正だった
・臨機応変が不得手
・独特の発想をした(新奇の工夫が得意だった)

陳寿評の原文訳はこちらにあるので、参考にしてください。


エピソードに表れた人格

雲南省:孟獲の出身地、雲南省


歴史家の評は素晴らしい。しかし人間の個性は、何気ないエピソードに強く表れるもの。
この項目では各種逸話に表れた諸葛亮の性格を分析してみます。


・若い頃のエピソード

学習法として、重箱の隅を突くような暗誦を嫌い、テキストは一度読んだきりで読み返すことはなかった。学友たちが細かい学習にこだわり議論しているのを眺め、「君たちはそれだけ懸命に勉強しているのだから、少なくとも県知事にはなれると思うよ」と言った。

…これは本人が後に「県知事」を遥かに超える出世をしているため、「自分はお前らより優れている」との嫌味で言ったものと解釈されています。
私が思うに、ただ本心から「君たちは県知事になれる」と思ったのでそう言っただけでしょう。「必死で細部まで勉強している人たちは偉いな。自分には真似できない」という素直な感想です。
そうであっても、この態度はいけませんね。子供っぽい。
内心、出世にこだわり必死で勉強する人々(ガリ勉)を気の毒だと思う気持ちがあったのは否めないと思います。


・わりと細かかった晩年

『襄陽記』にいう。楊顒は字を子昭といい、楊儀の一族であった。蜀に入って、巴郡太守となり、丞相諸葛亮の主簿となった。諸葛亮があるときみずから金銭や穀物の出納簿を調べていると、楊顒はずかずかと入ってきて次のように諫言した、「行政には役割というものがあり、上下たがいに侵犯しあってはならないのです。どうか明公(※この場合は諸葛亮の事)のために、一家の仕組みをたとえに説明させて下さい。いまある人が奴隷に耕作を行なわせ、婢に炊事をまかなわせ、鶏に時を告げさせる役を、犬に盗人にむかって吠える役を、牛に重い荷物を背負わす役を、馬に遠方へ行く用をつとめさせますならば、各人の仕事には空白がなく、必要なことはすべて充足し、悠然と枕を高くして寝、飲み食いしていればすむのです。ところがある日突然、自分自身でそれらの仕事を何もかもやってのけ、二度と人まかせにしないで、自分の体力を労し、この煩雑な努めを行なおうとするならば、肉体は疲労し精神も困憊して、けっきょく何ひとつ仕上げられないでしょう。


(中略)
いま明公には政治を行うにあたり、手ずから出納簿をお調べになって、一日じゅう汗を流しておいでになられます。あまりにも労働過重ではないでしょうか。」諸葛亮は彼に陳謝した。のちに東曹属となって官吏の選考を司った。楊顒が死ぬと、諸葛亮は三日間涙を流し続けたのだった。



――『楊顒の逸話に見る諸葛亮の素直さとワーカホリック体質』

より再引用、感謝!(原文はちくま文庫『正史蜀書』。上記事が面白かったため引用リンクさせていただきました)

「孔明は細かい」と有名になった原因のエピソード。
私の感覚として完全なる史実だと思います。
命がけの軍事で怠慢を許せないのは当然のことですが、武器管理の現場に総司令官が乗り込んで行くのは……まずかったのではないでしょうか。現場担当者はたまったものではなかっただろうと想像します。



・でも、自分が悪いと思ったら素直に謝る


上にある通り、部下に叱られた事件の後、亮は「その通りだね。申し訳ない」と謝ったそうです。上記事から再び引用。

3について
そして素直に謝っちゃう諸葛亮。立場としては「うるせえな。ていうか、てめえらが役に立たねえから、こうして俺が調べてるんだろうが」と逆ギレする事も可能ですが、そこを「え、あ、ゴメン。てか、サーセン」と謝る所がまた凄い。まあ、様々な文献を読んでいていも、傲慢さを伺わせる記述はまず目にしませんので、もしかしたら想像以上に素直な人だったのかも知れないと思ってみたり。
笑……素直は素直なのかもしれない。


通常、権力者は下位の者に意見されたら怒るのかもしれません。
ネットの反応を見ると、「お偉いさんなのに謝ってんじゃねーよ」と諸葛亮を非難する声があるのですが、当時も周りから「おかしい」と思われたでしょう。
このエピソードからは、諸葛亮が自分に意見したというだけのことで他人を断罪するタイプではなかったことが分かります。人や立場ではなく、意見の内容を客観的に判断したと言えます。
しかしおそらく自分がそうであるために、他人も全てを客観的・合理的に判断できると考えていたはずです。
上下も立場も気にせず誰に対しても平等に接し、「合理」優先で意見したために、生じた軋轢は多々あったと思われます。



・友人でも処罰する


法的安定性を何より重視しました。→法的安定性とは
泣いて馬謖を斬る」の故事はとても有名のようですが、その行いから「怖い」「冷血ロボット」のイメージがあります。
「冷血ロボット」の評価は正しいのかもしれません。
ただし実際は、法文に対して杓子定規というわけではなく、諸葛亮本人が「処罰は罪に応じて適宜に」と述べている通りケースバイケース(法理論に基づき・過去の判例相当に照らし)で判断していたものと思われます。
なお現代の歴史家が、「諸葛亮は保身のためにライバルを次々と粛清していた」と言っていますが、捏造の誹謗中傷です。そのような記録は一切ありません。



・自分が悪いと思ったら自ら降格もする


上に同じ。
友人であろうと、自分自身であろうと、対応は同等。
立場ではなく「実際に犯された罪・責任」という中身で「適宜」の処罰を考えました。
(現にロボットと呼ばれる筆者が言うのも何ですが)まるでAIです。



・でも実際は、泣いてばかりいる


やたらと「泣いた」エピソードが多い。多過ぎる。
情にもろいのか、ロボットなのかはっきりして欲しい。
(本人的にはこの「泣いた」エピソードの多さ、恥ずかしいでしょう……)
おそらく情に弱いくせに行いがロボットなので、なおさら辛かったのだと思います。


上の方、
>しかし、この御仁はよく泣くなあ。
>この時代の人間はちょっと何かあれば泣くのがデフォルトなのか・・・?
いや、違うと思います……。笑


こんなカルタにまでなっている。痛い。
「意外とよく泣く名軍師」
→人生は格言だ!~横山光輝「三国志」武将かるた



・反乱を起こした少数民族と対等に戦い、対等な話し合いをした


蜀の南方で少数民族の反乱が起きたときに、諸葛亮は自分で軍を率いて反乱を治めました。
そもそも少数民族の反乱に国家の首相が自分で出向く、ということはあり得ない非常識です。ただ、少数民族だろうと蜀だろうと同じ「集団の代表者」ですから、代表同士で話をしなければならないというのが諸葛亮の考えでした。
軍力は対等ではありませんので当然ながら蜀が圧勝し、敵方のリーダー孟獲は捕らえられます。しかし、諸葛亮は彼を捕虜とともに解放しています。
その後、孟獲は幾度も蜀軍に挑むがそのたびに捕らえられ、同じく解放されたことから諸葛亮に心服したとされています。


このエピソードは「七度捕らえ七度放す(七縦七擒)」という諺になっています。
七回というのは少し大げさだと思いますが、捕らえた孟獲と捕虜を解放したのは間違いなく史実です。
孟獲が話し合いに応じたのは、反乱を起こした自分たちを人として扱って解放したことと、何より「首相が自分で話し合いに来た」ということが大きかったのではと思います。


なおこの話は馬謖が進言したことになっていますが、諸葛亮の長年の考えも同様のものであり、信念として一貫しています。
 参考。当ブログ内パスワード記事: 本音。そもそも、「七縦七擒」を馬謖が進言したことになっている史書が不可解なのだが…
(馬謖の唯一の手柄であるかのように語られているこのエピソード、中国では反対に非常識とされるため、史書では馬謖に責任を負わせたものではないかという推測)


「心を攻めろ」
とは懐柔策を意味するのではなく、相手を人間として対等に扱う、という意味です。
 関連する話。韋皋という「孔明の生まれ変わり」



見た目には、そんなに凄い感じじゃない

kimon.gif:一般に描かれる諸葛亮のイメージですが、白羽扇はフィクション。この画像は『時空旅人』より引用


これは載せるかどうか迷いましたが、「孔明ってどんな人?」という質問に最も正確に答えるエピソードだと思うので追加しておきます。


三国時代が過ぎて晋の時代。
東晋の武将、桓温という人が蜀に入ったとき、諸葛亮が生きていたときに下級役人を勤めていたという百歳を超える老人の噂を耳にしました。
桓温は興味を覚え、この老人を招いて尋ねています。
「諸葛丞相は、今で言えば誰と比べられるか?」
すると老人は首を傾げてしばらく考え込んだ後、こう答えました。
「諸葛丞相が存命中の時はそれほど特別で偉そうな方には見えませんでした。(質問者の左右に立つ家臣たちを見て、)あなたの横にいる方々のほうがよほど立派で偉い方のように見えます。しかし諸葛丞相がお亡くなりになられてからは、あの方のような人はこの先、もう二度と表れないのではと思うのです」


このエピソードは、『説郛』に収める殷芸『小説』の中に収められているそうです。ウィキペディア(アーカイブ)
西暦347年の出来事とありますが、諸葛亮は234年に死んでいますので、死後113年も過ぎています。老人が二十歳で役人を勤めていたとすれば133歳です。たまにとんでもなく長寿の人はいるからあり得なくはないものの、事実かどうか微妙な年齢です。もしかしたら年代やシチュエーションはフィクションなのかもしれません。


しかし内容はフィクションではないと思います。
実際に若い頃、諸葛亮の近くで勤めていたことのある誰かが現実に語った話でしょう。私が長年、記録と向き合って来たなかで、最も真実を感じて感動を覚えたエピソードです。


諸葛亮はおそらく、
>それほど特別で偉そうな方には見えませんでした。
と思えたでしょう。
どちらかというと気弱で地味なタイプです。だから見た目には偉そうでも凄そうでもなく、どこにでもいる下級役人のように見えたのではないでしょうか。
(占星術で見れば内面は変人なので、少し付き合えば「変わっている」と感じるかもしれませんが)


つまり現代で言うところの、「全くオーラのない」人です。笑
だからおそらく「スゴイ人」を期待して諸葛亮に会う人は、ひどく落胆したのではないかと思います。気の毒に。


しかし
>諸葛丞相がお亡くなりになられてからは、あの方のような人はこの先、もう二度と表れないのではと思うのです
というところ、諸葛亮は嬉しいでしょう。


「凄い人だ」と褒めるのでもなく崇めるのでもなく。
対等に、ただ一個の人間として存在を認める。
これほど高度な人間の誠実が表れた評価は、他の歴史人物の記録でも見たことがないと思います。


心が温かくなるエピソードでした。
諸葛亮の魂はこの無名の老人の評価によって、救われたと思います。



【参考文献】


陳寿『蜀志~諸葛亮伝』及び裴松之註

他、2019年 お奨め記事
 ・東洋のシンデレラは、白馬に乗ったオジサンに迎えられた(三顧礼の真相2)
 ・劉備と諸葛亮の信頼は嘘だった? 「君可自取(君が政権を取れ)」遺言の真相

後書き。何故、この記事を書いたか

私としては最近この人物の話ばかりしていて、恥ずかしい。でも頑張って書いているのは、読者様サービスのためと、政治的な黒い思惑による人物評の歪みを知ったからです。
(独裁政治を賛美するために、諸葛亮を妄想的な悪口で貶めたうえ、「諸葛亮も我らが曹操様を目指していた。諸葛亮も独裁者だった」という話を捏造している者たちがいること)
政治が、純粋なる人々の精神文化を汚すことを許してはなりません。そう思って亮の真実を書くことを自分に強いている次第です。



関連:三国志ジャンルの捏造記事について +蜀ファンへメッセージ
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吉野 圭-Yoshino Kei
Posted by吉野 圭-Yoshino Kei


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