他、作品の裏話・創作について

    「清貧」がコンプレックスだったという告白。欲もバランス、たまの美食くらいOK

    『側坐核が働き過ぎると嘘つきになる』という記事で、うっかり
    「自分は側坐核が弱いから、嘘はつけない。性根から清貧」
    などと書いてしまい恥ずかしくなって頭を抱えていた。笑
    自虐のギャグのつもりだったのだけど、たぶん自虐が伝わらずに、“コイツ自分で自分のこと清貧だと思ってる”と思われただろうな……。
    不快に思われた方がいたら、すみません。
    (今は移動し、この箇所はカット)

    それにしても現代で「清貧」は、はたして誉め言葉なのだろうか?
    「清貧」が誉め言葉だったのは昭和初期、いや第二次大戦中が最後だったと思う。
    現代では欲が強くて積極的な人のほうが偉いと称賛されるね。

    私はずっと、欲がなく消極的であることを大人たちに叱られてきたし、同じ年の子たちからもバカにされて育った。
    「自己主張できないお前はゴミ」
    と言われ、自分でもその通りだと信じてコンプレックスを抱いてきた。

    自分のようなキャラクターの人間が生きていてもいい、と思えたのは、やはり前世記憶を得てからなのだよね。

    いや、もっと正確に言うと、『我傍』主人公のモデルとした人物の記録を読んでから。
    彼が残した文の中には頻繁に
    「欲を貪る人間であってはならない」
    「見栄を張って高級な服に身を包むべきではない」
    などという文言が出てくる。これが完全に私と同じ意見だったことは衝撃だった。
    そして、それが書かれた当時から二千年近くの間、その価値観が否定されもせずむしろ認められてきたという事実に涙が出た。
    異次元の考えだけど、自分自身が認められたように思えたのだった。
    たとえ自分とは関係ないとしても――自分と同じ価値観が認められたという長い歴史が、現実に存在したわけだ。
    これはとてつもなく強力な自己肯定となった。

    その後、現代でも注意深く見渡せば自分と同じ価値観の人たちが密かに存在していることに、少しずつ気付いていった。
    欲を貪る現代人を、眉をひそめて見ている人たちは少数ながら存在する。
    この人たちを孤独にしないために自分は今この場に生きているのでは、とさえ感じる。

    消極的で・自己主張せず・欲がないために底辺で生きている私のような人間は、確かに現代では「無価値なゴミ」と呼ばれるのかもしれない。
    実際、抑うつ的な気分が過ぎて体調不良まで起こしている状態ではまずい。
    このままでは健康を害し、他人様に迷惑もかける。もう少し気力を出していかねばと思う。

    でも、な。
    現代人があまりにも際限なく欲を貪り過ぎであることは確か。
    個々人も身の破滅を招くだろうし、人類全体の滅亡も避けられない。
    皆さんは今よりほんの少しくらい、「清貧」を取り入れてもいいのではないか?

    地味で貪らない生き方を
    「戦時中か!」
    などとバカにしていないで、今の人類は破綻寸前であることに気付いて欲しい。
    いい加減に危機感が必要だ。


    このようなことを意識しないで思い出した(イメージが浮かんできた)のが、『永遠の雨~』第五話『水の底の楽園』のストーリー。

    記憶のなかで“私”は、
    「欲を貪るな!」
    と人々に訴えていた。
    自分らしいイメージだなと思ったし、仮に現実の過去世記憶だとしたらどれだけ長い間ワンパターンなんだよ(笑)と思った。
    と言うよりも、人々の欲望を止められなかったために悲劇的結末を招いたことがあまりにもショックで、他人の強欲に対して潔癖とも呼ばれるほど敏感に反応してしまうのかもしれないが。
    (そう考えるほうが全体のストーリーとしては筋が通る。脳が創ったフィクションだとしても整合性が出る)

    だけどこの第五話を読み、さらに筆者のブログ等々での「欲を貪るな」発言を目にした方は、ほんの少しの欲も私が許さないと思ってしまわれるかもしれない。
    私に対し、
    “息の詰まる規律”
    を強いる、修道士のようなキャラクターイメージを持つ方も多いのでは。

    先日、『永遠』第五話を読まれた方から次のようなメッセージを頂き、反省した。
    自分自身、欲にまみれている、水の都の人々のようだなと感じました。
    私は食べることが好きで、美味しいものを食べるために旅行に行くことが多々あります。
    あまりにも「欲を貪るな」と言い過ぎてしまったかもしれない。

    適度で健全な欲は構わないと思う。むしろ、必要。
    時々旅行に出かけ、美味しいものを食べる程度なら心と身体の健康に良いし、その土地の生産者にも貢献する。良い趣味だと思います、ぜひ続けていただきたい。
    それに心から本当に「美味しい」と思うものを大切に食べることは、自然の恵みに感謝できる行いであるはず。

    私が常々思うのは、何事も極端であってはいけないということ。
    「全ての欲を禁じる」こともまた極端な行いであるはずだ。
    心身が本当の意味で健康になり、魂から幸福になるようなことを行うのは、自然と同調して命を大切にする素敵な行為だと思う。

    現代人の行いで眉をひそめるのは、心身を壊して地球も破滅させるまで欲望を貪らなければ気が済まないこと。
    奇妙な健康法にはまって身体を壊すまで続けたり、足りているのに買い続けることをやめられず大量の食材を廃棄したり、等々の行い。
    ひたすら自己中心的で、他の動植物を滅ぼすほどの極端な欲について「いい加減にしろ」と言いたくなる。
    なかなか伝えるのが難しいのだけど、「目に余る横暴な行い」についてだけ私は怒っているので、あまり潔癖だと思わないでいただきたいな。

    要はバランス。
    なんでも適度に、ということ。
    「いい加減」(良い加減)で生きよう。

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