2018
Apr
30
-
【セミナー、宗教】目に見えない欲にはまる人々へ。貪らず、まっとうに生きて欲しい
21/10/17追記:この記事で使っている「まっとうな」とは、某政党が掲げるキャッチコピーとは無関係です。
糖質制限やヴィーガンなどを眺めていても感じるのだけど、最近「まっとうに生きている」大人が少ないね。
四十代~五十代が目も当てられないくらいガキなのは恥ずかしい。安易な生き方をしており、欲望にブレーキを利かせられなくなっている大人が多いという気がする。
前記事では奇妙な健康法が流行る原因を
「不安で不安で仕方がなく、心の拠り所がないので、何か一つの主義を信じてすがりたいのだろう。」
と書いた。
でもその前にやはり、欲が深過ぎることが第一の原因であると私は思う。(これも確か他記事で書いた)
求める欲が満たされないからこそ不安になり、焦燥感にかられ、今すぐ簡単に満足させてくれそうなものに飛びつくのでは。
ちなみに健康法にはまる人たちの欲とは、他記事で書いたことを繰り返すと
他人を出し抜きたい、他人より優位に立ちたい
というもの。
カルト宗教にはまる人たちの欲もこれに同じ。
一般に卑しいと思われがちな「性欲」や「金欲」「物欲」とは違い、目に見えず本人も無自覚だからやっかいだ。自分たちはストイックに、ランクアップするために努力しているから偉いのだとすら思っている。
彼ら彼女らは、いつも他人と張り合っているように見えるので
「あなたは競争心が強いんですね?」
と訊ねてみれば全力で否定する。どころか、「我々よりも禁欲的な人間はいない」と仰る。
でも、実は潜在的に物欲など目に見える欲もある人たちで、
「若い頃はさんざん欲を貪り、遊びました」
と言う人たちも多い。
反省してカルト宗教に入り修行を始めたとか、禁欲的な食事制限を始めたなどと自慢するのだが、……それは欲望の対象が物欲から競争欲へと切り替わっただけだよと言いたい。
つまり、対象が何であるにしろ欲望が他人よりも少し強めの人々だ、ということは間違いない。
私は欲望を全否定する者ではない。
人間には欲があって当然、むしろ欲は必要不可欠。
欲がなければ子孫も増やせない。いや、生存すらできなくなる。
田口ランディ『コンセント』で描かれたように、ある日突然に全ての欲を失いスイッチが切れたように生きることをやめてしまう人も実在する。こうなってしまったらまずい。
人間は動物であり生命体なのだから、生きるために適度な欲を原動力として動いていく必要がある。
私自身のことを言えば、おそらく生まれつき欲の少ないタイプの人間。幼児の時、あまりにも食べないので親が食事を摂らせることに苦労したらしい。
現在も日々モチベーションを上げるのに苦労している。
脳内ホルモンの話をしたときにも書いた通り、どうやらドーパミンが少ないせいで体調不良まで起こしていると推測される。
今後、私の目標としてはもう少し適度な欲を持ち、生きていて楽しいと感じられる瞬間を得たい。
(なんて低レベルな人生目標……)
これはこれでダメな人だから、どうか私の真似はしないでください。笑
こういうタイプなので私は自分とは対照的な、パワフルに楽しく元気一杯に生きている人には憧れる。
ただし、あくまでも人として「まっとう」であることが尊敬の条件。
自分の趣味や仕事にまっしぐらでパワフルであっても、決してルーズではなく、生き方には真面目である人を尊敬する。
私生活で欲望に歯止めが利かなくなっている人は軽蔑するし、関わりたくないと思う。
アルコール依存や性生活の乱れは論外だが、カルト宗教や妙な健康法にはまるなど、自覚なく欲望を貪っている人たちも危険で迷惑な存在と感じる。
この自覚のない欲深さんたちは楽観的なために、私生活はたいていルーズ。
四十代、五十代で
「年金なんか払う必要がない」
「保険? 必要ない」
と仰るのだから呆れる。
苦言を呈すれば
「誰にも迷惑かけていないから放っといてよ」
と十代思春期の子みたいな言葉を返すのだが、自分の行いが周囲に迷惑をかけることに気付いていない(友人・家族に迷惑をかけるだけではない。妙な健康法にはまり無駄に医療費を増やすことで全国民へ間接的に負担をかける。いずれ生活保護で…以下同じ)。
気付いていないこと自体が、本当に子供だと思う。
いいかげん、我慢することを覚え、まっとうに生きて欲しい。
ここへ来られる方の多くは“スピリチュアル”を求めているが、スピリチュアルも上に書いた人々にとっては
「他人を出し抜く裏技」
に思えて欲を刺激するらしい。
(だから実際、健康法にはまる人たちがスピリチュアルや宗教に中毒することが多い。その逆もあり)
だけどスピリチュアルの究極の答えは、
まっとうに生きること
ですよ。
何度も書くけど。
たとえば輪廻転生の記憶を探れば、最終的に
「今をまっとうに生きるべし」
という答えに行き着く。
何か特殊な、人生一発逆転させる裏技を求めてここへ来る人は、私が「まっとうに生きろ」という話をすると退屈を覚えて私をバカにするのだが。
それが宇宙の真理であり、求める完結の最も近い道なのだけどね。
参考 ⇒「死後の世界の記憶がある人のスレ」より、現世は人間としてまっとうに生きること
この記事も参考になるかも。安易な話ばかりに中毒するな、という話 ⇒危険なスピリチュアル、「色即是空」の甘い罠
ちなみに「まっとう」とは、人徳の高い聖人君子にならなければならない、という意味ではない。
適度な楽しみを持ち、適度に我慢をし、やるべきことをやる。――ただそれだけ。
完璧な人間である必要はない。誤ってもいい。ただ、自己中心的に欲を貪ってはいけないと思う。
私も聖人君子ではないし、完璧な人間ではない。でも他人の物まで奪って貪ろうとは思わない。そして自分のできることには誠実でありたいと思っている。
誰もが自分のできる範囲で、貪らず誠実に生きていけばいいと思うんだ。それで地球はうまく回る。
たったそれだけのことなのに、欲が深過ぎるためにできないという大人が多いのが嘆かわしいな。
【関連記事】
「一括り」に考えてはならないことと、同じと考えるべきこと
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まっとうに生きている大人が少ない現代
糖質制限やヴィーガンなどを眺めていても感じるのだけど、最近「まっとうに生きている」大人が少ないね。
四十代~五十代が目も当てられないくらいガキなのは恥ずかしい。安易な生き方をしており、欲望にブレーキを利かせられなくなっている大人が多いという気がする。
前記事では奇妙な健康法が流行る原因を
「不安で不安で仕方がなく、心の拠り所がないので、何か一つの主義を信じてすがりたいのだろう。」
と書いた。
でもその前にやはり、欲が深過ぎることが第一の原因であると私は思う。(これも確か他記事で書いた)
求める欲が満たされないからこそ不安になり、焦燥感にかられ、今すぐ簡単に満足させてくれそうなものに飛びつくのでは。
ちなみに健康法にはまる人たちの欲とは、他記事で書いたことを繰り返すと
他人を出し抜きたい、他人より優位に立ちたい
というもの。
カルト宗教にはまる人たちの欲もこれに同じ。
一般に卑しいと思われがちな「性欲」や「金欲」「物欲」とは違い、目に見えず本人も無自覚だからやっかいだ。自分たちはストイックに、ランクアップするために努力しているから偉いのだとすら思っている。
彼ら彼女らは、いつも他人と張り合っているように見えるので
「あなたは競争心が強いんですね?」
と訊ねてみれば全力で否定する。どころか、「我々よりも禁欲的な人間はいない」と仰る。
でも、実は潜在的に物欲など目に見える欲もある人たちで、
「若い頃はさんざん欲を貪り、遊びました」
と言う人たちも多い。
反省してカルト宗教に入り修行を始めたとか、禁欲的な食事制限を始めたなどと自慢するのだが、……それは欲望の対象が物欲から競争欲へと切り替わっただけだよと言いたい。
つまり、対象が何であるにしろ欲望が他人よりも少し強めの人々だ、ということは間違いない。
欲望を全否定するわけではない
私は欲望を全否定する者ではない。
人間には欲があって当然、むしろ欲は必要不可欠。
欲がなければ子孫も増やせない。いや、生存すらできなくなる。
田口ランディ『コンセント』で描かれたように、ある日突然に全ての欲を失いスイッチが切れたように生きることをやめてしまう人も実在する。こうなってしまったらまずい。
人間は動物であり生命体なのだから、生きるために適度な欲を原動力として動いていく必要がある。
私自身のことを言えば、おそらく生まれつき欲の少ないタイプの人間。幼児の時、あまりにも食べないので親が食事を摂らせることに苦労したらしい。
現在も日々モチベーションを上げるのに苦労している。
脳内ホルモンの話をしたときにも書いた通り、どうやらドーパミンが少ないせいで体調不良まで起こしていると推測される。
今後、私の目標としてはもう少し適度な欲を持ち、生きていて楽しいと感じられる瞬間を得たい。
(なんて低レベルな人生目標……)
これはこれでダメな人だから、どうか私の真似はしないでください。笑
こういうタイプなので私は自分とは対照的な、パワフルに楽しく元気一杯に生きている人には憧れる。
ただし、あくまでも人として「まっとう」であることが尊敬の条件。
自分の趣味や仕事にまっしぐらでパワフルであっても、決してルーズではなく、生き方には真面目である人を尊敬する。
私生活で欲望に歯止めが利かなくなっている人は軽蔑するし、関わりたくないと思う。
アルコール依存や性生活の乱れは論外だが、カルト宗教や妙な健康法にはまるなど、自覚なく欲望を貪っている人たちも危険で迷惑な存在と感じる。
この自覚のない欲深さんたちは楽観的なために、私生活はたいていルーズ。
四十代、五十代で
「年金なんか払う必要がない」
「保険? 必要ない」
と仰るのだから呆れる。
苦言を呈すれば
「誰にも迷惑かけていないから放っといてよ」
と十代思春期の子みたいな言葉を返すのだが、自分の行いが周囲に迷惑をかけることに気付いていない(友人・家族に迷惑をかけるだけではない。妙な健康法にはまり無駄に医療費を増やすことで全国民へ間接的に負担をかける。いずれ生活保護で…以下同じ)。
気付いていないこと自体が、本当に子供だと思う。
いいかげん、我慢することを覚え、まっとうに生きて欲しい。
スピリチュアルも適度に。過剰は何事も危険
ここへ来られる方の多くは“スピリチュアル”を求めているが、スピリチュアルも上に書いた人々にとっては
「他人を出し抜く裏技」
に思えて欲を刺激するらしい。
(だから実際、健康法にはまる人たちがスピリチュアルや宗教に中毒することが多い。その逆もあり)
だけどスピリチュアルの究極の答えは、
まっとうに生きること
ですよ。
何度も書くけど。
たとえば輪廻転生の記憶を探れば、最終的に
「今をまっとうに生きるべし」
という答えに行き着く。
何か特殊な、人生一発逆転させる裏技を求めてここへ来る人は、私が「まっとうに生きろ」という話をすると退屈を覚えて私をバカにするのだが。
それが宇宙の真理であり、求める完結の最も近い道なのだけどね。
参考 ⇒「死後の世界の記憶がある人のスレ」より、現世は人間としてまっとうに生きること
この記事も参考になるかも。安易な話ばかりに中毒するな、という話 ⇒危険なスピリチュアル、「色即是空」の甘い罠
ちなみに「まっとう」とは、人徳の高い聖人君子にならなければならない、という意味ではない。
適度な楽しみを持ち、適度に我慢をし、やるべきことをやる。――ただそれだけ。
完璧な人間である必要はない。誤ってもいい。ただ、自己中心的に欲を貪ってはいけないと思う。
私も聖人君子ではないし、完璧な人間ではない。でも他人の物まで奪って貪ろうとは思わない。そして自分のできることには誠実でありたいと思っている。
誰もが自分のできる範囲で、貪らず誠実に生きていけばいいと思うんだ。それで地球はうまく回る。
たったそれだけのことなのに、欲が深過ぎるためにできないという大人が多いのが嘆かわしいな。
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